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鎌を握って初めて、搾取される側の腕の重さが分かった

※改稿版に移動しています

https://ncode.syosetu.com/n3559mb/



 重く低い鐘の音が、頭蓋を内側から殴った。


 体が重い。まだ寝ていたい。藁の上でもいい。起きれば腹が減る。服はごわつく。外に出れば土が冷たい。


 だが、鐘はそんな事情を一切考慮しない。


「ムーア、起きよう。今日は伯さまの畑だよ」

「伯さまの畑?」

「決まってるじゃないか。賦役の日だよ」


 イェニーは足早に去って行く。


 起き上がる。藁が首筋に刺さる。麻の上着を羽織ると、粗い繊維が肩を擦った。洗っても落ちない汗と煙の匂いが鼻につく。


(鐘ひとつで起こされる朝に、まだ慣れない)


 粥を一口すすり、家を出た。


 市のことは今日じゃない。そう決めて、鍬の前に鎌を握る覚悟だけ固める。


 今日の目標はひとつだけだ。手首の豆を潰さずに、鎌の振り方を覚える。それだけで十分すぎる。


 朝の空気は湿って冷たい。裸足の裏に泥がぬるりと貼りついた。鐘に引かれるみたいに、村人が道へ流れ出てくる。


 誰も急いではいない。


 急がなくても、行くからだ。


 鍬を担いだ男。鎌を持った女。眠そうな子ども。腰の曲がった老人までいる。


 書けば数文字で済む。


 賦役。


 だが一行の中に、こんな匂いは入っていない。朝露を吸った土の匂い。寝不足の口臭。濡れた麻布の酸っぱい匂い。


 領主の畑は、村の畑より当たり前だが明らかにましだった。


 土の色が濃い。踏み込むと、肥えた土の湿った匂いが足元から立ち上った。


 水路も近い。


 畝もまっすぐだ。


 道具も土地も、向こうの方がいい。


 それくらいは、遠目でもわかる。


 僕は鎌を渡された。


 木の柄は汗で黒ずみ、握るとざらつきが掌に食い込む。


 刃を親指の腹でそっと撫でる。


「思ったより、なまくら寄りだな」


「その持ち方だと、麦が潰れるよ」


 横から平たい声がした。


 振り向く。


 赤い髪の少女だ。昨日、村で僕を不審者扱いしてきた相手だった。今日は小さな鎌を腰に差し、こちらを見上げている。


「親指を巻き込みすぎ」

「……詳しいんだね」

「そっちが知らなさすぎるだけ」


 それだけ言って、少女は自分の列へ戻った。


「おい、ローザ。口より手を動かせ」


 グリュンだ。ナッソー伯の手代で、この村の賦役を仕切る男。普段は農奴を「お前」か「そこの」で済ませるが、名前を出すときは大体ろくなことがない。


 ローザは無言で頷くと、何事もなかった顔で麦を刈り始めた。


 言われた通りに持ち直すと、さっきより手首が楽だった。



「遅れるなよ、ガキ」


 グリュンが言った。革帯を巻き直しながら、列を見回す。


「列をそろえろ。止まるな。手を休めた分だけ、日が傾いてから泣くことになるぞ」


 泣くのはお前じゃないだろう、とは言わなかった。


 言って得する場面ではない。


 鎌を振る。


 重い。


 一度で刈れない。


 二度目でようやく麦束が倒れる。


 肩に変な力が入る。掌が熱い。まだ十回も振っていないのに、前腕の内側がじわじわ張り始めた。


 前の体なら準備運動にもならない負荷だ。


 だが今の僕には、それなりにきつい。


 隣で老人が咳き込んだ。


 乾いた咳だ。


 老人の麦を刈る速度が遅い。数列ぶん遅れていた。


「止まるな!」


 グリュンが怒鳴った。


「脚を動かせ! 次の列へ回れ!」


 老人は何も言わず、肩を震わせながら列を移った。


 体が先に前へ出た。


 止めた。


 今ここで僕が飛び出しても、殴られて終わりだ。


 わかるが、腹が立つ。


 鎌を振る。


 振る。


 振る。


 同じ動きの繰り返しなのに、まるで何も進んでいない感じがした。


 自分の腹に入る麦ではないからだ。


 先に差し出すための動きは、こんなにも鈍いのか。


 しかも、その鈍さが妙にわかりやすい。


 ひどい。


 ひどいが、理屈としては綺麗すぎる。


「……これじゃ次の日の体も作れないだろ」


 口から漏れた。


 近くの女が、怪訝な顔でこっちを見る。


 向こう側の男まで一瞬だけ手を止めた。


「何て?」

「ああ……腹が減るって意味で」

「最初からそう言いなよ」


 女はますます怪訝そうな顔をした。


 昼前、僕はついまた口を開いた。


「刈った束をここでまとめるな。端に寄せてから運んだ方が、往復は減る」


 今度は近くの数人がいっせいにこっちを見た。


 グリュンが振り返る。


「何だと?」

「今のやり方だと、人が束をまたぐ回数が多い。刈る列と運ぶ列を分けた方がいい」

「お前の仕事は考えることじゃない」


 短く切られた。


「取り分が足りなければ俺が叱られるんだ。勝手に仕組みを変えるな」


 周囲の視線が刺さる。


 僕は黙った。


 正論だから通る、という世界ではないのは知っている。


 知っていたつもりだった。


 だが、自分の口がその場で無価値にされる感覚は、思ったより鈍くない。


 むしろ妙に熱かった。


 しかも腹立たしいことに、改善案そのものにはまだ自信がある。


 黙っていろと言われると、余計に喋りたくなる。


 しばらくして、刈り取った麦束が荷車へ積まれ始めた。


 車輪が軋んだ。


 木と木の擦れる、重い音だった。


 その音が、頭の奥で別の車輪の音を引きずり出した。


 二年前。同じ音。


 雨上がりのぬかるみで、木材を積んだ荷車が傾く。車輪が悲鳴を上げる。木材が崩れる音。そのあとの沈黙。


 僕の目の前に父はいない。


 だが記憶の断片が勝手に走った。


 戻ってきたのは男手じゃない。家にはただ、鍋をかきまぜるイェニーの手と、足りない分を削る日々だけが残った。


 汗の酸っぱい匂いが鼻を刺した。(研究室の空調では嗅いだことのない、生きた匂いだ)


