二十回のうちの二回目を数えた日に、炉の前にはもう一人いた
三日後に、僕は、ヴィルヘルムの鍛冶小屋の戸を、もう一度、押した。
戸は、前回より、少しだけ軽かった。蝶番に脂を差した跡が、戸口の上に黒く残っていた。——「もうちょっと早めに」は、炉だけの話ではなかったらしい。
「遅え」
声は、炉の奥から飛んできた。
「今日は——いや、雪は言い訳にしない。すまない」
「すまないも二度目は聞かねえ。入れ。戸閉めろ」
戸を閉めた瞬間に、炉の熱が、頬から首筋まで一度に押し寄せた。煤と鉄と、前回よりも少しだけ甘い、何かの脂の匂いが混ざっていた。背中の布包みの中で、昨日成形した粘土の型が、布越しに、まだ冷たかった。今日は、これを焼く。滑石の代わりになるかどうかを、確かめに来た。
「今日はな、坊主。もう一人いる」
ヴィルヘルムは、前掛けの胸の煤を手の甲で払いながら、炉の横を顎でしゃくった。
炉の横で、ふいごの柄を両手で握ったまま、少年が一人、立っていた。
僕より少し背が低い。肩幅は、僕よりある。腕の、肘から先の日焼けの仕方が、兄に似ていた。手の甲に、小さな火傷の痕が、三つ、並んでいた。
「ヨハン。俺の弟だ。今日から炉番につけるから、てめえの試作のときはこいつがふいごを踏む」
「……はじめまして。ムーアさん」
少年——ヨハンは、ふいごの柄を握ったまま、頭を一度だけ下げた。下げた頭が戻る間に、目が、ちらっと僕の手元の布包みに寄った。
「はじめまして。——ヨハン、よろしく」
「あ……よろしく、です」
ヨハンは、もう一度、小さく頭を動かしかけて、途中でふいごの柄に視線を戻した。戻した手が、柄の上で、一度だけ、握り直された。
「あの、兄貴から、聞いてるんだけど。字を、鉛で作ろうとしてる人だって。——鉛って、あの、溶かすやつ、だよね」
「溶かすやつだよ。溶かして型に流して、字の形にする。——いや、まだ一回も成功してないんだけど」
「一回も?」
ヨハンが、少しだけ、目を大きくした。大きくした目が、すぐに、また炉の方に逃げた。
「……俺、ふいごの踏み方が、兄貴の言う通りの回数じゃ、踏めないんだけど。その……遅くて」
ヨハンは、そう言いながら、自分の手元のふいごの柄を見下ろした。視線の先で、火傷の三つ目が、炉の明かりに赤く光った。
「気にしなくていいと思う。僕も——まあ、何をやっても、たいてい一回じゃ終わらないから」
「遅えのは知ってる」
ヴィルヘルムが、奥から鼻を一度鳴らした。
「遅えが、炉の温度は落ちねえ。なんでだかは知らねえが、こいつが踏むと、回数は足りねえくせに、炉の中は言うこと聞いてやがる。だから、まあ、使える。それだけの話だ」
——なんでだかは知らない。
僕は、その一文を、心の中で、もう一度、繰り返した。
繰り返しながら、ヨハンの手を見た。右手が、ふいごの柄の木に乗っている。左手は、炉の縁に、指の付け根のあたりが、そっと触れていた。触れているのに、彼は、自分の左手のことを、見ていなかった。
——見ていない。でも、炉は、落ちない。
そこまで考えて、僕は、自分の考えを、一度、脇に置いた。名前を付ける話は、今日じゃない。今日は、鋳型の話をしに来たのだ。
「今日は、粘土を持ってきた」
僕は、布包みをほどいた。中から、昨日の昼に成形した粘土の型が、二つ、出てきた。一つは「ウ」、もう一つは「エ」の鋳型だ。滑石が崩れたから、粘土を焼いて硬くすれば、鉛の熱に耐えるかもしれない。
「ほう」
ヴィルヘルムは、粘土の型を手に取って、重さを確かめるように一度、掌の上で転がした。
「焼いてねえな」
「炉で焼いてほしい。焼けば硬くなる」
「硬くはなる。なるがな——」
