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読める子の後ろから、字を知らない親が、その指の先を盗み見るようになった

 セイの帳簿の三十枚を、小屋の隅に積み終えた朝のことだった。


 セイは、紐で半分の束を括って持ち帰り、残りは「また三日後に取りに来る」と言って戸口を出ていった。追加の三十枚を頼まれたわけではない。刷った分の半分を、先に持ち帰っただけだ。それでも、戸口を出ていく背中は、冬に彼が広場の隅で屋台を覗いていたあの日の背中とは、もう、少しだけ別の輪郭をしていた。


 炭と、鉛と、紙の匂いが、セイの肩と入れ違いに、急に軽くなった気がした。仕事がなくなったわけじゃない。同じ組版で、もう三十枚刷ればいい。鋳型を変える必要もない。——仕事がなくなったわけじゃないのに、僕は、少しだけ、手が空いた気がした。


 空いた手に、イェニーの、夜の声が戻ってきた。


 ——誰かに、目をつけられないかい。


 僕は、組版の脇に置いてあった試し刷りの切れ端を、もう一度、指で裏返した。裏面は、白かった。白い紙に、炉の炭の芯で、小さく字を書き留めれば、誰の目にも届かない場所に、考えを貯めていける。


 ——貯めていけば、いい。


 僕は、余った切れ端を三枚ばかり、懐の内側に差し込んだ。差し込んでから、自分の手つきが、前の世界で机の引き出しにメモを滑り込ませていた時の手つきと、そっくり同じであることに気づいた。


 (……また、一人で書き始める癖か)


 セルフツッコミは、口の中で呑み込んだ。呑み込んでから、炉の火加減を見ているヨハンの後ろ姿に、声をかけた。


「ヨハン。明日は——少しだけ、別のことを試したい」


「別のこと、ですか」


 ヨハンは、ふいごの柄から手を離して、振り返った。手の甲の火傷の痕が、三つ、並んだままこちらを向いた。


「字を、教える仕組みを、作る」


 ヨハンは、口を開きかけて、閉じた。閉じた口の奥で、何かの音を飲み込んだ。飲み込んでから、遠慮の混じった声で、一言だけ返した。


「それ、俺も、その中に、入るんですか」


「……」


「兄貴より手が遅いってのは、もう言わないけど——字も、兄貴より先に覚えたら、また怒られるかな」


 ヨハンの声は、少しだけ笑っていた。笑っていたけれど、目は真面目だった。


 僕は、答える前に、ヨハンの手元を一度見た。ふいごの柄に、彼の手の形が、もう凹みのように馴染んでいる。手は、遅くない。ただ、兄の速さを、基準にしているだけだ。


「入っていい」


「……いいんだ」


「いい」


 ヨハンは、それだけ聞くと、ふいごの柄をもう一度握り直した。握り直した指の先が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。



 その夜、粥を食べ終えたあと、僕はローザに、小さな木の板を差し出した。


 板の表面には、炭で、十五個の字が書いてあった。


「これ、順番に教える」


「……順番に、って」


 ローザは、木の板を膝の上で受け取った。受け取りながら、指先だけを伸ばして、上から一文字ずつ、触るように追いかけた。追いかけ終えた指が、一度止まった。


「麦。水。父。母。名。火。塩。土。——全部、生きてる字ね」


「……うん」


「これだけ、なんだ」


「これだけ、最初は」


「司祭さまの字、もっとたくさんあるでしょ」


「ある」


「それは、教えない」


「今は、教えない」


 ローザは、もう一度、十五個の字を、上から順に、指で追いかけた。追いかけ終わってから、顔を上げた。


「順番は、これでいいの」


「……よくは、わからない」


「よくは、わからない、って」


「いや——たぶん、最初に覚える字は、一日に三回口に出す字がいいと思うんだ。口に出してる字なら、形と音がすぐ結びつく」


「三回」


「三回以上、口に出す字」


 ローザは、少しの間、黙った。


 黙ってから、木の板を、炉の前の土間に置いた。置いてから、指先で、土間の土の上に、「麦」と書いた。書き終えた指が、そのまま「水」と書いた。書き終えた指は、「父」まで進んで、そこで止まった。


