表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/19

理論の中ではもう印刷機が動いていたのに、現実の木版は乾く前に割れた

 年が明けて、雪はまだ屋根の半分まで来ていた。


 土間の隅で、僕は鍋の底を見ていた。鍋の中には水と、煤と、煮詰まりかけた膠が入っている。膠は牛の蹄を煮出した汁だ。冬のうちに、井戸端で婆さんに教わった。「子どもの傷の上に塗ると、かさぶたの代わりになるよ」と婆さんは言った。僕がそれをインクに使うと言ったら、婆さんはふん、と鼻を鳴らして、それから、もう一束、蹄をくれた。「煮てる間は、外に出しな。匂いが家に居着くから」と言い足して、婆さんは、「この粘りは神様の気まぐれでね、出る日と出ない日がある」と、笑わずに付け加えた。


 鍋の中の煤は、今朝の竈の灰の中から、僕が指先でかき集めたものだった。指の腹に、灰の脂が、まだ薄く残っている。


 鍋の縁から立ちのぼる湯気は、重かった。獣の、どこか甘いような、けれど奥に焦げた蹄の芯を残したような匂いが、土間の低いところに溜まって、鼻の奥にこびりついた。息を吸うたびに、喉の一段下で、その匂いがざらりと引っかかった。——婆さんが「外に出しな」と言った意味が、今ようやく、鼻でわかった。


 ——煤を膠に混ぜれば、墨になる。


 頭の中では、それは、文字通り一行で済む話だった。


 手の方は、二回失敗していた。


 一回目は、煤が粗すぎた。粒が紙に乗ると、繊維の隙間で、ざらついた小さな塊になった。指でこすると、塊が紙の上をすべって、文字の形が崩れた。二回目は、煤を石でもう一度挽き直した。挽き直した煤を膠と混ぜると、今度は膠の方が多すぎた。紙に乗せた一筆は、しばらくすると、紙の繊維を吸い上げて、字の縁が外側に向けて滲んだ。


 滲んだ紙は、ローザの帳面の隅に、もう三枚、束ねてある。


 ローザは何も言わなかった。ただ、滲んだ紙を、自分の帳面の束の一番下に挟んで、その上に、新しい無地の紙を置いた。


 帳面の束は、十二月の終わりから数えて、もう僕の手の半分くらいの厚みになっていた。書かれている字は、ローザとムーアの両方の手で混ざっている。一番上のページには、今月の市で誰が何を持ってきたかが、ローザの手で線で区切られている。


「あんた、また、それ、煮てる」


 ローザが土間の入口で言った。戸を押した途端、冷気と一緒に流れ込んできた外の空気が、鍋の匂いを一度、押し返した。ローザは、鼻の頭を片手で軽くこすった。こすりながら、手に井戸から汲んできたばかりの水桶。桶を足元に下ろす前に、ローザの目は、鍋の隣に並べてある滲んだ紙の束に、ちらりと触れた。触れてから、桶を下ろした。


「うん。膠の量を、少し減らした」


「減らしたら、どうなるの。——鍋、ずいぶん臭うよ、今日は」


「婆さんも、そう言ってた。外に出せって。……滲み方が、変わる、はず。『変わる』じゃなくて、えっと、紙の繊維が膠を吸い上げる速さが落ちるから、字の縁が外に広がらなくなる。たぶん」


「はず、なのか、たぶん、なのか、どっち」


 ローザは訊きながら、自分の手の甲を、片方の指で一度だけ押した。指が止まった場所の上で、寒さの名残が、まだ白く抜けていた。


「……どっちでもない。まだ分からない、が、正しい」


「じゃあ最初から、分からない、って言えばいいでしょ。あたしだって、そのほうが、聞いてて楽」


 ローザは桶を土間の隅に置いて、僕の鍋の方に屈み込んだ。屈み込んだ拍子に、鍋から立ちのぼる獣の匂いが、ローザの顔の高さに一度まとわりついた。ローザは眉の間を少しだけ寄せて、片手の指先を、自分の帳面の束の上に置いた。置いた指は、新しい無地の紙の縁を、ほんの一拍だけ、整える方向に押した。それから、帳面の下の方を親指で捲った。捲る指が、滲んだ紙の枚数を数えるように、一枚ずつ弾いた。