 最悪だ。


 だが、怒りと妙な興奮が同時に来て、口元が少しだけ上がった。


 自分で自分に引いたが、もう遅い。


 思わず、声が弾んだ。


「先に食うべきなのは、刈ったこっちだろうが」


 空気が止まった。


 近くの女が顔をこわばらせる。


 老人は視線を落とした。


 グリュンがゆっくりこちらを見た。


 数歩、こちらへ来た。


「誰の取り分を先にするかを、お前が決めるのか」


 低い声だった。怒鳴るより静かで、その分だけ重い。


 まずい、と思うより先に、横から声が飛んだ。


「この人、朝から熱があるの」


 ローザだった。


 麦束を抱えたまま、面倒そうな顔で言う。


「まだぼんやりしてるから」


 グリュンの足が止まった。


「病人なら黙って働かせろ。次に変なことを言ったら、秋の分配から家ごと引く。残った分だけで冬越しするのは——まあ、好きにしろ」


 背筋が冷えた。


 家ごと。


 僕一人の失点では済まない。


 ローザが通りすがりに、こっちを見もせず言った。


「そういうの、口に出すと面倒」

「……正しいと思うんだけどな」

「あと、何でちょっと楽しそうなの」

「腹が立つと、頭が回る時があるんだ」

「気味悪い」


「褒め言葉じゃないよな」

「違うと思う」


 短い。


 だが反論できなかった。


 その通りだ。



 家へ戻るころには、腕が棒になっていた。


 膝の裏が重い。掌はひりつき、指を閉じるだけで皮膚が突っ張る。


「休みなさい」

「休んでると、自分が役立たずだってよくわかるんだ」


 イェニーは困った顔をしたが、小ぶりの斧だけ渡してきた。


「じゃあ、薪を少しだけ」


 少しだけ、で済まなかった。


 一撃目は浅い。二撃目で刃が流れる。三撃目で斧を落とした。


 乾いた音がした。


 その音が情けなかった。


「節を正面から叩いてるよ」


 イェニーが斧を受け取り、薪の木目を見せた。


「少しずらしてごらん。目に逆らうと割れないから」


 僕が斧を振り下ろす。


 今度は、ぱきりと割れた。


「……割れた」

「お父さんも最初はそうだったよ」


 イェニーは何でもないように言った。


 その手つきが慣れすぎていて、余計にこたえた。


 今の僕は役立たずだ。


 昼の粥は朝よりさらに薄かった。


 湯気だけは立っている。


 飲み込んでも腹に留まる感じがしない。喉を通ったそばから、胃がもう次を要求してくる。


 イェニーは半分ほど食べたところで椀を置いた。


「もういいの?」

「これで十分よ」


 僕は自分の椀を見る。


 次に、イェニーの手首を見る。


 細い上に骨が目立つ。


「十分なわけないよ。これじゃ明日の畑に立つ体もつなげないだろ」

「ムーア」


 イェニーが真顔で額に手を当ててきた。


「まだ熱があるのかい?」


 ひんやりした手だった。


「ううん、熱じゃない。明日も働けるだけの飯が」

「足りないね」


 あっさり切られた。


「でも、ないものは増えないよ」


 正しい。


 イェニーは鍋に目をやったが、何も足さなかった。


「明日の朝に回すよ」とだけ言った。


 だが、その朝の分が自分の口に入ることはないのだろうと、もう分かっていた。



 午後は親子で保有地へ出た。


 道の途中で、ローザが自分の畑の端で鎌を振っているのが見えた。


 足が止まった。


 速い。


 朝とは違う。刃の角度が変わっている。


 僕が直した持ち方だ。柄の尻を少し余らせて、親指を巻き込みすぎない。