「父は、うちでは、三回口に出さない」


「……場所による、と思う」


「この家は、出さない」


「うん」


 ローザの指が、「父」の字を土の上で一度消した。消した場所に、代わりに「火」と書き直した。


「こっちのほうが、うちは多い」


「……うん」


 ローザの指は、そこで止まらなかった。「石」。それから「鉛」。そのまま「木」、「炉」、「煙」。——五つ、続けて、一息に土の上に書いた。書きながら、僕の顔を見ていなかった。自分の指が、土のどこに字を置くかだけを見ていた。書き終わらないうちに、口から声が、勝手に転がり出てきた。


「あんたの順番は、頭の中で並んでる順番でしょ。あたしが教える順番は、土間にしゃがんだ子の目の前にあるもの順。麦と火と水と塩は、見える。石と炉と煙も、見える。母と父は、家によって、見えたり見えなかったりする。名と土は、見えないけど、毎日呼ばれる。だから、見えるものが先。毎日呼ばれるものが、その次」


 ローザは、それだけ言ってから、ようやく一度、顔を上げた。自分がどれだけ長く喋ったか、気づいていない目をしていた。


 僕は、ローザの目を見て、それから、土間の字を目で数えた。十一。いや、十二。


 ——僕の「型」は、前の世界の教科書が作った「型」だった。音と形の対応を、機械的に、網羅的に積み上げる型。——それは、もう読める大人が、読めない子を「後から読む側」に引き上げるための型だ。この村の、まだ「何を読むのか」が土間にしかない子の前では、使えない。


「……ローザ」


「ん」


「順番、任せる」


「うん」


「僕は、別のものを作る」


「別のもの、って」


「……その字が書ける子に、次に何を聞けば、子自身が次の字に気づけるか。——たぶん、声のかけ方の順番、かな」


 ローザは、顔を上げたまま、少しだけ眉を寄せた。寄せてから、一拍置いて、言った。


「それ、あんた、苦手だと思う」


「……うん」


「でも、必要なんでしょ」


「必要だと思う」


「じゃあ、作って」


 ローザは、それだけ言うと、土間の字に視線を戻した。戻した指が、「石」の字の隣に、もう一つ、「数」と書き足した。


 ——数。


 僕は、その一文字を、目で追いかけた。追いかけながら、懐の内側の切れ端の感触を、一度だけ、指で確かめた。



 三日後の朝、土間の隅に、子どもが三人、並んで座った。


 年の上が、十。下が、六つ。三人とも、まだ賦役には出されていない年で、朝の粥のあと、母親に家の仕事を言いつけられるまでの、ほんの一刻半ほどが、土間で自由になる時間だった。自由になる、と言っても、子の側は、自由をそう呼ばない。母親にそう呼ばれることを知らないだけだ。


 三人は、アンナの家と、その隣の家の子だった。


 戸口の外で、雀が一度だけ、短く鳴いた。鳴いた音が、土間の天井の梁の下まで届いて、すぐに消えた。


 アンナは、三人が座ったあとに、自分の娘を抱えて戸口から入ってきた。娘はまだ四つくらいで、アンナのエプロンの裾を掴んだまま、土間の隅で、ローザの指先を見ていた。


「糸の束、先に渡しておくよ」


 アンナは、手に持っていた糸の束を、梁にかかっている杭に引っ掛けた。引っ掛けてから、座らずに、ローザの斜め後ろに立ったままでいた。


「座って」


 ローザが、自分の膝の横の地面を、ぽん、と一度だけ叩いた。叩いた場所に、アンナはゆっくり座った。座ってから、自分の娘を、膝の上に乗せた。


 ローザは、炭を一本、手に取った。


 四人の子の前の土の上に、「麦」と書いた。


「この字。読める人」


 誰も、手を上げなかった。


 一番年の上の、十の男の子が、一瞬だけ口を開いて、また閉じた。


「読めないね」


 ローザはそれだけ言うと、もう一度、「麦」と書いた。書いた字の横に、小さく、麦の穂の先の形を描いた。描いた穂の先は、三本。


「これ、麦。字が、麦の形をしてる」


 ——違う。


 僕は、土間の隅で、口の中だけで言い直した。麦の字は、麦の形をしていない。麦の字が今の形に落ち着くまでの歴史を、ローザは知らないし、知る必要もない。ただ、ローザの説明は、字源としては間違っているけれど、——最初に字を見る子の目には、たぶん、正しい。