「三枚。滲んだの」


「うん」


「あたしが叩いた紙が三枚、あんたの墨で、読めない字になって、ここにある」


 読めない字、という言い方には、責めの色はなかった。事実を、事実の形のまま、口の前に置いただけだった。


「……うん。読めない字になった」


「で、滲まないやつ、何枚いるの」


「……たぶん、百枚」


「百」


 ローザは繰り返した。繰り返してから、自分の指の下の、新しい無地の紙の縁を、もう一度、整える方向に押した。押した指の動きが、最初より、ほんの少しだけ強くなっていた。


「そのために、毎月、あたしが叩いてる紙、何枚使うの」


「……たぶん、十枚は、無駄になる」


「十」


 ローザはそれだけ言って、立ち上がった。立ち上がって、桶の方に戻った。戻る背中の途中で、一度だけ、肩越しに振り向いた。振り向いた拍子に、髪の先が、鍋の匂いの中を通って、ローザの頬の横でひとつ揺れた。


「あんたが十枚って言うときは、たぶん、二十枚」


「……二十枚かもしれない」


「あんた、自分の見積もり、二倍にしてから言ってみたら。あたし、そっちの数で、叩く紙を用意するから」


 ローザは、それから、桶の水を鍋の方ではなく、自分の手の上に少しだけ落とした。落として、指先の埃を流した。流す音が、土間の壁に反射して、ぱしゃ、と一拍だけ鳴った。鳴った音の後ろで、鍋の中の膠が、とろり、と一度、ゆっくり表面を返した。



 昼前に、僕は、樫の板を一枚と、煮詰めた墨の壺を布に巻いて、ヴィルヘルムの鍛冶小屋に向かった。


 雪は、踏むと膝のあたりまで来た。踏み込むたびに、靴の底から冷えがにじんだ。背中の樫の板が、歩くたびに、肩の紐を引いた。三つ隣の村までの道は、年明けからの雪で、半分埋もれていた。道の真ん中で、村の老人とすれ違った。老人は、肩に石を一つ、抱えていた。肩の布の下で、石の角が、老人の綿入れの肩口を、ぎゅっと押し沈めていた。


「また、石か」


 僕はそう言った。


「また、石だ」


 老人は、それだけ言って、僕の背中の樫の板を、ちらりと見た。見た目のあたりが、ほんの一瞬、昨日の焚き火の残り火のような色にやわらいだ気がした。——気のせいかもしれなかった。


「お前さんは、今度は、木か」


「木と、墨だ」


「ふん」


 老人は鼻を鳴らして、肩の石を、雪の上に一度下ろした。石は、雪を押し潰しながら、ゆっくり沈んで止まった。ずん、と低い音が、雪の底から返ってきた。止まった石の表面に、薄く、白い線が一本、走っていた。線は、石の中を縦に貫いている。


 老人は、下ろした石の脇に片膝をついた。綿入れのほつれから、藁くずが一本、こぼれて雪の上に落ちた。落ちたそれを指で拾い直してから、老人は、石の縦線の上を、人差し指の腹で、上から下へ、ゆっくりなぞった。なぞる指は、線の上で、一度、途中で止まった。止まったところで、老人の眉の奥が、わずかに緩んだ。指の腹が、そこにある何かを、確かめるように、小さく二度、揺れた。


「これは、こないだ、割れる方を間違えた」


「間違えた」


「縦に割りたかった。横に割れた。割れたから、今、もう一度、別の角度を試しに、家まで持って帰る」


 老人は、それから、雪に鼻水をすすった。すすった後、もう一度、自分の指を、石の線の上に、ほんの一拍だけ置いた。置いた指は、何も言わずに、すっと離れた。


「——神さんの気まぐれだ。こういうのは」


 老人はそう付け足して、それから、石を肩に乗せ直した。乗せ直す拍子に、僕の顔の方に、一度だけ、目を止めた。


「お前さんも、間違えるのか」


「……たぶん、いま、間違えてる、最中だ」


「ふん」


 老人の「ふん」の終わりが、いつもの「ふん」より、ほんの半拍だけ、長く伸びた。それが、老人の頷きだった、のかもしれなかった。老人は、それで満足したらしく、こちらに背中を向けて歩き出した。背中の石が、ゆっくり、遠ざかっていった。


