印刷の最初の顧客が資本家だったのは、この世界でも同じだった
長い冬が、やっと緩んだ日だった。
雪解けの水が、土間の戸口の下を細く流れていた。ローザが紙を燃やしたあの夜から、冬が一つ、通り抜けた。市はまだ月に一度のままだったけれど、屋根のついた屋台が一つ、広場の端に、季節をまたいで立つようになっていた。紡ぎ手の女は、アンナを入れて四人に増えていた。ローザがいる日は、なぜか全員の糸の太さが揃う。ローザ本人は気づいていない。僕も、口に出さないと決めていた。
紙漉きの台は、土間の隅から戸外の軒下に出ていた。蝋板はもう誰も使っていない。ローザが「次の市までに二十枚」と言ったあの夜から数えれば、その約束は一度だけ更新されて、今は「次の市までに三十枚」まで来ている。
声は、少しだけ低くなっていた。麦棒を叩く肩も、前ほど次の日まで残らない。鏡がないから自分の顔はわからないけれど、婆さんが「あんた、少し痩せたね」と一度だけ言った。それくらいだ。
——今日は、百枚だ。
そう自分に言い聞かせて、印刷小屋の戸を押した。
同じ字で、百枚。目標は、その一つだ。
小屋の中は、炭の匂いがした。
木の板を彫って刷るところまでは、冬のうちに、ヴィルヘルムさんの炉の前でできていた。インクを染み込ませて、紙を当てて、上から平たい板で押す。一枚目は読めた。三枚目には字がかすれた。十枚目には、「父」の字の縦棒が、真ん中から少し曲がっていた。木の繊維が、押されるたびに微妙に縮むからだ。
木版は、百枚には向かない。
だから、鉛だ。
鉛を溶かして、字の形に固める。理屈は簡単だった。問題はずっと、鋳型の方にあった。滑石は鉛の熱で崩れた。粘土は焼くと縮んだ。花崗岩は硬すぎて、爪の幅より細い溝が彫れなかった。——柔らかすぎるか、硬すぎるか。ヴィルヘルムさんのあの言葉が、冬の間ずっと、指の腹に残っていた。
答えは、鍛冶屋の手の中にあった。
ヴィルヘルムさんが、鉄の端材を薄く延ばして、僕が描いた図の通りに鑿で溝を切ってくれた。鉄は崩れない。縮まない。ただし、五十文字ぶんの鋳型を仕上げるのに、三人で十日かかった。ヨハンが縁を磨いて、ヴィルヘルムさんが溝を修正して、僕が文字の形を確かめる。その繰り返しで、冬が終わった。
「温度、まだ足りないと思うんだけど」
そう言ったのは、炉の前でふいごを踏んでいる少年だった。ヨハン——鍛冶職人ヴィルヘルムさんの実の弟で、冬の間から、僕の試作に付き合っている。セイより二つ下で、ローザよりひとつ下だ。手の甲に、小さな火傷の痕が三つ、並んで残っている。
「兄貴に言われた通りの回数、まだ踏めてないんだ。なのに、鉛が——」
ヨハンは言いかけて、坩堝の中を覗き込んだ。
鉛は、もうとろりと溶けていた。
「……溶けてる。なんでだろ」
「溶けてるね」
僕はそう答えた。答えながら、心の中で、もう一度だけ繰り返した。
——溶けてる。
前の世界で、鉛は三百度ちょっとで溶ける。僕は数字を覚えているから、炉の様子を見れば、だいたいそのくらいに届いているかどうか、肌で見当がつくようになっていた。今日の炉は、届いていない。届いていないはずなのに、坩堝の中身は、きれいに、均一に、とろけている。
僕は、ヨハンの顔を、一度見た。
彼は、坩堝を覗き込むのに夢中で、自分の右手が坩堝の縁にそっと触れているのに気づいていなかった。
触れているのは、指の付け根のあたりだ。
——この子は、知らないまま、熱を足してる。
冬の炉の前で、一度、同じことに気づいていた。あのときは名前を付けるのをやめた。
今日も、言わなかった。言うべきじゃない、と体のどこかで決めた。名前を付けた瞬間に、この子は、次からはその手で坩堝に触れるのが怖くなる。怖くなった手で触れれば、たぶん、この均一な溶け方はもう起こらない。
