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3/19

祝福は空から降るのに、落ちる先は伯さまの畑だけだった

※改稿版に移動しています

https://ncode.syosetu.com/n3559mb/


 朝の畑道で、隣を歩いていた男がつぶやいた。


「今年も伯さまの畑だけ色が違うな」


 何気ない一言だった。


 だが僕の目は、もう畑の境界に釘付けだった。


 祝福から数日。領主の直営地は穂が重く垂れ始めている。濃い緑が風に揺れて、朝露が光っている。風が変わるたびに、熟れかけた麦の甘い匂いが鼻をかすめた。


 境界の石垣を一つ跨いだ先——僕たちの保有地は、穂が痩せたままだ。色は薄く、垂れるほどの実もない。


 同じ土、同じ雨、同じ日照り。


 違うのは、祝福の順番だけだ。


 その差が、もう畑の色に出ていた。


 男はもう先を歩いている。独り言のように呟いただけで、それ以上は何も考えていないように見えた。


 毎年そうだから。

 当たり前だから。


 昨日の老人の姿を列の中に探したが、見当たらなかった。違う組に回されたのか、休んでいるのか。


 僕は鎌を握り直して、賦役の列に加わった。





 夕方の井戸端に人がいた。


 二日考えた。


 理屈では駄目だと、もう分かっている。今日は事実だけを話す。できるだけ短く。


 一人でいい。最後まで聞く相手が一人いればいい。


 深く息を吸った。藁と煮炊きの煙が混じった、夕暮れの空気が肺に入る。


 最初に声をかけたのは、井戸の石積みに腰を下ろしていた老人だった。石積みに手をついた。日が落ちかけているのに、石はまだ昼の熱を残していた。


「ねえ、少しだけ聞いてくれないかな」


 老人が顔を上げた。目の下にくまがある。歯が何本か欠けている。


「祝福の日のことなんだけど」


「祝福がどうした」


 声に警戒があった。祝福を悪く言う奴だと思われたのだろう。


「悪く言うつもりはない。ただ、伯さまの畑と僕たちの畑、どっちが先に祝福を受けたか覚えてるだろ」


「あっちだろ。毎年そうだ」


「じゃあ、もし僕たちの畑が先だったら——」


「ムーア」


 老人が遮った。口調は穏やかだったが、顔は疲れていた。


「悪いな。水汲んでこないと婆さんに怒られるんだ」


 老人は膝に手を当てて立ち上がった。空の桶を片手でつかみ、井戸に背を向けた。


「また今度な」


 立ち上がりかけて、老人は振り返った。


「……どうせ変わらないよ。昔からこうだ」


 今度は来ない。僕にもわかった。


 だが、まだ人はいた。


 少し離れた石垣のそばで、幼い子どもの手を引いた若い母親が立っていた。子どもの頬に泥がついている。子どもはさっきから石垣の角を足で蹴っていた。


 近づいて、さっきより易しく話してみた。


「子どもの食い扶持のことなんだけど」


 母親の目が一瞬こちらを向いた。


「賦役の日、僕たちが刈った麦は伯さまの倉に入る。でも子どもの粥を炊くのは僕たちの麦だ。先に持っていかれたら、残りは——」


「うん」


 母親は頷いた。耳は傾けてくれていた。


「だから取り分の順番を——」


 子どもが石垣につまずいた。膝を擦りむいて、次の瞬間、泣き声が上がった。


 母親はしゃがみ込んで子どもを抱き上げた。泥のついた頬を自分の肩に押しつけて、背中をさすった。


「ごめんね、今は——」


 言いかけて、もう歩き出していた。


 子どもの泣き声が遠ざかっていく。


 僕は途中で切れた自分の言葉を、口の中でもう一度繰り返した。


(取り分の順番を、変えられるかもしれない——)