 ——縦に割りたかった石が、横に割れた。


 頭の中で、その一文だけが、しばらく、僕の歩幅と一緒に揺れた。



 ヴィルヘルムの鍛冶小屋は、冬の間は炉の火が落ちていない。戸を押すと、熱と煙が、僕の顔に一度に押し寄せた。雪の上を歩いてきた頬が、入った瞬間に、ぴりっと刺された。炉の奥で、赤い光が、ひとつ、また一つと脈打っていた。脈打つ間隔は、ヴィルヘルムが息を吐く間隔と、どこか、揃っているようにも見えた。——炉の前で息を揃える、というのは、ヴィルヘルム本人にとっては、たぶん、火の話ではなく、己の息の話なのだろう。


「おう、来やがったか。このガキ」


 ヴィルヘルムは、革の前掛けの胸のところに、煤の手の跡が二つ並んで付いたまま、奥の土間から声を上げた。声は、炉の熱の上を滑るように、僕のところまで届いた。


 ——炉の前のヴィルヘルムは、市の日に聞いた声とは、だいぶ違う声で話す。


 頭の中で、僕は、一度、そう整理し直した。去年の秋の市で初めて鉄を持って現れたときの、「市があると聞いた。市がある日になら、来る」と言った人物と、今、僕に「このガキ」と投げつけた人物が、同じ人物だと理解するのに、毎回、半拍いる。


「半日、待ってたぞ。お前さんの『昼前には行く』は、俺の知ってる昼前より、いつも半刻遅え。覚えとけ」


「……すまない。雪が深くて、膝まで——」


「雪を言い訳にする奴はな、春になったら雪解けを言い訳にしやがる。夏は夏で、暑いと言いやがる。覚えとけ」


「いや、言い訳じゃなくて、道が半分埋まってて——」


「覚えとけ、つってんだ。半分だろうが全部だろうが、約束が半刻ずれてんのは、お前さんの足の遅さの話だ。雪の話じゃねえ。——まあ、いい、入れ。戸、閉めろ。炉の火が逃げる」


 僕は戸を押して閉めた。閉めた戸の下の隙間から、冷気が一筋、まだ吹き込んでいた。


「鉛、来てる」


 ヴィルヘルムは、奥の土間の隅を顎でしゃくった。隅には、布の包みが一つ置いてあった。布をめくると、灰色の塊が、二つ。一つは僕の拳ほど。もう一つはその半分。持ち上げると、大きさのわりに、手首がずしりと沈んだ。


「三つ隣の、そのまたさらに向こうの、山のふもとまで伝手たどって頼んだぞ。お前さんが『鉛』って言い出したとき、俺は、あそこまで頭下げに行かなきゃなんねえのか、って一度天井を仰いだ。鉄と銅はうちの炉で扱う。だが鉛はな、俺の親父の代からうちでは扱ってねえ。専門が違う」


「……すまない。でも、鉛じゃないと駄目なんだ。鉄だと融ける温度が高すぎて、型が先に壊れる。鉛なら——」


「ああ、理屈はいい。お前さんの頭ん中の話は、もう三回聞いた。融ける温度がどうの、流し込む順番がどうの。それは分かった。分かったから持ってきてやったんだ」


 ヴィルヘルムは鼻を一度鳴らした。


「謝るな。謝られると、俺が頼み込んだ向こうの親父に、俺がさらに謝らなきゃなんねえ気分になる。面倒くせえ。お前さんは、鉛を使うに足るもん作れ。それが礼だ。それ以外はいらねえ」


 ヴィルヘルムは前掛けの胸の煤を手の甲で払った。払った煤は、払ったそばから、炉の熱で揺れる空気の中に吸い込まれていった。


「で、持ってきたか」


「持ってきた」


 僕は、背中から樫の板を下ろした。布をほどくと、樫の表面に、僕がこの一週間で彫った試し彫りの跡が、五つ並んでいた。五つとも、深さが揃っていない。


「文字を、彫った。逆向きで」


「逆向き?」


「紙に押したときに、正しい向きで出るように。——いや、正確には、墨を乗せて押したときに、紙の上で左右が反転するから、彫る段階で鏡にしておく必要がある」


「……ふうん。で、彫ったのはこの五つか」


 ヴィルヘルムは、樫の板を片手で持ち上げた。指の腹で、彫った溝を、一つずつなぞった。なぞる指の動きは、ゆっくりだった。なぞり終わってから、彼は、樫の板を、土間の作業台の上に、どん、と音を立てて置いた。置いた手は、そのまま板の縁に残った。


「てめえ、これ、五つ並べて彫ったつもりか」


「……彫った、つもり、だけど」


「一つ目と、五つ目で、深さが違ェんだよ。途中で手が疲れて、浅くなってる。浅くなってることに、てめえ、彫ってる最中は気づいてねえだろ。気づいてたら、こんな並べ方はしねえ」