——それに、もしこれを教会の人間に聞かれたら。
僕は、喉の奥で、その続きを一度飲み込んだ。飲み込んだ続きは、口に出さないまま、印刷機の方に歩いていった。
「ヨハン、鋳型、出して」
「うん」
ヨハンは素直だった。素直さの裏に、ずっと「兄より手が遅い」という低さを抱えているらしいことを、僕はこの冬の炉の前で、一度だけ気づいていた。だから、僕は彼に対してだけは、手順を少しゆっくり、説明する。急かすと、火傷をする。
鋳型を並べた。鉄の薄板に刻まれた溝が、炉の明かりで鈍く光っていた。「ア」「イ」「ウ」——この世界の文字で、母音から順に。三人で十日かけた五十文字だ。
坩堝を傾けて、鉛を流し込む。
鋳型の細い溝を、銀色の川が走った。一秒、二秒。ヨハンが小さく息を止めたのが、横で伝わってきた。
冷えた。
鋳型を開ける。
小さな「ア」が、鋳型の底に、立っていた。
「……立ってる」
ヨハンが言った。
「立ってる」
僕も、同じ言葉を返した。
返してから、僕は自分の声が少し震えていることに気づいた。震えていたのは、嬉しさじゃない。嬉しさの下に、もう一段、硬いものがあった。
——グーテンベルク。
前の世界の名前が、ひとつ、頭の中に立ち上がった。立ち上がって、すぐに、僕は首を軽く振って追い払った。追い払いきれなかったぶんだけ、舌の奥に、苦い味が残った。あの人が刷ったのは、聖書だった。思想を運ぶための版だった。ここで僕が刷ろうとしているのは——
「ムーアさん、押す板、準備できた」
ヨハンが、プレスの取っ手を握っていた。
僕は、思考を一度、床に下ろした。
紙を台に置いて、活字を組んだ組版を乗せる。インクを薄く塗る。取っ手を引く。木のねじ山が、ぎしっと鳴った。
鳴って、止まった。
予想より、ずっと軽く、止まった。
僕は、自分の腕の力を疑った。麦棒を叩き続けた分の筋肉は、たしかに少し付いていた。でも、この取っ手は、この冬に試作した時には、僕一人では半分しか引けなかったはずだ。
小屋の隅で、ローザがしゃがんでいた。
来ていたのか。いつから来ていたのかは、わからない。紙を運んできて、そのまま作業の隅に座り込んで、僕たちの手元を見ていたらしい。膝の上に、無地の紙が十枚くらい載っていた。その下に、あの帳面が挟まっていた。冬の間ずっと、僕の失敗を一行ずつ書き足していた帳面だ。
ローザの右手の指先が、床の埃の上に、すっと一本、見えない線を落とした。
僕は、その指と、プレスの取っ手を、交互に見た。
——聞かない方がいい。
そう決めた。決めた自分の決め方が、さっきヨハンの手を見て黙った時と、同じ手つきだった。
取っ手を戻して、紙をめくった。
一枚目。
「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」。
五つの文字が、縦に、同じ濃さで、同じ大きさで、紙の上に並んでいた。かすれはなかった。縦棒の曲がりもなかった。
「……できた」
ヨハンが、坩堝の前に立ったまま、小さく言った。言ってから、自分の右手を見た。手の甲の火傷の三つ目が、炉の明かりで、赤く光っていた。
「できたね」
ローザが、床の線を指で消した。消してから、帳面を膝の上で開いた。炭の先を紙面に当てて、短く何か書いた。——「また ながれた」「ねんど ちぢんだ」の並びの、その下に。
書き終えて、帳面を閉じた。閉じてから、膝の紙を、一枚、僕の方に差し出した。
「次、これ」
「うん」
「全部、同じにして。崩れないで、縮まないで、同じ字で」
「……全部、同じに、する」