 六つの子が、最初に、真似をした。


 炭を一本渡されて、土間の土に、自分の指の震える線で、「麦」と書いた。書けたのは、横線二本と縦線一本まで。三画目で、手が止まった。


「そこ、違う」


 ローザの指が、子の手首に、ぽんと軽く触れた。


「戻すのは、手首じゃなくて、指の先だけ」


 ——ああ。


 僕は、背中の皮膚が、一度、音もなく覚えた。ローザの「戻すのは、手首じゃなくて、指の先だけ」は、冬の初めにアンナに糸の撚りを教えた時の声と、同じ声だった。教える声を、ローザは、一度しか持っていない。それを、糸にも字にも、同じだけ使おうとしている。


 六つの子の指の先が、ふにゃりと、途中で角度を変えた。


 ローザが、もう一度、同じことを言おうとして、口を開きかけた。


 開きかけたローザの口を、アンナが、一拍だけ、目で見ていた。見てから、娘の背中を手の平で押さえたまま、上体が、ほんの少しだけ、前に出た。


「……こっちから、言うよ」


 言ったのは、アンナだった。


 アンナは、自分の膝の上の娘の手首を、ふわりと指で包んで、娘に、炭を握らせた。握らせてから、娘の耳元に、小さく声をかけた。


「ほら、この線はね、右から左。あんたが、朝、母さんの背中を布で拭う時の手の動き」


「反対」


 娘が、細い声で言い直した。


「ああ、そうだ。ごめんよ、左から右だった」


 アンナは、恥じらうように笑った。笑ってから、娘の指の動きに合わせて、土の上に、ゆっくり、「麦」の一画目を引いた。娘の指は、最初に比べて、ほんの少しだけ、迷わなかった。


 僕は、ローザの横顔を、一度、見た。


 ローザは、アンナの娘の指先を見ていた。見ていて、ほんの半瞬だけ、眉の間に、ちいさな皺を寄せた。——教えることの、自分ではないやり方を、ローザは、たぶん、初めて目の前で見ていた。


 ローザが、ちいさく舌打ちをした。


 その舌打ちは、冬にアンナに糸を教えた時の舌打ちと、同じ形をしていた。自分自身に向けた舌打ちだ。


「……アンナ」


「ん」


 ローザは、アンナの娘の指先を、まだ見ていた。アンナの顔は見ていなかった。


「今日から、あんたも、教える側」


「え、あたし、字、まだ四つしか読めない」


「四つで、いい」


「いいの」


 ローザの目が、土間の上の「麦」の字の、途中で折れた三画目に、もう一度、落ちた。


「四つ覚えたら、四つ教えられる」


 アンナは、自分の娘の背中を、一度、軽く撫でた。撫でてから、ローザの方に、小さく頷いた。



 そこから、半月ほどが過ぎた。


 雪解けの水が、戸口の下を流れなくなって、代わりに、軒先の土に、若い草の芽が、点々と、先端だけ出していた。炉の火は、夜だけに戻った。朝は、粥の湯気が天井の梁まで届かないほど、空気が薄く温まっていた。


 土間の子は、四人から、七人に増えていた。


 増えた分の三人のうち、二人はアンナが連れてきた隣の家の子で、一人は、ローザが井戸端で、自分から「来る」と言った女の子だ。七人のうち五人が、もう、自分の名前と、「麦」と「水」と「火」と「塩」の四つを、土の上に書けるようになっていた。字の形は、まだ歪んでいた。歪んでいたけれど、書いた本人には、読めた。


 読めるというのは、書いた本人が、一度口に出した音と、書いた線の形を、同じものだと言い張れる状態から、始まる。


 形の美しさは、後からでいい。


 その半月の、ちょうど真ん中あたりの夕方だった。


 僕は、ローザから預かった糸の束を、アンナの家に返しに行った。土間の入り口から入ると、機織り機の前に、アンナの旦那が、背を丸めて座っていた。筬が動くたびに、乾いた木の音が、一定の間隔で土間を満たしていた。糸の張りを確かめる手の動きは、止まっていなかった。止まっていなかったけれど、目は、機織り機の筬の向こうではなくて、——土間の隅の、自分の娘の指の先を、追いかけていた。