「……いや、三つ目のあたりで、少し、気づいてた。刃の入り方が浅い気がして。——でも、それが深さの問題なのか、刃の角度の問題なのか、区別がつかなかった」


「区別がつかねえなら、一つ彫るたびに指で確かめろ。目で見て分からねえもんは、指で分かる。……まあ、手が覚えてねえうちは、目でも指でも分からねえんだがな」


 ヴィルヘルムは、自分の太い指で、一つ目の溝と五つ目の溝を交互になぞった。


「墨を乗せて押したら、深え溝は黒く出る。浅え溝は、出ねえ。出ねえところがある字を、お前さんの言う『字』と呼ぶのか、俺は知らねえが、少なくとも俺は、これを字とは呼ばねえ。紙の上の、ぼやけた影だ」


 短くはなかった。


 短くないまま、ヴィルヘルムは、樫の板の縁を、もう一度、指の腹で撫でた。


「やり直せ、とは言わねえ」


「……言わない」


「言わねえが、これじゃ、刷れねえよ、理屈屋」


 ——理屈屋、という呼び方には、棘と、ほんの薄い笑いが混ざっていた。笑いは、僕を見下ろす方向にではなく、僕の手元の樫の板を見下ろす方向に向いていた。


「鉛は、用意した。鋳型は、お前さんが持ってくると言ってた。持ってきたか」


「……持ってきた。滑石を、削って」


 僕は、上着の内側から、布で包んだ滑石の塊を取り出した。塊の表面には、僕がこの三日で削った文字の溝が、二つ、彫ってあった。「ア」と「イ」だ。


 ヴィルヘルムは、滑石を手に取って、溝の縁を、爪の先で軽く引っ掻いた。引っ掻いた爪の先に、白い粉が、薄く付いた。


「……おい」


「うん」


「これ、柔らけえな」


「……柔らかい。うん、分かってる。硬い石だと僕の手じゃ削れなくて、この石なら刃が入った。だから——」


「だからじゃねえよ、坊主。柔らけえ、の意味、お前さんが分かってるのは、お前さんの刃の話だろ。鉛の方の話を聞いてるんだ、俺は」


 僕は、言い直そうとした。言い直す前に、ヴィルヘルムが先に続けた。


「爪で引っ掻いて白い粉が付く石ってのはな、鉛みてえに熱で溶ける金属を流し込むと、縁が、鉛と一緒に、削れて流れる。流れて、どっかに行く。一回目は、まあ、形にはなる。たぶんな。二回目はな、もう、お前さんが頭ん中で描いてる『ア』と『イ』とは、別の字だ。俺の言ってる意味、分かるか」


「……分かる。削りやすいってことは、鉛の熱にも負けるってことだ。僕は、自分の手で削れることだけ考えて、鉛が削ることを——考えてなかった」


「そうだ。で、なんで、この石を選んだ」


「……柔らかい方が、削りやすいと思ったからだ。——いや、正確には、硬い石を試す前に、手に入った石がこれしかなかった。選んだんじゃなくて、これしかなかった」


「お前さんは今、言い直したな。選んだ、と、これしかなかった、は、たぶん全然違えんだろ、お前さんの頭ん中じゃ。……まあいい。どっちにしろ、この石じゃ二回目はねえ。お前さんは頭がいいと聞いてたが、ここは、つながってねえんだな」


 ヴィルヘルムは、それから、滑石を作業台の端に置いた。置いた音は、さっきの樫の板を置いた音より、一段軽かった。軽くなった音の分だけ、僕の背中の筋肉が、少し縮んだ。


「……でも、僕は、一回、流してみたいんだ」


 ヴィルヘルムは、僕の顔を、初めてまっすぐ見た。見たまま、しばらく動かなかった。動かないままで、彼は、自分の右手の親指の腹で、左手の人差し指の節を、一度、撫でた。職人が、何かを言う前に、自分の手の癖を確かめる動きだった。


「お前さんはな、坊主」


「うん」


「一回目で形になればいい、と思って、ここに来たのか」


「……来た」


「俺はな」


 ヴィルヘルムは、左手の人差し指の節を、もう一度、撫でた。


「俺は、二十回目で形が同じになる方を、信じてる。信じてる、っていうか、それしか知らねえ。お前さんの頭がいいのは分かる。話を聞いてても分かる。物分かりも早え。それも分かる。——でもな、物ってのは、頭の中じゃなくて、手の下でしか、言うこと聞かねえんだよ。一回目で形になるのを当てにして生きてる職人を、俺は、この三十年で、一人も見たことがねえ。一人もだ」


