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切れない糸を見て、僕はとうとう売る話を始めてしまった

※改稿版に移動しています

https://ncode.syosetu.com/n3559mb/


 井戸端の演説から三日。


 村の中で、僕の立ち位置は決まったらしい。


 畑で隣になっても誰も話しかけてこない。鎌を研ぐ順番を待つときも、一つ分の間が空く。


 殴られるわけでも、追い出されるわけでもない。ただ、透明になる。


 構わない。僕が欲しいのは共感じゃない。売れるものだ。


 昼の賦役を終えて小屋に戻ると、イェニーが鍋の前にいた。


 薄い粥をかき混ぜている。湯気に麦の匂いが混じっている。鍋底をこする木匙の音が、静かな小屋に響いていた。


「母さん」


「うん?」


「……父さんは、怒りっぽかったの?」


 イェニーの手が止まった。


 一瞬だけだった。すぐに木匙が動き出す。


「なんで急に」


「ううん、ちょっと気になっただけ」


 イェニーは粥をよそいながら、しばらく黙っていた。


 椀を差し出すとき、ぽつりと言った。


「……怒りっぽかったよ」


 木匙を鍋の縁に置いた。


「普請で石を運ぶとき、若い者の分まで背負って、それで怒ってた。帰ってきたら疲れてて、それでまた怒ってた」


「何に怒ってたの」


「さあね。口にはしなかったよ。口にしたって、翌朝の普請がなくなるわけじゃないから」


 イェニーは自分の椀に粥をよそった。僕のより薄い。いつもそうだ。


「聞いたらきっと、うまく言えなかったと思うよ。あの人はそういう人だった」


 怒りを持っていた。だが、言葉にする術がなかった。


 粥が喉を落ちていく。ぬるくて薄い。


 父の怒りは、どこにも届かないまま、普請の木材の下に埋もれた。



 昼過ぎ、薪を探しに村外れの森の入口まで歩いた。


 林の手前で、しゃがんでいる人影が見えた。


 赤い髪。


 ローザだった。


 枯れ枝を拾い集めて、膝の上で束にしている。裸足の足先が泥で汚れていた。指の腫れは相変わらずだ。


 僕に気づいて、手を止めずに顔だけ上げた。


「また来たの」


「薪だよ。うちも足りなくて」


「ふうん」


 興味なさそうに視線を戻した。


 僕は少し離れた場所でしゃがんで、枯れ枝を拾い始めた。


 乾いた木の匂いと、湿った土の匂いが混じっている。鳥が一羽、高い枝の上で鳴いた。


 黙って枝を拾う。ローザも黙って枝を拾っている。


 しばらくして、僕は口を開いた。


「……聞いていいかな」


「何」


「この辺の森、いつもこのくらい枝が落ちてるのかな」


「冬の終わりは風が強いから多い」


 短い。だが嫌がってはいない。


 前の僕なら、ここで理論をぶつけていた。祝福の配分がどうとか、賦役の構造がどうとか。


 だがあの井戸端で学んだ。


 理屈は腹を満たさない。


「ローザは、いつもひとりで薪を集めてるの」


「そうだけど」


「隣の——婆さんのところは、手伝ってくれないのかな」


「あたしがやった方が早いから」


 ローザは枝を束にまとめながら、膝の間に挟んだ何かを弄っていた。


 糸だった。


 拾った枝を縛るための糸を、手持ち無沙汰に指先で紡いでいる。


 会話の合間に、無意識にやっているらしい。


「……君の母さんのこと、イェニーから少し聞いた」


 ローザの指が止まった。


 一瞬だった。すぐに糸を紡ぐ動きが戻る。


「何を聞いたの」


「風邪をこじらせて、長引いたと」


「咳が止まらなくなって、それで終わった」


「治癒の祝福は来なかったの」


「農奴の家には来ないよ」


 当たり前のことを聞くな、という顔だった。


「最後の方、母さんの手がすごく冷たくて、あたしが握っても温まらなかった」


 それだけ言って、ローザは立ち上がった。