ローザの声は、短かった。短かったけれど、いつもの「長い」や「で?」のときの短さじゃなかった。「崩れないで、縮まないで」——冬の間の、全部の失敗の名前だ。ローザは、ちゃんと数えていた。遠くの何かを掴みに行くときの手つきに似た短さだった。僕は、それを聞いて、うん、ともう一度答えた。
昼を少し過ぎたころに、セイが小屋に入ってきた。
入ってくるなり、鼻をひくつかせて、「鉛の匂いがする」と言った。セイの鼻は、年々よくなっている。市で荷物を嗅ぎ分けるための鼻だ。
「ムーア、噂は本当だったのか」
「噂?」
「あんたが、板じゃない方法で字を刷ろうとしてるって、婆さんがうちの母ちゃんに話してた」
婆さんの情報網は、相変わらず早い。
僕は、乾きかけた一枚目の試し刷りを、セイの方に差し出した。
セイは、それを両手で受け取って、縁を指でそっとなぞった。指が離れるとき、ほんの一瞬、紙の端を親指で弾いて重さを測った。商人の手つきだ。それから、紙を傾けて、インクの乗り具合を光に透かすように見た。
「字の濃さが——全部、同じだな」
「うん。木版だと、何枚か刷ると掠れる。鉛の活字なら、掠れない」
「これ、何枚でも、同じのが作れるのか」
「……同じのが、何枚でも。うん。たぶん、作れる」
「何枚でも」
セイは、短く繰り返した。繰り返して、それから黙った。黙ったまま、一度、坩堝の方を見て、次にプレスの取っ手を見て、最後に僕の顔を見た。
「ムーア、最初の一枚、俺のやつにしてくれないか」
「……あんたの、やつ?」
「うちの帳簿だ。誰がいつ、何を、いくらで売って、いくらで買ったか。手で写すと、間違える。間違えたぶん、次の市で、俺が損をする。写した紙を、もう一度確かめて、数え直す。——その手間が、毎回だ」
セイは、右手の指先で、空中に何かを描いた。数を数えるときに出る癖だ。描きかけて、止めた。
「それが——一度組んだら、あとは押すだけで、何枚でも出るなら。ムーア、それ、帳簿の枚数ぶんの手間が、一回で済むってことだろ」
そこで、少しだけ、声を落とした。
「在庫ってのは、多ければ多いほど、売れるもんなんだ。なんでかは、俺にも分からねえけど。——でも、帳簿が手元にあれば、俺がいない場所でも、数が動く」
セイの声は、確信でも、弱気でもなかった。どこか、自分でもまだ言葉にできていないものを、口先で試している声だった。
僕は、その一文を、胸の奥でそっと拾った。拾って、名前を付けそうになって、やめた。
やめた代わりに、口の端に、小さく、苦い笑いが出た。
「……いいよ、最初の一枚は、あんたの帳簿で」
「助かる」
「助かるって言われる筋合いは、ないと思うけどな」
「何だよ、それ」
「いや——」
僕は言い直した。言い直してから、口の中で、一度だけ、別の言葉を噛んだ。
——印刷の、最初の顧客が、資本家。
歴史通りだ、と思った。刷って金を回したのは教会じゃなくて、両替商だった、ということを、僕は知っていた。
——面白がるな、僕。
僕は、前にも一度使ったその言葉を、もう一度、口の中だけで噛んだ。
面白がるな。
今日は、セイの帳簿を、ただ刷る日だ。
「セイ」
「ああ」
「あんたの帳簿、組むのに三日くらい欲しい。文字の鋳型が、まだ足りない」
「三日か。じゃあ、次の市に間に合うな」
「……間に合うと思う」
セイは満足そうに頷いて、小屋の戸を開けて出ていった。戸が閉まる瞬間、外の春の風が、鉛の匂いを少しだけ、小屋の外へ押し出した。
その夜。
土間の隅の作業台に、午前中に刷った試し刷りの切れ端が、インクの乾いた跡を並べたまま置かれていた。
イェニーが、粥の鍋を火から下ろした。下ろしてから、木匙を鍋の縁に置いて、僕の方を見た。
「ムーア、今日、セイと何か約束したのかい」