 ヴィルヘルムの声は、責めていなかった。責めていない代わりに、低い場所で、動かなかった。


 僕は、しばらく、黙った。黙った間に、炉の中の薪が、ぱち、と一度、爆ぜた。爆ぜた音の方が、僕の喉の奥にあった言葉より、先に出た。


「……一回目で形になっても、それは、形の練習には、ならない、と思ってる、んだ」


「ほお」


「僕は——いや、僕も、形が揃って初めて、字だと思ってる。揃わないなら、それは、字の真似事だ」


「真似事、ね」


 ヴィルヘルムは、その言葉を、舌の上で一度転がすように、繰り返した。


「真似事を一回やるのと、真似事をしねえために二十回やるのと、どっちが近道か、お前さん、本当に分かってるか」


「……分かってない、かもしれない」


「かもしれない、でいい。分かってる、って言われたら、俺は今日、鉛は流さねえ」


 ——「分かってない」の方を、彼は、鉛を流す理由に数えた。


 僕の足の裏が、炉の方へ、一拍、先に向いた。


 ヴィルヘルムは、鼻をもう一度鳴らして、前掛けの胸の煤を、手の甲で払った。払いながら、炉の方に歩き出した。


「流すぞ。覚悟しろ、坊主」



 それでも、その日のうちに、鉛は流した。


 ヴィルヘルムは、流すことには反対しなかった。反対しない代わりに、流す手順の途中で、何度か、悪態を混ぜた指示を、僕の手元に飛ばした。


「炉の前に、もう一歩近づけ。おい、そこだ。そこで止まれ。前のめりになりすぎるな、頭でっかち、顔、火傷するぞ。お前さんが顔に傷作って帰ったら、お前さんの家の母ちゃんに、俺が叱られる。叱られんのは、俺は、嫌だ」


 一歩踏み出すと、炉の熱が、顔の皮膚を一枚、押した。息が、勝手に浅くなった。


「……近づけた」


「鉛が、まだ柔らけえ。もう一拍、待て。見ろ、坩堝の縁の色。あそこがまだ赤い。あそこが落ち着いてから流さねえと、流れるんじゃなくて、はねる。はねた鉛は、お前さんの手の甲に乗る。乗ったら、しばらく取れねえぞ」


「……待つ」


 ヴィルヘルムは、言いながら、炉の口に向かって、ひとつ、浅く息を吹いた。吹いたわけではない、と僕は後で思い直した。吹いたのではなく、吐いた息を、炉の口の上で一拍だけ揃えた。揃えた瞬間、炉の奥の赤が、ほんの半段だけ、色を深くした。——村人たちが「神さんの気まぐれ」と呼んでいるものを、ヴィルヘルムは、三十年かけて、気まぐれではなく息と手の段取りに縫いつけていた。


 炉の熱が、僕の額の汗を、次から次へと押し出した。押し出された汗が、眉の上で一度止まって、それから、頬の方へ流れた。


「待て、待て——いま」


 いま、と言われた瞬間に、僕は坩堝を傾けた。傾けた坩堝の口から、銀色の細い川が、滑石の溝に流れ込んだ。流れ込んでいく間、ヴィルヘルムは口を結んでいた。流し終わるまで、二人とも息を止めていた。


 冷えるのに、一拍。


 滑石の蓋を開けた。


 「ア」が、立っていた。冷えかけた鉛から、甘くて重い匂いが、鼻の奥にこもった。


 立っていたが、文字の縦線の右側が、半分だけ、外側に流れていた。流れた先で、滑石の縁が、確かに、白く崩れていた。


 「イ」の方は、もっとひどかった。横棒の右端が、滑石の縁を巻き込んで、薄い灰色の翼のように、外に広がっていた。


「……一回目で、これか」


 僕は、自分の声が、思っていたより低いことに気づいた。


「一回目だ」


 ヴィルヘルムは、滑石を片手で持ち上げて、溝の縁を親指でなぞった。なぞった親指の先に、崩れた粉が、薄く付いた。


「見ろよ、理屈屋。ここだ。一回流しただけで、縁はもう、こうだ。お前さんの『ア』の右側、鉛と一緒に、削れて、どっかに行った。行った分だけ、『ア』は、お前さんの頭の中の『ア』じゃ、もう、ねえ」


