井戸端で搾取を説いても、明日の粥は少しも増えなかった
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朝の畑道で、隣を歩いていた男がつぶやいた。
「今年も伯さまの畑だけ色が違うな」
何気ない一言だった。
だが僕の目は、もう畑の境界に釘付けだった。
祝福から数日。領主の直営地は穂が重く垂れ始めている。濃い緑が風に揺れて、朝露が光っている。風が変わるたびに、熟れかけた麦の甘い匂いが鼻をかすめた。
境界の石垣を一つ跨いだ先——僕たちの保有地は、穂が痩せたままだ。色は薄く、垂れるほどの実もない。
同じ土、同じ雨、同じ日照り。
違うのは、祝福の順番だけだ。
その差が、もう畑の色に出ていた。
男はもう先を歩いている。独り言のように呟いただけで、それ以上は何も考えていないように見えた。
毎年そうだから。
当たり前だから。
昨日の老人の姿を列の中に探したが、見当たらなかった。違う組に回されたのか、休んでいるのか。
僕は鎌を握り直して、賦役の列に加わった。
夕方の井戸端に人がいた。
二日考えた。
理屈では駄目だと、もう分かっている。今日は事実だけを話す。できるだけ短く。
一人でいい。最後まで聞く相手が一人いればいい。
深く息を吸った。藁と煮炊きの煙が混じった、夕暮れの空気が肺に入る。
最初に声をかけたのは、井戸の石積みに腰を下ろしていた老人だった。石積みに手をついた。日が落ちかけているのに、石はまだ昼の熱を残していた。
「ねえ、少しだけ聞いてくれないかな」
老人が顔を上げた。目の下にくまがある。歯が何本か欠けている。
「祝福の日のことなんだけど」
「祝福がどうした」
声に警戒があった。祝福を悪く言う奴だと思われたのだろう。
「悪く言うつもりはない。ただ、伯さまの畑と僕たちの畑、どっちが先に祝福を受けたか覚えてるだろ」
「あっちだろ。毎年そうだ」
「じゃあ、もし僕たちの畑が先だったら——」
「ムーア」
老人が遮った。口調は穏やかだったが、顔は疲れていた。
「悪いな。水汲んでこないと婆さんに怒られるんだ」
老人は膝に手を当てて立ち上がった。空の桶を片手でつかみ、井戸に背を向けた。
「また今度な」
立ち上がりかけて、老人は振り返った。
「……どうせ変わらないよ。昔からこうだ」
今度は来ない。僕にもわかった。
だが、まだ人はいた。
少し離れた石垣のそばで、幼い子どもの手を引いた若い母親が立っていた。子どもの頬に泥がついている。子どもはさっきから石垣の角を足で蹴っていた。
近づいて、さっきより易しく話してみた。
「子どもの食い扶持のことなんだけど」
母親の目が一瞬こちらを向いた。
「賦役の日、僕たちが刈った麦は伯さまの倉に入る。でも子どもの粥を炊くのは僕たちの麦だ。先に持っていかれたら、残りは——」
「うん」
母親は頷いた。耳は傾けてくれていた。
「だから取り分の順番を——」
子どもが石垣につまずいた。膝を擦りむいて、次の瞬間、泣き声が上がった。
母親はしゃがみ込んで子どもを抱き上げた。泥のついた頬を自分の肩に押しつけて、背中をさすった。
「ごめんね、今は——」
言いかけて、もう歩き出していた。
子どもの泣き声が遠ざかっていく。
僕は途中で切れた自分の言葉を、口の中でもう一度繰り返した。
(取り分の順番を、変えられるかもしれない——)
そう言いたかった。
言えなかった。
泣いている子どもの前では、取り分の話は音にならない。
井戸端にまだ一人だけ残っていた。
僕より少し年上の若い男だ。石垣に寄りかかって、鍬の柄を指で弾いている。柄に焦げ跡がある。自分で直した痕だろう。
目が合った。
「なあ、さっきの話——」
「聞いてた」
男は石垣から背中を離した。だが、すぐに井戸端の向こうへ視線を走らせた。少し興味がありそうだったが、目が落ち着かない。
「……名前は」
「ハインリヒ」
男は短く名乗って、鍬の柄の焦げ跡を親指で撫でた。
「お前の言ってること、わからなくはないよ」
心臓が跳ねた。
初めてだ。この村で、「わからなくはない」と言われたのは。