 僕も立ち上がった。膝の裏に泥がついている。


 ローザの手元を見た。


 さっきまで紡いでいた糸が、薪の束を縛っている。


 束が、妙にしっかりしていた。


 枯れ枝の束は普通、縛ってもすぐに崩れる。枝の太さがばらばらだし、樹皮がごそごそして滑る。


 だが、ローザの束は崩れていない。


 糸が枝に食い込むように密着して、結び目が一切緩んでいなかった。


「その糸」


「何?」


「自分で紡いだの」


「麻の屑糸を紡ぎ直しただけ」


 僕は手を伸ばして、束から垂れた糸の端を指で摘んだ。


 引っ張った。繊維が軋む小さな音がした。


 切れない。引っ張っても切れない。


 端の方には甘い箇所もある。完璧ではない。


 それでも、屑糸を紡ぎ直しただけにしては強すぎた。


「……丈夫だね」


「慣れてるだけ」


 ローザは糸の端を僕の手から引き抜いた。


 その瞬間、記憶が蘇った。


 あの日の賦役の帰り道。ローザが差し出した革袋。中の水が温かかった。夕方の、日陰に置いてあった革袋の水が。


 二つの違和感が、頭の中で並んだ。


 温かい水。切れない糸。


 どちらも、ローザの手を通っている。


 ローザの手を通ると、何かが変わる。それだけは確かだ。


 次に確かめなければならないことがある。だが今は、この糸だ。


 僕はその疑問を保留した。糸の端を指でたどった。弱い部分を確かめるように。


 代わりに、糸そのものを見た。


 丈夫で、太さが均一で、量が紡げる。


(これは——売れる)


 使い道は明らかだ。丈夫な糸。どんな布にも使える。縄にも使える。


 だが、この村では売れない。この村には市場がない。物を金で買う習慣がない。


 村の外なら、どうだ。


 行商人が来る。布を買いに来る人間がいるとイェニーが言っていた。布を買うなら、糸も要る。丈夫な糸なら、なおさら。


 ローザは僕の顔を見ていた。


「何。変な顔してる」


「いや——その糸、もっと紡げるかな」


「紡げるけど。何に使うの」


「売るんだ」


 ローザの眉が寄った。


「売る? 誰に?」


「行商人だよ。村の外から来る」


「……あたしの糸を?」


「ローザの糸は、普通じゃない。それだけの品質がある」


 ローザは薪の束を背負い直した。


「あんた、また変なこと言い出してる」


「変じゃない。ローザの糸は、外で売れるかもしれない」


「あたしの糸で、食い扶持が増える——って話?」


 ローザは数秒、僕の目を見ていた。


「考えとく」


 それだけ言って、薪の束を背負ったまま歩いていった。裸足の足跡が湿った土に残る。


 息を吐いた。止めていたらしい。


 僕はその背中を見送った。



 夜。小屋の中。


 イェニーはもう寝ている。薄い毛布の下で、静かな寝息が聞こえる。


 僕は壁際に座って、膝の上に手を置いていた。


 ローザの糸のことを考えている。


 あの糸は異常だった。屑糸を紡ぎ直しただけで、あの強度。


 あの祝福の日、村人が膝をついただけで疲れた顔をしていた。あの力と、ローザの手が生む力。今はそれを掘り下げるときじゃない。


 壁に手をついた。土壁が冷たい。


 今、手元にあるのは事実だけだ。ローザの糸は丈夫で、量が紡げる。


 だが、この村の中では売れない。市場がない。


 村の外に持ち出せば——行商人が要る。


 一度、息を吐いた。


 前提は脆い。行商人が来なかったら。ローザが断ったら。当たる前提で動くのは危ない。だから、先に確かめることを並べる。


 イェニーが寝返りを打った。毛布の擦れる音がした。


「……ムーア? まだ起きてるの」


「うん。起こしちゃった?」


「何ブツブツ言ってたの」


「……考え事だよ。寝てて」


 イェニーはしばらくこちらを見ていた。暗がりの中で、何か言いかけて、やめた顔をした。また毛布を引き上げる。寝息がすぐに戻る。小屋の隙間から入る夜風が、首筋を撫でた。