「……そうだな。僕の頭の中じゃ、百回流しても同じ形が出る予定だった。一回で、もう、違う」


「百回、ね」


 ヴィルヘルムは、その数字を聞いて、一瞬だけ、目を細めた。


「二回目を流したらな、もうこの溝は、別の溝だ。お前さんの知ってる『ア』でも『イ』でもねえ。別の、誰も見たことがねえ、名前のつけらんねえ字が出る。それを、お前さんは『刷った』って、呼ぶつもりか」


「……呼ばない。呼べない。——いや、一回目も、刷ったとは呼べないだろうな、これは。流しただけだ」


「流しただけ、か。……まあ、そういう言い方ができるなら、お前さんの目は、まだ死んでねえ」


 ヴィルヘルムは、それから、自分の前掛けの胸の煤の跡を、一度、手の甲で払った。払って、僕の方を、もう一度見た。


「お前さんの頭ん中の話はな、聞いてる。炉の前で鉛を待ってる間、ずっと、お前さんから聞いてた。同じ字を、何枚でも、刷れる、っていう話だろ。紙の数だけ、同じ字が並ぶ。理屈屋の頭ん中じゃ、もう並んでる。俺にも、見える気がしてきた。そういう話だ」


 ——この人は、炉の熱を三十年分背負いながら、僕の頭の中を、見ようとしていた。


「……並んでる」


「俺はな、坊主」


 ヴィルヘルムは、親指で左の人差し指の節を、また一度、撫でた。


「同じ字を何枚でも、より先に、揃った字を、一枚、欲しい」


 短い、とは言えなかった。


 短いとは言えない長さのまま、彼は続けた。


「揃った字を一枚、確かに作れる手があって、その手で初めて、『何枚でも』になる。『何枚でも』が先に来るとな、お前さんの手は、揃うことを忘れるんだよ。忘れた手が、何枚でもを刷っても、それは、同じものを刷ってねえ。分かるか。それは、印刷じゃねえんだよ、理屈屋。真似事を、数だけ増やしてるだけだ」


 真似事、という言葉が、二回目に、さっきより深い場所に落ちた。


 ヴィルヘルムは、それから、一拍置いて、言い足した。声は、さっきより少し、柔らかかった。


「まあ、言うだけ言ったけどよ。お前さんが、二十回目のための一回目に、今日のこれを数えるつもりなら、俺は、明日も来てくれていい。明日の炉は、俺が、もうちょっと早めに熱くしておく。——言わねえけどな、そんなことは」


 僕は、坩堝の縁の煤を、指の腹で一度、撫でた。撫でた指の腹に、煤の脂と、ほんの少しの鉛の粉が、混ざって付いた。


 ——縦に割りたかった石が、横に割れた。


 道の途中で老人が言った言葉が、なぜか、もう一度、頭の中で立ち上がった。立ち上がった一文の隣に、別の一文が、勝手に並んだ。


 ——揃った字を一枚作れる手は、たぶん、何枚でもを欲しがる手より、ずっと遠い。


 遠い、という言葉は、僕の体の中で、樫の板の重さと同じ場所に、すとんと落ちた。



 帰り道、雪はもう、踏み固められていた。


 踏み固められた雪の上を、僕は、樫の板を背中に括り直して、歩いていた。墨の壺は、ヴィルヘルムの小屋に置いてきた。膠の量と煤の挽き方を、もう一度、向こうの炉の熱で試してみる、と彼が言ったからだ。「炉の前で乾かせば、滲み方が変わる」とも言った。たぶん、本当だろう。


 道の真ん中で、また、老人とすれ違った。老人の肩には、もう石はなかった。代わりに、空の縄が一本、ぶら下がっていた。縄の先が、歩くたびに、雪の上を、ゆるく引きずっていた。


「割れたか」


「割れた。でも、また、横に割れた」


「ふん」


 老人は、空の縄を片手で軽くたぐり寄せた。たぐり寄せた縄の端を、一度、指先で払って、そこについた雪を落とした。落とす指の動きが、さっき石の線をなぞった指の動きと、同じ丁寧さだった。