ヴィルヘルムは、粘土の縁を爪で引っ掻いた。前回の滑石のときと、まったく同じ動作だった。引っ掻いた爪の先には、今度は白い粉ではなく、茶色い粉が、薄く付いた。
「焼いたら縮むぞ。粘土ってのはな、水が抜けるぶん、縮む。縮んだ溝に鉛を流したら、お前さんの頭ン中の字と、出てくる字は、もう別のもんだ」
「……縮む。滑石は崩れて、粘土は縮む——逆の壊れ方なのか」
ヨハンが、ふいごの柄を握ったまま、小さく頷いた。頷いてから、自分が頷いたことに気づいたように、視線を炉に戻した。
「縮む。坊主、お前さんの聞いた通りだ」
「どのくらい縮む。溝を、その分だけ深めに彫っておけば——」
「知らねえ。粘土の種類で変わる。だから言ったろ、鉛は俺の専門じゃねえって。——まあ、焼いてやるから、出してみろ」
ヨハンが、ふいごを踏み直した。踏む音が、規則的に——いや、正確には、少しだけ遅く——小屋の中に響いた。
粘土を炉の縁に並べた。ヴィルヘルムが位置を調整して、ヨハンがふいごを踏んだ。炉の中の炭が、赤く、明るくなっていった。
待つ間、僕は、ヨハンの足を見ていた。ふいごを踏む足は、確かに、ヴィルヘルムが踏むときより遅い。でも踏み下ろすたびに、炉の中の空気が、均一に、動いている感じがした。
——この子の手は遅い。でも、遅いまま、何かが保たれている。
(前の世界では、温度制御は自動だった。ここでは、人の手が、温度そのものだ)
粘土が焼き上がった。
焼き上がった粘土を、炉から引き出した瞬間に、分かった。
「ウ」の溝が、明らかに、浅くなっていた。縮んだのだ。溝の底が——目で見て分かるくらい、浅い。
引き出した手が、一瞬、止まった。指先が、溝の底を、もう一度だけ、そっとなぞった。縮みの量は、指の腹の皺一本分より、わずかに広かった。
「言ったろ」
ヴィルヘルムは、親指で左手の人差し指の節を撫でて、一度だけ、僕の方を見た。
「縮んだ分、溝が浅い。浅い溝に鉛を流しても、出てくる字は、高さが足りねえ。紙に押しても、上の方が触れねえ。下だけ黒くなる。——流すか?」
「……流してみたい。駄目でも、見ておきたい」
「見ておきたい、か。——ヨハン、坩堝」
「うん。——えっと、大きい方? 小さい方?」
「小せえ方で足りる。鉛はちょっとだ」
ヨハンが、小さい方の坩堝を両手で持ち上げて、炉に入れた。入れる手が、少し、震えた。震えた手の甲で、火傷の三つ目が、もう一度、赤く光った。
鉛を溶かして、流した。
冷えるのに、一拍。
型を開けた。
「ウ」は、立っていた。立っていたが、字の上半分が、潰れたように低かった。紙に押せば、下の線だけが黒く出て、上は白いままだろう。読める字にはならない。
「エ」は、もっと悪かった。横棒の三本のうち、真ん中の棒が、溝の縮みに巻き込まれて、ほとんど消えていた。
「……二回目で、これか」
自分の声が、三日前と、同じ台詞を繰り返していることに気づいた。気づいて——いや、正確には、同じ台詞だけど、同じ失敗じゃない。滑石は崩れた。粘土は縮んだ。崩れることと縮むことは、違う。
違うと分かった瞬間に、胸の奥で、何か小さなものが、ふっと軽くなった。
「二回目だ」
ヴィルヘルムの返事も、三日前と同じだった。同じだったが、今度は、ヴィルヘルムは、鼻を鳴らさなかった。鳴らさない代わりに、前掛けの煤を、手の甲で、一度だけ、ゆっくり払った。
「滑石は崩れる。粘土は縮む。——理屈屋、次は何だ」
「……次は」
次は。
僕は、炉の前で、自分の指を見た。指の腹に、粘土の粉が、まだ付いていた。粘土の粉の下に、三日前の煤の脂の残りが、薄く、重なっていた。