 娘は、土間の土の上に、「麦」と書いていた。


 書き終えた娘が、もう一つ、字を書き足した。「父」。


 書いた「父」の字は、線が二つ足りない、半分の字だった。それでも、娘は、書き終えた指先を、自分の父の方へ、小さく持ち上げて見せた。


 アンナの旦那は、筬を動かしている右手を、止めなかった。


 ただ、左手だけを、ほんの一瞬、自分の膝の上に下ろした。下ろした左手の親指が、膝の布の上で、何かを書くような動きをして、すぐに止まった。止まってから、彼は、機織り機の筬の向こうに、もう一度、目を戻した。


 戻した目の縁に、ほんの少しだけ、赤みが差していた。


 ——灯りの色じゃない。


 僕は、それを見た。見たことを、口には出さなかった。口に出せば、アンナの旦那が、次の日に娘の前で、もう土間の「父」の字を見られなくなるかもしれない、と思った。


 糸の束を、梁の杭に引っ掛けた。引っ掛けた手が、杭の下で一拍、中に浮いたまま、動かなかった。その後、静かに、土間を出た。


 出てから、家の外の道で、懐の内側の切れ端を、指で一度だけ触った。


 ——書ける子の後ろから、字を知らない親が、指の先を盗み見ている。


 その一行を、切れ端の裏面に、炭の芯で、小さく書いた。書いてから、もう一度、懐の内側にしまった。誰かに見られる前に、しまった。


 道を半分ほど歩いてから、指の腹が、まだ切れ端の紙の繊維の粗さを覚えていることに気づいた。春の夕方の風は、アンナの家の土間より、ほんの少しだけ冷たかった。



 その夜、家に戻ると、イェニーが、炉の前で、糸を撚っていた。


 粥はもう鍋から下ろされていて、僕の分の椀が、土間の縁に置いてあった。イェニーは、糸を撚る手を止めずに、こちらを見ずに、話しかけてきた。


「ムーア、今日、アンナの家に行ったかい」


「……うん」


「アンナが、昼に糸を返しにきた時、言ってたよ。あの家の子が、字を書けるようになった、って」


「うん」


「あんたが、教えたの」


「ローザが、教えた。アンナも、教えた」


「アンナも」


 イェニーは、糸を撚る手を、一度だけ、止めた。止めてから、もう一度、撚り始めた。撚り始めた糸の太さが、ほんの少しだけ、不均一だった。


「ムーア」


「うん」


「前に、あたし、一度、言ったろう」


「うん」


「字を読める農奴がひとりいると知られたら、叱られて終わる話じゃない、って」


「……うん」


「あれは、ひとりの時の話だった。——ひとりなら、叱って終わるかもしれない。でも、村の子が七人、家の土間で字を書き始めたら、それはもう、ひとりの話じゃない」


 イェニーは、そこで、糸を撚る手を止めた。止めてから、初めて、こちらを見た。


「誰に、止められると思う」


「……司祭さま、かな」


「司祭さまは、止めないよ」


「え」


「司祭さまは、字が読める人を、叱らない。叱る代わりに、——どこかの、別の誰かが、叱いに来るんだよ。あたし、一度、見たことある」


 イェニーの声は、低かった。


 低かったけれど、怖がっている声ではなかった。怖がっている声ではなくて、——すでに、どこかで、それを一度、目の前で見たことのある声だった。


 僕は、口の中で、返事を一度、飲み込んだ。飲み込んでから、椀を両手で包んだ。椀の縁が、少しだけ冷めていた。


 ——叱らせる者を、決める。叱る者は別にいる。


 頭の中でそれを翻訳しながら、僕は、イェニーがその仕組みを、いつ、どこで、誰に対して、目の前で見たのかを、一度だけ想像して、やめた。想像を続ければ、イェニーの口が、またそれを語らなきゃいけなくなる。


「……母さん」


「うん」


「誰かに叱らせる前に、気づいて止めるのが、僕の仕事だと、思う」


「あんたが、止められるのかい」


「止められるかどうかは、わからない」


「わからないのに、やってるのかい」


「……わからないから、やってる」


 イェニーは、少しの間、僕の顔を見た。見てから、糸を撚る指を、もう一度、動かし始めた。動かし始めた指の先は、さっきより、均一だった。


「——粥、冷めるよ」


 話題が、ずれた。


 ずらし方は、前の夜より、少しだけ、早かった。


 僕は、それに気づいた。気づいたけれど、顔には出さないまま、椀に口をつけた。



 それから、さらに半月が過ぎた。


 軒先の若草は、ほんの少しだけ背を伸ばして、先端の色が、黄緑から、濃い緑に変わった。朝の土間の土は、前の半月よりも、ほんの少しだけ湿り気を持ち始めていた。戸口から入ってくる風に、草の細い匂いが混じるようになって、炉の前以外は、もう、粥の湯気で温める必要がなかった。春が、春の真ん中に、届こうとしていた。


