切れない糸を見て、僕はとうとう売る話を始めてしまった
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井戸端の演説から三日。
村の中で、僕の立ち位置は決まったらしい。
畑で隣になっても誰も話しかけてこない。鎌を研ぐ順番を待つときも、一つ分の間が空く。
殴られるわけでも、追い出されるわけでもない。ただ、透明になる。
構わない。僕が欲しいのは共感じゃない。売れるものだ。
昼の賦役を終えて小屋に戻ると、イェニーが鍋の前にいた。
薄い粥をかき混ぜている。湯気に麦の匂いが混じっている。鍋底をこする木匙の音が、静かな小屋に響いていた。
「母さん」
「うん?」
「……父さんは、怒りっぽかったの?」
イェニーの手が止まった。
一瞬だけだった。すぐに木匙が動き出す。
「なんで急に」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
イェニーは粥をよそいながら、しばらく黙っていた。
椀を差し出すとき、ぽつりと言った。
「……怒りっぽかったよ」
木匙を鍋の縁に置いた。
「普請で石を運ぶとき、若い者の分まで背負って、それで怒ってた。帰ってきたら疲れてて、それでまた怒ってた」
「何に怒ってたの」
「さあね。口にはしなかったよ。口にしたって、翌朝の普請がなくなるわけじゃないから」
イェニーは自分の椀に粥をよそった。僕のより薄い。いつもそうだ。
「聞いたらきっと、うまく言えなかったと思うよ。あの人はそういう人だった」
怒りを持っていた。だが、言葉にする術がなかった。
粥が喉を落ちていく。ぬるくて薄い。
父の怒りは、どこにも届かないまま、普請の木材の下に埋もれた。
昼過ぎ、薪を探しに村外れの森の入口まで歩いた。
林の手前で、しゃがんでいる人影が見えた。
赤い髪。
ローザだった。
枯れ枝を拾い集めて、膝の上で束にしている。裸足の足先が泥で汚れていた。指の腫れは相変わらずだ。
僕に気づいて、手を止めずに顔だけ上げた。
「また来たの」
「薪だよ。うちも足りなくて」
「ふうん」
興味なさそうに視線を戻した。
僕は少し離れた場所でしゃがんで、枯れ枝を拾い始めた。
乾いた木の匂いと、湿った土の匂いが混じっている。鳥が一羽、高い枝の上で鳴いた。
黙って枝を拾う。ローザも黙って枝を拾っている。
しばらくして、僕は口を開いた。
「……聞いていいかな」
「何」
「この辺の森、いつもこのくらい枝が落ちてるのかな」
「冬の終わりは風が強いから多い」
短い。だが嫌がってはいない。
前の僕なら、ここで理論をぶつけていた。祝福の配分がどうとか、賦役の構造がどうとか。
だがあの井戸端で学んだ。
理屈は腹を満たさない。
「ローザは、いつもひとりで薪を集めてるの」
「そうだけど」
「隣の——婆さんのところは、手伝ってくれないのかな」
「あたしがやった方が早いから」
ローザは枝を束にまとめながら、膝の間に挟んだ何かを弄っていた。
糸だった。
拾った枝を縛るための糸を、手持ち無沙汰に指先で紡いでいる。
会話の合間に、無意識にやっているらしい。
「……君の母さんのこと、イェニーから少し聞いた」
ローザの指が止まった。
一瞬だった。すぐに糸を紡ぐ動きが戻る。
「何を聞いたの」
「風邪をこじらせて、長引いたと」
「咳が止まらなくなって、それで終わった」
「治癒の祝福は来なかったの」
「農奴の家には来ないよ」
当たり前のことを聞くな、という顔だった。
「最後の方、母さんの手がすごく冷たくて、あたしが握っても温まらなかった」
それだけ言って、ローザは立ち上がった。
僕も立ち上がった。膝の裏に泥がついている。
ローザの手元を見た。
さっきまで紡いでいた糸が、薪の束を縛っている。