「家でやると、縦に割れない。畑の隅でやると、縦に割れる。たぶん、家の土間の固さが、悪い」


「……土間の、固さ」


「石の下に、何があるかで、割れる向きが変わるんだよ」


 老人は、言いながら、空の縄の端を、もう一度、ぽんと雪の上で弾いた。それから、僕の背中の樫の板を、ほんの一瞬、目で確かめるように追った。——そっちの木は、下に、何があるんだ。という目、だった気がした。老人は、それを口にはしなかった。代わりに、鼻を、今日二度目に鳴らした。鳴らした後、わずかに口の端が緩んだ。緩んだのか、吐いた息で雪が溶けただけなのか、僕には判断がつかなかった。


「……寒いな、今日は」


 老人がそれだけ言った。言ってから、また背中を向けて歩き出した。


 石の下に、何があるかで、割れる向きが変わる。


 僕は、その一文を、自分の歩幅の中に、もう一度入れた。入れた一文が、樫の板の重さと、揃った字を一枚作れる手の遠さと、同じ場所で、ぶつかった。


 ぶつかった先で、ようやく、別の一文が出た。


 ——僕は、印刷機の下にある、何を、まだ見ていないんだろう。



 家に着いたのは、日が落ちかけた頃だった。


 戸を押すと、土間の奥で、イェニーが鍋の前にしゃがんでいた。鍋の蓋は半分ずれていて、湯気がそこから低く出ていた。湯気の匂いが、いつもより少しだけ、甘かった。


 ローザは、土間の隅で、自分の帳面の束を、膝の上に開いていた。開いた一番上のページには、新しい線が二本、走っていた。線の隙間に、「あんた なし」と書いてあった。


「……これ」


「あんたが今日いなかったから、書く欄を、空けといた」


 ローザは、それだけ言って、炭の先で、空の欄を、ちらっと示した。示してから、僕の方を見た。見る目が、樫の板ではなく、僕の指先に止まった。


「煤、ついてる」


 言われて初めて、自分の指の腹が、まだ黒いことに気づいた。鍛冶小屋で坩堝の縁を撫でたときの、煤と鉛の粉が混ざったやつだ。


「……うん。鍛冶小屋で」


「手、洗ってないでしょ」


「洗って——いや、洗ってない。帰り道、忘れてた」


 ローザは、それから、僕の背中の樫の板の方を、ちらりと見た。


「持って帰ってきた」


「持って帰ってきた」


「向こうじゃ、刷れなかったの」


「……刷れなかった。鉛は流せた。一回は。でも——型が柔らかすぎて、鉛の熱で、溝の縁が一緒に流れた。字の形が、崩れたんだ」


「石が柔らかかったの」


「うん。硬い石なら——いや、硬い石は僕の手じゃ削れない。削れる石を選んだら、鉛に負けた。ヴィルヘルムにも、言われた」


「何て」


「……削りやすいってことは、溶けやすいってことだ、って」


 ローザは、少しの間、黙った。黙ったまま、自分の帳面の「あんた なし」の欄に、炭の先を当てた。当てたまま、しばらく止まった。


「あんたの手で削れて、鉛に負けない石って、あるの」


「……分からない。たぶん、あるんだと思う。探さないと」


 ローザは、止まっていた炭の先を、動かした。「あんた なし」の欄に、新しい一文を書き足した。


「ながれた」


 書き終わってから、ローザは炭の先を浮かせた。浮かせた指の動きが、さっき水で埃を流した動きと、同じ手つきだった。


「明日も、向こう、行くの」


「……たぶん、行く」


「行くなら、墨は、そっちで作ってもらう?」


「うん。ヴィルヘルムが、炉の前で乾かす、って言ってた」


「あんた、墨くらい、自分で作りたかったでしょ」


 ローザの一文は、責めていなかった。責めていない代わりに、僕の喉の奥の、まだ言葉になっていない場所に、まっすぐ落ちた。


「……作りたかった」


「でも、向こうの方が、ちゃんと作れる」


「うん」


 ローザは、帳面を膝の上で、ぱたん、と閉じた。閉じてから、一瞬だけ、僕の方に目を向けた。


「分業」


 ローザはそれだけ言った。「分業」という単語は、僕がいつか紙の上で書いて、彼女に読ませた、彼女の覚えた言葉だった。覚えた言葉を、彼女は、いま、自分の口で、僕の今日の負けに、貼った。