 切り口が揃っている。手の豆も潰れていないように見えた。


 ローザが気づいてこちらを見た。


「何」


「ううん……その鎌、朝と持ち方違わないかな」


「前からこう持ってた」


 嘘だ。


 だが、そのことに触れてもローザは認めないだろう。


 息を吐いた。胸の奥で、何かが少しだけほどけた。


 朝のやり取りを、ローザなりにどこかで咀嚼したのかもしれない。


 そうだとしたら、少しだけ救われる。


 胸を張れるほどの広さじゃない。石が多い。土が浅い。畝の間隔も乱れている。


 土の匂いまで違う。乾いて、薄い。領主の畑の、あの湿った重さがない。


 僕は鍬を持つ。


 今度は鎌より重かった。


 肩が軋む。


 だが、不思議と午前よりはましだった。


 同じ土だ。


 同じ汗だ。


 同じように腰は痛い。


 それでも、刃先の向こうにあるものが違う。


 ここで掘る一鍬は、少なくともイェニーの椀に戻る可能性がある。


 その違いだけで、動きの質感が変わった。


 労働が楽なわけじゃない。


 だが、いちばん堪えるのは、先に差し出す相手が決まっていることだった。


 鍬を振り下ろす。少なくとも、この土に対しては腕が惜しくなかった。


(——封建制のルールの中で鍬を振っている。変革者のつもりで、今はただの農奴だ)


 イェニーが雑草を抜きながら言う。


「今年はまだましだよ」

「これで?」

「去年は春の雨が少なくてね。聖堂の祈りが遅れたら、もっとひどかった」


 土を掘る手が一瞬止まる。


「祈り?」

「豊穣のお務めさ。伯さまのお言いつけで、司祭さまが畑に祝福をくださるんだよ」


 イェニーの声に疑いはなかった。


 雨と収穫のあいだに、祈りが自然に入っている。


「伯さまの畑は、よく実るんだね」

「あちらは大事な土地だからね。水も近いし、祝福も先にいただける」


 先に。


 そこでも順番か。


「祈りまで上から独占してるのか」

「……どくせん?」


 イェニーが困った顔をした。


「ムーア、手が止まってるよ。ありがたいものは、ありがたいんだから」


 言い返したくなった。


 だが、飲み込む。


 今ここでイェニーに理屈をぶつけても、母親の今日の疲れが増えるだけだ。


 日が傾くころには、腕も脚も別人のものみたいに重くなっていた。


 家へ戻ると、泥の乾いた匂いと煮炊きの煙が混ざっていた。


 藁の寝床に腰を落とした瞬間、全身が下へ沈む。


 筋肉がじんじん脈を打つ。掌の傷が、遅れてひりついた。


 僕は天井の木目を見た。


 知っているのと、されるのは違う。


 論文と筋肉は、同じ場所に届かない。


 掌を開いた。豆は潰れていたが、朝より鎌の当て方はわかった。手首が楽だったのは嘘じゃない。


 その時、外で別の鐘が鳴った。


 賦役の鐘より澄んだ音だった。


「ああ、明日は祝福の日だ」


 イェニーが小さく言った。


「祝福って何?」


「司祭さまが畑にお祈りをしてくださるの。そうすると実りが良くなる」


「……本当に良くなるの?」


「なるよ。祝福がなかった年は、ひどかったもの」


 僕は目を開けたまま、その音を聞いた。


 実りまで順番があるというのなら。


 ——あの鐘の向こうで何が起きているのか、明日、この目で見てやる。

二話目です。20話くらいまでは、大体20時くらいに投稿していくつもりです。

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