「——分からない。でも、何か、硬くて、崩れなくて、縮まないもので、溝を削れるものが要る」
「この世にそんなもんがあるかは知らねえが」
「あるかどうかは——いや、ないかもしれない。ないかもしれないけど、ないことを確かめるのに、あと何回か、要る」
ヨハンが、ふいごの柄から、そっと手を離した。離した手を、前掛けの裾で、一度拭いた。拭いてから、少し遅れて、口を開いた。
「……ムーアさん。あの、その、縮まないもの、ってことは——硬い石とか、じゃないかな。兄貴が釘を打つときに使う、あの、灰色の——」
「黙ってろ」
ヴィルヘルムが、弟の言葉を、途中で遮った。ヨハンは肩をすくめて、ふいごの柄に視線を落とした。
遮ってから、ヴィルヘルムは、ヨハンの方を一度見て、それから、僕の方を見た。
「こいつの言ってるのは、たぶん、花崗岩のことだ。畑の端に転がってるやつだが、あれは硬えぞ。溝を彫るのは、お前さんの指じゃ、まず無理だ」
「花崗岩……。彫れるなら、試してみたいけど」
「彫れねえっつってんだ。鉄の鑿でも手間がかかる。ましてお前さんの溝は、爪の幅より細えだろ」
「……細い、かな。うん、確かに細い」
「硬すぎるんだよ。柔らかすぎるか、硬すぎるか。お前さんの字は、いつも、その間に落ちてるんだよ」
——柔らかすぎるか、硬すぎるか。
その言葉は、指の腹に残った粘土の粉として、残った。
帰り道は、来たときと同じ雪道だった。
踏み固められた雪が、靴の裏で、ぎしっ、と一度鳴った。鳴った音の後ろで、自分の吐く息が、前より少しだけ長く、白く残った。
その雪の脇で、老人が縄を解いていた。今日は石がなかった。
「今日は割らなかったのか」
「今日は、縦に割れた。割れたからもう、持って帰った」
「……縦に割れた」
「五回目でな。こないだの石は九回かかった。今度のは、五回で済んだ」
老人は、縄を解く手を止めずに、僕の方を、一瞬だけ見た。
「九回……。石によって、そんなに違うのか」
「そりゃ違うさ。石の中の筋が違う。割る前に分かりゃ楽なもんだが、そうはいかねえよ」
老人は、そう言って、手のひらの土を、膝の上で叩いた。叩いた手が赤かった。
五回目。
老人は、縄をひと巻き肩に掛けて、僕に背を向けて歩き出した。歩き出した背中は、話の終わりの形をしていた。
僕は、その数字を、頭の中で、もう一度、数えた。
家に戻ると、イェニーが、鍋の前にいた。湯気の向こうで、木匙をゆっくりかき回していた。
「おかえり。ムーア」
「ただいま」
「手、見せてごらん」
イェニーは、木匙を止めないまま、顎で僕の手を指した。僕が両手を開いて見せると、指先に付いた粘土の粉と、爪の間に入り込んだ煤を、一瞥した。
「怪我はしてないね。——セイの坊やがね」
イェニーは、木匙をゆっくり持ち上げて、鍋の縁で一度だけ叩いた。
「バスティアさんと、喧嘩してるらしいよ。値段の付け方で。婆さんが、そう言ってた」
「……値段の付け方で。——そうか、あの子が自分でつけ始めたから、ぶつかるんだろうな」
「もう、弟子っていうより、こう……別のものに、なりかけてるのかもしれないねえ。あの子、目がね、値段の話をするときだけ、きつくなるんだって」
イェニーは、木匙を鍋に戻した。戻しながら、鍋の中を覗き込んで、何かの具合を確かめるように、眉をほんの少し寄せた。
「まあ、きつくなるのが悪いとも、限らないけどね。——ムーア、今日も芋だよ」
イェニーは、それ以上は言わなかった。木匙が、鍋の底を、ゆっくり一周した。湯気が、手元のあたりで、一度、揺れた。
ローザは、土間の隅で、帳面を膝の上に開いていた。
僕が入ってきたのを、一度だけ見て、またすぐ帳面に目を戻した。