 貼られた言葉の重さが、樫の板の重さに、もう一段、重なった。


 ——「分業」という言葉を、僕は、いつかローザに教えた。教えた言葉で、僕は今日、一人で、全部の役を、やろうとしていた。


 土間の奥で、イェニーが、鍋の蓋を全部ずらした。湯気の匂いが、一段、濃くなった。芋と、少しの脂と、骨から出た出汁の、甘くて薄い匂い。


「あのね、ムーア」


「うん」


「手、こっちおいで。洗ってあげるから」


 イェニーは鍋の横に置いてあった端切れを、水桶に浸した。僕が手を出すと、黒い指の腹を、端切れで、ゆっくり拭った。拭う手つきは、子どもの手を拭く手つきだった。僕は黙っていた。


「セイの坊やがね、年明けてから、別の村まで、自分で荷を取りに行ってるって、婆さんが井戸でそう言ってた」


「……自分で」


「バスティアさんを、待たないで、自分で。婆さんが言うにはね、坊やはね、自分の荷の値段を、自分でつけ始めてるらしいよ。重さ量って、この布は何枚でこの塩はいくら、って。前はバスティアさんが全部決めてたのにねえ」


「……自分で、値段を」


「いいことかも、しれないし、悪いことかも、しれないねえ」


 イェニーは端切れを桶に戻して、木匙を取り上げた。鍋の中をゆっくりかき回した。かき回す手が、ふっと、止まった。


「字が読めるようになると、人は、自分の値段を、自分でつけ始めるのかねえ」


 誰も、その問いには、答えなかった。


 イェニーは、止まった木匙を、また動かし始めた。動かしながら、小さく、鼻歌のような息を漏らした。鼻歌ではなかった。考えごとをするときの、イェニーの、いつもの息だった。


 答えなかった代わりに、ローザが、自分の帳面の「ながれた」の隣に、もう一文、書き足した。


「セイ ひとり」


 書き終わってから、ローザは、炭の先を、土間の床の上に一度だけ置いた。



 その夜、僕は、麦藁の上で、長いこと寝つけなかった。麦藁の先が、首の後ろを、ちくちくと刺した。背中が、麦藁の固さの上で、どこにも沈まなかった。


 頭の中で、揃った字を一枚作れる手と、何枚でもを欲しがる手の距離を、何度も測り直した。測るたびに、距離は、樫の板の重さで、少しずつ、伸びた。


 伸びた距離の向こう側に、ヴィルヘルムの「俺は、二十回目で形が同じになる方を、信じてる」という低い声が、まだ、立っていた。立っていた声の隣に、老人の「石の下に、何があるかで、割れる向きが変わる」が、並んで立っていた。


 指先が冷えていることに、初めて気づいた。


 二つの声が並んだ場所に、僕は、自分の頭の中の博物館のガラスケースを、もう一度、置いてみた。置いたガラスケースの中の、整った活字の列と、その列を支える、見えない手の数を、僕は、初めて、数えようとした。


 数え始めて、すぐに、数えきれなくなった。


 外で、犬が一声、遠くで鳴いて、すぐに止まった。止まった音の後ろで、雪を踏む足音は、もうどこにもなかった。


 数えきれない手の数の上に、僕の「同じ字を何枚でも」が乗っていた。乗っていたものを、僕は、これまで、一人で乗せていたつもりだった。


 麦藁が、背中に食い込んでいた。


 ——一人じゃ、乗らないんだな、これは。


 闇の中で、ローザの帳面の「セイ ひとり」の四文字が、もう一度、目の裏に戻ってきた。一人で乗らないものと、一人で乗れるものが、同じ夜の中に、並んで置かれていた。


 その一文を、僕は、夜の麦藁の中で、声には出さなかった。出さなかった代わりに、自分の右手の人差し指の腹を、もう一方の掌の中に、一度、押し込んだ。押し込んだ指の腹は、まだ、墨の壺の縁を撫でた時の、煤の脂のにおいを、薄く残していた。


 外で、雪が、屋根の上を、もう一段だけ深く沈んだ音がした。


 春までは、まだ、長い。


 長い間に、僕は、ヴィルヘルムの炉の前で、揃った字を一枚作れる手を、たぶん、二十回、覚え直す。覚え直す手と一緒に、ローザの帳面は、たぶん、もう少し厚くなる。厚くなった帳面の中に、セイの「ひとり」が、もう一行、書き足される。


 ——縦に割りたい。けれど、横に割れる日も、まだ、続く。


 僕は、目を閉じた。


 閉じた目の裏で、滑石の溝から流れ出した銀色の鉛が、冬の闇の中を、ゆっくり、別の形に冷えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