 三つ。この村には行商人との定期的な接点がない。


 ——これは明日、イェニーに聞く。


 膝の上で拳を握った。


 昨日まで、僕の手の中には理論しかなかった。


 今日、初めて——物がある。


 ローザの糸。一束。


 たった一束の糸だが、これは理論じゃない。手で触れる。


 糸の感触が、まだ指の腹に残っている。


 引っ張れば抵抗がある。切れない。


 塩が手に入れば、イェニーの粥が少しだけ変わる。


 種は一粒あればいい。


 止めた。


 土壁に背中を預けた。肩甲骨に染みる冷たさが、熱を持った頭を少しだけ戻した。


 最悪の宿題は、まだ続いている。


 膝の上で指を組み直した。


 壮大な回路の設計図を描く前に、明日やることを決めろ。


 一つ。行商人がいつ来るか確認する。


 二つ。ローザに糸をもう少し紡いでもらえるか頼む。


 三つ。糸の品質を他の農奴の糸と比較する。


 四つ。全部失敗した場合の代替案を考える。糸が駄目なら、何が売れる。——今の僕には答えがない。それ自体が問題だ。


 四つだけだ。それ以上は、今の僕には早い。


 遠くで虫が鳴いている。



 夜明け前に目が覚めた。


 小屋の中はまだ暗い。窓の隙間から、空が灰色に白み始めている。


 イェニーが竈に火を入れていた。乾いた薪がぱちりと弾ける音がする。


「早いね」


「うん。……母さん、ひとつ聞いていいかな」


「うん?」


「行商って、いつ来るの」


 イェニーは火を吹きながら考えた。


「秋の終わりに布を売りに来る人がいたけど……去年は来なかったかな。一昨年は来たよ。塩と針を持ってきて、布と交換してくれた。塩ひと握りで、村中が大騒ぎだったよ」


「毎年は来ないの」


「来たり来なかったり。道が悪いときは来ないし、伯さまの通行の許可がいるときもあるから」


 通行の許可。障害がまた一つ増えた。だが、来ることは来る。


「その行商人は、どこから来るの」


「さあ……西の方、とは聞いたけど。山を二つ越えた先に大きな村があるって」


「名前は?」


「バスティアの旦那、って皆呼んでたかな」


 バスティア。行商人の名前。西の大きな村。山を二つ。


 情報が少ない。だが、ゼロではなくなった。


「秋の終わりか……」


「そうだね。収穫が終わった後くらい」


 今は冬の終わり。春が来て、夏があって、秋。


 半年以上ある。長い。長すぎる。


 だが、短すぎるよりはましだ。糸を貯める時間にも、試す時間にもなる。


 イェニーが粥をよそった。今朝の粥は少しだけ濃い。昨日の残りに麦を足したらしい。


 湯気の匂いが鼻を撫でた。


「ありがとう、母さん」


「何が」


「行商のこと」


 イェニーは不思議そうな顔をした。だが、それ以上は聞かなかった。


 粥を食べ終えて、小屋の外に出た。


 夜明けの空気が冷たい。吐く息が白い。畑の向こうに、朝焼けの端が見えている。


 腰に手を当てて、空を見上げた。朝焼けの光が目を刺す。冷たい空気が肺の奥まで沁みた。


 あの丘では叫んだ。万国の労働者よ、団結せよ——と。


 今日は叫ばない。


 手の中に、まだ何もない。だが、何を掴むかは見えている。


 ローザの糸。行商人バスティア。秋の終わり。


 必要なものは見えた。あとは一つずつ揃えるだけだ。


 僕は小屋に戻って、壁に立てかけてあった鎌を取った。


 今日も賦役がある。鐘が鳴る前に畑に出なければならない。


 だが、鎌を握る手の感触が、昨日とは違った。


 昨日までは、ただ振るだけの道具だった。


 今日からは、秋まで持ちこたえるための道具だ。


 同じ鎌。同じ手。同じ賦役。


 違うのは、その先に何があるかを知っていること。


 畑道を歩き始めた。朝露が裸足の指に冷たい。


 遠くで、鐘が鳴り始めた。


 行商人が来るのは秋の終わり。来ないかもしれない。ローザが糸を紡いでくれるかもわからない。グリュンの目は、いつも帳面の上にある。


 半年。この手で変えられることが、半年のうちにどれだけあるか。


 鐘の音が畑に響いている。今日もまず、領主の畑を耕すところから始まる。

展開自体は決めているもののローザをどんな感じにしたものかを細部を悩みながら書いています。

いずれ固定化されると思います多分

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