 土間の子は、九人になっていた。


 九人のうち、六人が、基本の十字を土の上に書けるようになっていた。書けるようになった子のうち、二人が、自分の親に、土の上で字を教え始めていた。教え始めた二人のうち、一人は教えるのがへたで、親の方が先に「違うよ」と言い返してきた——と、アンナから聞いた。


「違うよ」と言い返した親は、字が読めないまま、土の上の線の形だけを、子より先に正しく覚えていた。


 教えられているうちに、覚えてしまった。


 覚えてしまったことを、教えている子は、まだ知らない。


 その話を聞いた日の午後、印刷小屋で、僕はヨハンに、木版の残りで「麦」の字を刷らせていた。小屋の中には、インクの鉄の匂いが、梁の低いところまで、薄く広がっていた。ヨハンは、字を正しく刷ることよりも、自分の手が、兄に言われた回数だけ、ちゃんと動くかどうかを確かめるように刷っていた。刷り終えた一枚目を、ヨハンは、炉の前の土間に置いた。


「ムーアさん」


「うん」


「俺、この字——読めるように、なりました」


「……うん」


「麦、です」


「うん」


「兄貴、俺より先に、字、読めるかな」


「ヴィルヘルムさんか」


「うん」


「……ヴィルヘルムさんの手には、字より先に、届くものが、たぶん、あるよ」


 ヨハンは、少しだけ笑った。笑ってから、刷った麦の字を、指で、ゆっくり撫でた。撫でた指の先に、インクがわずかに移った。


「……そうですね」


 ヨハンは、撫でる指を、そこで一度、止めた。


 ——ヴィルヘルムさんの手は、鉄の端材を薄く延ばす手だ。


 僕は、そう思った。思ってから、もう一度、思い直した。ヴィルヘルムさんの手は、鉄の端材を薄く延ばす手であって、同時に、弟が、炉の火加減を自分より先に覚えていくのを、横目で見ている手でもある。その手に、字が届くのは、たぶん、ヨハンが先に覚えた後だ。


 弟が、兄より先に、字を覚える。


 娘が、父より先に、字を覚える。


 ヨハンが、刷り終えた紙を、炉の前の板の上に、また一枚、並べた。並べた紙の「麦」の字の三画目が、僕の指で書いた時よりも、ほんの少しだけ、まっすぐだった。


 子が、親より先に、字を覚える。


 ——教える順番が、ひっくり返っている。


 僕は、懐の内側の切れ端を、もう一度、指で確かめた。切れ端の中の、炭の芯で書いた短い単語は、もう、八つになっていた。「教える」「順番」「書ける子」「書けない親」「司祭」「止める者」「違うよ」「ひっくり返る」。


 順番も、選び方も、前の世界の教科書とは、違う順番だった。


 ——この村の、教科書だ。


 僕は、心の中で、一度だけ、そう言った。言ってから、口には出さなかった。口に出すには、切れ端の中の八つの単語は、まだ少し、短かった。


 僕は、組版の端を、指で、一度だけ、触った。触った鉛の縁が、朝の小屋の空気を吸って、指の先を、ほんの少しだけ冷やしていた。


 印刷小屋の戸口の外で、春の光が、若葉の色をしていた。


 光の中で、セイの帳簿の三十一枚目が、小屋の隅の板の上で、インクを乾かしていた。三十一枚目の紙は、三十枚目までと、同じ字で、同じ並びで、同じ余白を持っていた。余白を、誰も、埋めてはいなかった。


 ——いま、刷ったものを読める手が、少しだけ、増えた。


 僕は、その一行を、口の中でだけ、繰り返した。繰り返してから、印刷小屋の戸を、静かに押した。


 押した戸の向こうで、ローザが、アンナと、七人目の子の手首の角度を、もう一度、直しているところだった。ローザの声と、アンナの声が、重なっていた。重なった声の中で、七人目の子の指の先が、土の上で、「麦」の字の三画目を、ゆっくり、一度だけ、まっすぐに引いた。

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