束が、妙にしっかりしていた。
枯れ枝の束は普通、縛ってもすぐに崩れる。枝の太さがばらばらだし、樹皮がごそごそして滑る。
だが、ローザの束は崩れていない。
糸が枝に食い込むように密着して、結び目が一切緩んでいなかった。
「その糸」
「何?」
「自分で紡いだの」
「麻の屑糸を紡ぎ直しただけ」
僕は手を伸ばして、束から垂れた糸の端を指で摘んだ。
引っ張った。繊維が軋む小さな音がした。
切れない。引っ張っても切れない。
端の方には甘い箇所もある。完璧ではない。
それでも、屑糸を紡ぎ直しただけにしては強すぎた。
「……丈夫だね」
「慣れてるだけ」
ローザは糸の端を僕の手から引き抜いた。
その瞬間、記憶が蘇った。
あの日の賦役の帰り道。ローザが差し出した革袋。中の水が温かかった。夕方の、日陰に置いてあった革袋の水が。
二つの違和感が、頭の中で並んだ。
温かい水。切れない糸。
どちらも、ローザの手を通っている。
ローザの手を通ると、何かが変わる。それだけは確かだ。
次に確かめなければならないことがある。だが今は、この糸だ。
僕はその疑問を保留した。糸の端を指でたどった。弱い部分を確かめるように。
代わりに、糸そのものを見た。
丈夫で、太さが均一で、量が紡げる。
(これは——売れる)
使い道は明らかだ。丈夫な糸。どんな布にも使える。縄にも使える。
だが、この村では売れない。この村には市場がない。物を金で買う習慣がない。
村の外なら、どうだ。
行商人が来る。布を買いに来る人間がいるとイェニーが言っていた。布を買うなら、糸も要る。丈夫な糸なら、なおさら。
ローザは僕の顔を見ていた。
「何。変な顔してる」
「いや——その糸、もっと紡げるかな」
「紡げるけど。何に使うの」
「売るんだ」
ローザの眉が寄った。
「売る? 誰に?」
「行商人だよ。村の外から来る」
「……あたしの糸を?」
「ローザの糸は、普通じゃない。それだけの品質がある」
ローザは薪の束を背負い直した。
「あんた、また変なこと言い出してる」
「変じゃない。ローザの糸は、外で売れるかもしれない」
「あたしの糸で、食い扶持が増える——って話?」
ローザは数秒、僕の目を見ていた。
「考えとく」
それだけ言って、薪の束を背負ったまま歩いていった。裸足の足跡が湿った土に残る。
息を吐いた。止めていたらしい。
僕はその背中を見送った。
夜。小屋の中。
イェニーはもう寝ている。薄い毛布の下で、静かな寝息が聞こえる。
僕は壁際に座って、膝の上に手を置いていた。
ローザの糸のことを考えている。
あの糸は異常だった。屑糸を紡ぎ直しただけで、あの強度。
あの祝福の日、村人が膝をついただけで疲れた顔をしていた。あの力と、ローザの手が生む力。今はそれを掘り下げるときじゃない。
壁に手をついた。土壁が冷たい。
今、手元にあるのは事実だけだ。ローザの糸は丈夫で、量が紡げる。
だが、この村の中では売れない。市場がない。
村の外に持ち出せば——行商人が要る。
一度、息を吐いた。
前提は脆い。行商人が来なかったら。ローザが断ったら。当たる前提で動くのは危ない。だから、先に確かめることを並べる。
イェニーが寝返りを打った。毛布の擦れる音がした。
「……ムーア? まだ起きてるの」
「うん。起こしちゃった?」
「何ブツブツ言ってたの」
「……考え事だよ。寝てて」
イェニーはしばらくこちらを見ていた。暗がりの中で、何か言いかけて、やめた顔をした。また毛布を引き上げる。寝息がすぐに戻る。小屋の隙間から入る夜風が、首筋を撫でた。
三つ。この村には行商人との定期的な接点がない。
——これは明日、イェニーに聞く。
膝の上で拳を握った。
昨日まで、僕の手の中には理論しかなかった。
今日、初めて——物がある。
ローザの糸。一束。