 そう言いたかった。


 言えなかった。


 泣いている子どもの前では、取り分の話は音にならない。



 井戸端にまだ一人だけ残っていた。


 僕より少し年上の若い男だ。石垣に寄りかかって、鍬の柄を指で弾いている。柄に焦げ跡がある。自分で直した痕だろう。


 目が合った。


「なあ、さっきの話——」


「聞いてた」


 男は石垣から背中を離した。だが、すぐに井戸端の向こうへ視線を走らせた。少し興味がありそうだったが、目が落ち着かない。


「……名前は」


「ハインリヒ」


 男は短く名乗って、鍬の柄の焦げ跡を親指で撫でた。


「お前の言ってること、わからなくはないよ」


 心臓が跳ねた。


 初めてだ。この村で、「わからなくはない」と言われたのは。


「伯さまの畑と僕たちの畑、色が違うのは皆わかってる」


 男は鍬の柄を指で弾きながら続けた。


「わかってるけど——」


 男はそこで言葉を切った。視線が僕の背後、井戸端の向こうへ動いた。


 その視線の先に、グリュンがいた。


 乾いた土を踏む均一な足音。躊躇いのない歩き方。


 ナッソー伯の手代。賦役の管理と取り分の監視をやっている男。朝の畑にもいた。普段は農奴を「お前」か「そこの」で済ませる。名前を出すときは、大体ろくなことがない。


「何を話してる。こんな時間にたむろか」


 声は大きくなかった。だが、井戸端の空気が変わった。


 若い男は鍬を肩に乗せた。


「何も。帰るところだ」


「なら早く帰れ。明日の賦役に遅れたら、伯さまの帳面に俺が書くことになる」


 男は僕をちらりと見た。


 一瞬だった。


 その一瞬に、「悪いな」とも「また今度」とも言わない沈黙が詰まっていた。


 男は背を向けて、足早に去った。


 グリュンは僕を見た。脇に挟んだ帳面の縁を、人差し指で一度だけ叩いた。


「お前も帰れ。ムーアだったな。最近、畑で妙なことを口走ってるそうだな——」


 言いかけて、グリュンは自分で言葉を切った。


「まあいい。取り分が減らなきゃ俺の知ったことじゃない」


 グリュンも去った。


 井戸端に、僕だけが残った。


 水が滴る音だけがしている。夕方の冷気が肌に貼りついた。石積みから立ち上る湿った匂いがする。


 老人は水を汲みに行った。

 母親は子どもを抱いて行った。

 若い男は手代の足音で行った。


 三人とも、僕の話を聞けなかった。一人だけ「わからなくはない」と言った男がいた。その先を聞く暇もなかった。


 聞かなかった、だけではない。

 聞けるだけの余裕が、誰にもなかった。


 夕日が井戸の石積みに赤い影を落としている。


 足元の土が、まだ湿っていた。


 背後から声がした。


「まだいたの」


 ローザだった。薪の束を背負って、井戸に水を汲みに来たらしい。


「……演説のつもりだったんだけど」


「もう広まってる」


「……そっか」


 ローザは桶を井戸の縁に置いた。滑車に手をかけながら、こっちを見ずに言った。


「腹減ってるときに長い話は入らないよ」


 短かった。


 だが、足が止まった。


 腹が減っているから聞けないんじゃない。


 腹を減らさないために忙しいから、聞く暇がない。


 ローザは水を汲み終えると、桶を片手で持ち上げて去っていった。裸足の足跡が湿った土に薄く残っている。





 村外れの木の下に座っていた。


 夕暮れの風が乾いた草を撫でている。遠くで鴉が鳴いた。


 膝の上に両手を置いた。掌がまだ熱い。拳を握りすぎた。


 何も届かなかった。


 三人とも、間違ってはいなかった。水を汲まなければ困る。子どもは放っておけない。手代の前で変な話を続ければ、明日に響く。


 正しい判断の積み重ねで、僕の話は最後まで届かなかった。


「……存在が意識を規定する、か」


 声に出していた。十三歳の農奴の口から出る言葉じゃない。誰もいなくてよかった。


 ——膝の下で、草がしなった。


 今日の井戸端で聞いた沈黙は、教科書の一行より重かった。


 田中も、こうだったのだろうか。聞いてほしい言葉を、誰にも届けられない夜が。


 膝の上の掌を開いた。拳を握りすぎて、爪の跡がついていた。


 棚に置いた引っかかり——あの祝福の力と、ローザの温かい水と、老人の石割り——は、まだ棚の上にある。今はそれどころじゃない。


 草の匂いが鼻を撫でた。甘くも苦くもない、ただ乾いた匂いだ。


 ローザの一言が戻ってくる。腹が減っているときに長い話は入らない。


 足元の草を引き抜いた。根が簡単に抜ける。


 口の中が苦くなった。最悪の宿題は、まだ続いている。


「……説得じゃない。先に条件を変える」


 僕は立ち上がった。膝が少し笑う。座りすぎたせいだ。


 夕焼けの残りが麦畑の先に沈んでいく。


 村へ戻る道を歩き始めた。乾いた土が裸足の裏に貼りつく。


 明日も鐘が鳴る。賦役がある。鎌を振る。


 だが、その先で何をするか。ハインリヒが見ていた石垣の向こう——色の違う畑。あの差を埋める方向なら、見えている。まずは、足元の条件から変える。

共産主義と魔法ってそこそこ相性良いと思うんですよね


2026/04/05 思いっきり改稿しましたが、ストーリー展開は変わってません

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