「また流れた?」
ローザは、帳面から目を上げなかった。
「書いてある」
帳面の端に、新しい行が一つ、増えていた。
「また ながれた ねんど ちぢんだ」
——ローザは、僕が帰ってくる前に、僕の失敗を、もう書いていた。
どうやって知ったのかは、聞かなかった。聞かなくても、たぶん、ヴィルヘルムの小屋の煤の匂いと、僕の手に付いた粘土の粉で、分かったのだろう。
「……正確だね」
「見れば分かる。あんたの手、粘土の粉ついてるし、前と違う匂いしてるし」
ローザは、そう言ってから、帳面をもう一度開いた。開いた帳面の上に、炭の先を置いた。
「今度は何で、駄目だったの」
「……縮んだ。焼いたら、水が抜けて、溝が浅くなった」
「ふうん」
ローザは、さっき自分で書いた「ねんど ちぢんだ」の行に、一瞬だけ、目を落とした。
ローザの炭が、帳面の上を、小さく動いた。何かを書き足しているのか、ただ指先を遊ばせているのか、角度からは見えなかった。
「前は崩れて、今度は縮んだ。——壊れ方が、違うんだ」
「うん。逆に壊れてる。柔らかすぎるか、硬すぎるかで——いや、それはヴィルヘルムの言葉だけど」
「人の言葉でも、合ってるなら、いいでしょ」
ローザは、帳面を閉じた。閉じた帳面の表紙を、指先で一度、叩いた。
その夜、僕は、また、麦藁の上で、長い間、寝つけなかった。
——今日で、二回目だ。
滑石は崩れた。粘土は縮んだ。二つの材料が、二つの理由で、駄目だった。
理由が違う。
理由が違うことを、僕は、たぶん、数えるべきなのだと思った。
前の世界の頭で考えれば、これは、変数の消去だ。一つの失敗が、一つの可能性を消す。消した数だけ、残りは減る。
麦藁が、背中の肩甲骨の下を、ちくりと刺した。
——でも、それは、頭の中の話だった。この世界では、変数は消えない。僕の指の腹に、粘土の粉として残る。
ヴィルヘルムが言った。柔らかすぎるか、硬すぎるか。
老人は言った。五回目で縦に割れた。
ヨハンは言った。「じゃないかな」と、遠慮しながら。
三人が、三つの言葉を、くれた。
三日前の夜、僕は、数えきれない手の数に気づいた。気づいただけだった。今日は、その手の中の三つに、名前が付いた。ヴィルヘルムの手は、僕が焼く前に「縮む」と知っていた。ヨハンの手は、ふいごの回数が足りなくても、炉の温度を保っていた。老人の手は、五回目に、縦に割れた。
僕の手は、まだ、二回目だ。
二十回のうちの、二回目。ヴィルヘルムの言葉を借りるなら、揃った字を一枚作れる手には、まだ、十八回分、遠い。遠いけれど——一人で来ていたら、粘土が縮むことに気づくのに、たぶん、もう二回は余計にかかっていた。ヴィルヘルムが焼く前に教えてくれたから、二回が、一回で済んだ。
——失敗を数えるのが仕事になっている。
いや、違うな。失敗を数えることが仕事なのではなくて——失敗のたびに、次の失敗の場所が少しだけ変わる。その変わり方を、数えている。
指先が、冷えていた。
外で、風の音が、ほんの少しだけ変わっていた。いつもの、雪の上を削るような乾いた風ではなく、ほんの少しだけ、湿った音が混じっていた。湿った音は、屋根の上の雪が、ほんの少しだけ溶け始めていることの、最初の兆しだった。
春が来る前に、あと何回、炉の前で失敗するのだろう。
でも、炉の前には、もう一人いる。
もう一人の手の甲には、火傷が三つあって、ふいごは兄より遅くて、でも炉の温度は落ちない。なぜだか分からないまま、落ちない。
僕は、目を閉じた。
閉じた目の裏で、今日の鉛が、粘土の縮んだ溝の中を、三日前とは少しだけ違う形に、冷えていった。