たった一束の糸だが、これは理論じゃない。手で触れる。
糸の感触が、まだ指の腹に残っている。
引っ張れば抵抗がある。切れない。
塩が手に入れば、イェニーの粥が少しだけ変わる。
種は一粒あればいい。
止めた。
土壁に背中を預けた。肩甲骨に染みる冷たさが、熱を持った頭を少しだけ戻した。
最悪の宿題は、まだ続いている。
膝の上で指を組み直した。
壮大な回路の設計図を描く前に、明日やることを決めろ。
一つ。行商人がいつ来るか確認する。
二つ。ローザに糸をもう少し紡いでもらえるか頼む。
三つ。糸の品質を他の農奴の糸と比較する。
四つ。全部失敗した場合の代替案を考える。糸が駄目なら、何が売れる。——今の僕には答えがない。それ自体が問題だ。
四つだけだ。それ以上は、今の僕には早い。
遠くで虫が鳴いている。
夜明け前に目が覚めた。
小屋の中はまだ暗い。窓の隙間から、空が灰色に白み始めている。
イェニーが竈に火を入れていた。乾いた薪がぱちりと弾ける音がする。
「早いね」
「うん。……母さん、ひとつ聞いていいかな」
「うん?」
「行商って、いつ来るの」
イェニーは火を吹きながら考えた。
「秋の終わりに布を売りに来る人がいたけど……去年は来なかったかな。一昨年は来たよ。塩と針を持ってきて、布と交換してくれた。塩ひと握りで、村中が大騒ぎだったよ」
「毎年は来ないの」
「来たり来なかったり。道が悪いときは来ないし、伯さまの通行の許可がいるときもあるから」
通行の許可。障害がまた一つ増えた。だが、来ることは来る。
「その行商人は、どこから来るの」
「さあ……西の方、とは聞いたけど。山を二つ越えた先に大きな村があるって」
「名前は?」
「バスティアの旦那、って皆呼んでたかな」
バスティア。行商人の名前。西の大きな村。山を二つ。
情報が少ない。だが、ゼロではなくなった。
「秋の終わりか……」
「そうだね。収穫が終わった後くらい」
今は冬の終わり。春が来て、夏があって、秋。
半年以上ある。長い。長すぎる。
だが、短すぎるよりはましだ。糸を貯める時間にも、試す時間にもなる。
イェニーが粥をよそった。今朝の粥は少しだけ濃い。昨日の残りに麦を足したらしい。
湯気の匂いが鼻を撫でた。
「ありがとう、母さん」
「何が」
「行商のこと」
イェニーは不思議そうな顔をした。だが、それ以上は聞かなかった。
粥を食べ終えて、小屋の外に出た。
夜明けの空気が冷たい。吐く息が白い。畑の向こうに、朝焼けの端が見えている。
腰に手を当てて、空を見上げた。朝焼けの光が目を刺す。冷たい空気が肺の奥まで沁みた。
あの丘では叫んだ。万国の労働者よ、団結せよ——と。
今日は叫ばない。
手の中に、まだ何もない。だが、何を掴むかは見えている。
ローザの糸。行商人バスティア。秋の終わり。
必要なものは見えた。あとは一つずつ揃えるだけだ。
僕は小屋に戻って、壁に立てかけてあった鎌を取った。
今日も賦役がある。鐘が鳴る前に畑に出なければならない。
だが、鎌を握る手の感触が、昨日とは違った。
昨日までは、ただ振るだけの道具だった。
今日からは、秋まで持ちこたえるための道具だ。
同じ鎌。同じ手。同じ賦役。
違うのは、その先に何があるかを知っていること。
畑道を歩き始めた。朝露が裸足の指に冷たい。
遠くで、鐘が鳴り始めた。
行商人が来るのは秋の終わり。来ないかもしれない。ローザが糸を紡いでくれるかもわからない。グリュンの目は、いつも帳面の上にある。
半年。この手で変えられることが、半年のうちにどれだけあるか。
鐘の音が畑に響いている。今日もまず、領主の畑を耕すところから始まる。
展開自体は決めているもののローザをどんな感じにしたものかを細部を悩みながら書いています。
いずれ固定化されると思います多分