「……うん。帳簿を刷る約束」
「帳簿」
イェニーは、「帳簿」という単語を、まるで外国の地名を発音するみたいに、一度だけ口の中で転がした。転がしてから、鍋の蓋に手を置いた。
「字が読める人が増えるのは、いいことだと思うよ。あたしは——うん、いいことだと思う」
「うん」
「でもさ」
イェニーは、そこで一度、木匙を持ち直した。持ち直した手が、鍋の取っ手に移って、取っ手の汚れを親指でそっと拭いた。拭きながら、声だけ、少し低くなった。
「……誰かに、目をつけられないかい。あの、字を押す道具——あんたが小屋で作ってるやつ」
僕は、答えなかった。
答えない代わりに、鍋の湯気が、土間の天井の梁のあたりまで上がって、消えていくのを見ていた。湯気の向こうで、ローザが、無地の紙を膝の上で一枚、撫でていた。撫でる指先が、さっき小屋の床で線を落とした指先と、同じ動きだった。
イェニーの言葉は、前の世界なら、すぐに答えられた。
——字は力だ、と答えることもできた。
そう答える模範解答を、僕は知っていた。知っていたけれど、ここでは、それを言いたくなかった。言えば、イェニーの顔に、あの「何かを別の話題にずらすときの目」が戻ってくるのが、わかっていた。
——誰かに、目をつけられないか。
イェニーの言葉は、正しかった。
僕が知っている歴史では、印刷が普及した後で、権力は必ず、読める人と読めない人の間に線を引き直した。
僕は、膝の上で、自分の指を、ゆっくり一度、握り直した。
握り直した掌の中には、午前中に刷った一枚目の試し刷りの、小さな切れ端がまだ残っていた。切れ端に印刷された「オ」の字が、僕の手の熱でほんの少しだけ湿っていた。
「……母さん」
「うん」
「もし、目をつけられたら、その時は、たぶん、僕が前に出る」
僕は、そこまで言って、言い終わった自分の語尾に、少しだけ戸惑った。いつもより、声が低かった。
イェニーは、すぐには返事をしなかった。木匙を、鍋の縁に、かつん、と一度だけ置いた。置いてから、ようやく、うん、と短く言った。
「——その前に、粥、冷めるよ」
話題が、ずれた。
ずらし方が、少しだけ、遅かった。
僕は、それに気づいた。気づいたけれど、顔には出さないまま、椀を受け取った。
椀を両手で包むと、粥の熱が、掌の切れ端に伝わった。伝わった熱で、「オ」の字のインクが、紙の繊維の中にもう一段、沈み込むのがわかった。
前の世界で、グーテンベルクが最初に刷ったのは聖書だった、と僕は覚えている。
この世界で、僕が最初に刷るのは、商人の帳簿だ。
思想じゃない。数字だ。
——それは、負けなのか。
僕は、椀の縁に、口を当てた。熱かった。熱さのぶんだけ、舌の先が、少しだけ、自分の意識を現在に引き戻した。
負け、ではない、と思った。ここは、そういう順番の世界だ。思想を運ぶ前に、帳簿が動く。帳簿が動けば、数字が、人の体の疲れを線に変える。線に変わった疲れを、ローザみたいな子が、一度、自分で燃やすことができる。燃やせる数だけ、また増やせる。
思想は、その後からでいい。
——後から、でいいのか。
僕は、もう一度、自分にそう聞いた。聞いてから、答えを出すのはやめた。答えを出すのは、今日じゃない。今日は、セイの帳簿を刷る三日前で、ヨハンの手の甲の火傷が四つ目になる前の日で、ローザが無地の紙をまた一枚、膝の上で撫でている夜だ。
土間の隅で、炉の熾が、ぱち、と一度だけ鳴った。
ちょうど、この冬の初めに、ローザが自分の紙を燃やした時と、同じ音だった。
同じ熾の熱を、今日の午前中、ヨハンが坩堝の縁で、知らないまま、受け止めていた。
僕は、粥を一口、啜った。
春の、最初の、熱い、粥だった。