「伯さまの畑と僕たちの畑、色が違うのは皆わかってる」
男は鍬の柄を指で弾きながら続けた。
「わかってるけど——」
男はそこで言葉を切った。視線が僕の背後、井戸端の向こうへ動いた。
その視線の先に、グリュンがいた。
乾いた土を踏む均一な足音。躊躇いのない歩き方。
ナッソー伯の手代。賦役の管理と取り分の監視をやっている男。朝の畑にもいた。普段は農奴を「お前」か「そこの」で済ませる。名前を出すときは、大体ろくなことがない。
「何を話してる。こんな時間にたむろか」
声は大きくなかった。だが、井戸端の空気が変わった。
若い男は鍬を肩に乗せた。
「何も。帰るところだ」
「なら早く帰れ。明日の賦役に遅れたら、伯さまの帳面に俺が書くことになる」
男は僕をちらりと見た。
一瞬だった。
その一瞬に、「悪いな」とも「また今度」とも言わない沈黙が詰まっていた。
男は背を向けて、足早に去った。
グリュンは僕を見た。脇に挟んだ帳面の縁を、人差し指で一度だけ叩いた。
「お前も帰れ。ムーアだったな。最近、畑で妙なことを口走ってるそうだな——」
言いかけて、グリュンは自分で言葉を切った。
「まあいい。取り分が減らなきゃ俺の知ったことじゃない」
グリュンも去った。
井戸端に、僕だけが残った。
水が滴る音だけがしている。夕方の冷気が肌に貼りついた。石積みから立ち上る湿った匂いがする。
老人は水を汲みに行った。
母親は子どもを抱いて行った。
若い男は手代の足音で行った。
三人とも、僕の話を聞けなかった。一人だけ「わからなくはない」と言った男がいた。その先を聞く暇もなかった。
聞かなかった、だけではない。
聞けるだけの余裕が、誰にもなかった。
夕日が井戸の石積みに赤い影を落としている。
足元の土が、まだ湿っていた。
背後から声がした。
「まだいたの」
ローザだった。薪の束を背負って、井戸に水を汲みに来たらしい。
「……演説のつもりだったんだけど」
「もう広まってる」
「……そっか」
ローザは桶を井戸の縁に置いた。滑車に手をかけながら、こっちを見ずに言った。
「腹減ってるときに長い話は入らないよ」
短かった。
だが、足が止まった。
腹が減っているから聞けないんじゃない。
腹を減らさないために忙しいから、聞く暇がない。
ローザは水を汲み終えると、桶を片手で持ち上げて去っていった。裸足の足跡が湿った土に薄く残っている。
村外れの木の下に座っていた。
夕暮れの風が乾いた草を撫でている。遠くで鴉が鳴いた。
膝の上に両手を置いた。掌がまだ熱い。拳を握りすぎた。
何も届かなかった。
三人とも、間違ってはいなかった。水を汲まなければ困る。子どもは放っておけない。手代の前で変な話を続ければ、明日に響く。
正しい判断の積み重ねで、僕の話は最後まで届かなかった。
「……存在が意識を規定する、か」
声に出していた。十三歳の農奴の口から出る言葉じゃない。誰もいなくてよかった。
——膝の下で、草がしなった。
今日の井戸端で聞いた沈黙は、教科書の一行より重かった。
田中も、こうだったのだろうか。聞いてほしい言葉を、誰にも届けられない夜が。
膝の上の掌を開いた。拳を握りすぎて、爪の跡がついていた。
棚に置いた引っかかり——あの祝福の力と、ローザの温かい水と、老人の石割り——は、まだ棚の上にある。今はそれどころじゃない。
草の匂いが鼻を撫でた。甘くも苦くもない、ただ乾いた匂いだ。
ローザの一言が戻ってくる。腹が減っているときに長い話は入らない。
足元の草を引き抜いた。根が簡単に抜ける。
口の中が苦くなった。最悪の宿題は、まだ続いている。
「……説得じゃない。先に条件を変える」
僕は立ち上がった。膝が少し笑う。座りすぎたせいだ。
夕焼けの残りが麦畑の先に沈んでいく。
村へ戻る道を歩き始めた。乾いた土が裸足の裏に貼りつく。
明日も鐘が鳴る。賦役がある。鎌を振る。
だが、その先で何をするか。ハインリヒが見ていた石垣の向こう——色の違う畑。あの差を埋める方向なら、見えている。まずは、足元の条件から変える。
気になってちょこちょこ修正していまっていますが、話の大筋は変わっていません。




