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13/19

あたしの糸は一人分しかないと、ローザが自分で言い切った日

 市の翌日から、樹皮が足りなかった。


 市はその後も月の初めの三日に続いた。前の回から、ヴィルヘルム以外にもう一人、遠くの村から陶器の入った籠を抱えた男が顔を出し始めていた。ヴィルヘルムもその男も、互いの荷を確かめるような目で見ていたが、言葉はまだなかった。


 ローザが使う板がだ。一日の市で、二枚、書き潰した。品物の出し入れを書いて、誰にどれが渡ったか線で結んで、裏面に次の市の日付を書いて、それで二枚。文字は棒の先で削るのだから、一度書いたら消えない。書き間違えたら、板ごと捨てる。


「樹皮、そろそろ足りなくなる」


 ローザが家の土間でそう言ったのは、市から四日後の昼だった。木匙で粥をかき回しながら言った。粥の匂いに、今日は少しだけ油の匂いが混ざっている。イェニーが昨日、婆さんの家から豚脂の切れ端を分けてもらってきて、鍋底に薄く塗ったのだ。鍋肌の焦げの匂いがいつもより香ばしい。


「今日の僕の仕事は、樹皮を探すこと——いや、樹皮の替えになるものを探すことだろうな」


 僕は土間の隅に置いた棒切れを引き寄せた。棒の樹皮を剥いで板にするのが、ここ数日の合間仕事になっていた。ただ、剥げるだけの棒はもう家の周りにはない。


「そんな板、何枚あっても足りないでしょ」


 ローザが木匙を置いた。


「書いたら消えないし、書き直しがきかない。重い」


 ローザは膝の前の樹皮の板を、指の腹で一度なぞった。木目の凸凹が、爪の下で引っかかって止まる。


「腕も疲れる——いや、問題はそこじゃないな」


 僕は土間の壁に立てかけた樹皮の棒を、指の腹で一度弾いた。


「それに、細かいこと書けない。棒の先じゃ、線しか引けない」


 ローザは樹皮の板のひとつを土間に置いて、棒で「たまご」と書いてみせた。「た」の字の横棒が、木目の凹凸で歪んで曲がる。何度も同じ線をなぞって、やっと「た」が読めるようになる。書いているというより、削っている。


「違う。あたしは今日、別のことが分かった」


 ローザが顔を上げた。


「一人で糸を全部紡ぐのは、無理」


 僕は粥を飲み込んだ。


 今の言葉は、ローザにとってはたぶん、大きな言葉だ。ローザは、自分が器用にできることを他人に任せたがらないように見える。指先の感覚が自分にしかない、とでも思っているんだろう。任せた瞬間に品が落ちるのが嫌なんだ、たぶん。


「市で、糸の女は糸の女のままだった」


 ローザが言った。


「あたしの糸は、一人分しかない」


 僕は土間の隅の糸巻きの方を、見るともなく見た。糸巻きの端が、日の差し込む角度で少しだけ光っていた。見てから、名前をつけたい衝動を、喉の奥で一度潰した。


「……足りない、と思う」


「あたしがやったほうが早い。早いんだけど、一人じゃ追いつかない。糸の女が増えなきゃ、糸は増えない」


 ローザは自分のその言葉を、自分で聞いたあと、少しの間黙った。


 僕は粥の最後のひと口を飲み込んだ。舌の奥に、豚脂の薄い甘みが残った。腹の底が、ほんの一瞬だけ温まった。


 ——これが、協業の入口だ。


 ローザが僕を見ていた。


「また変な顔してる」


「してない」


「してる」


 ローザは僕の顔から視線を外して、土間の隅の糸巻きを見た。指の腹で、膝の上の木匙の柄を一度だけ押した。


「明日、婆さんとこの嫁に教える」


 そう言って、ローザは木匙を鍋に戻した。



 翌朝、隣家の婆さんの嫁が、糸の束を抱えて家に来た。


 二十半ばの女だ。名前はまだ、僕は覚えきれていない。ローザは「ねえさん」と呼んだ。イェニーが「アンナ」と小さく言って訂正した。僕は頭の中で、アンナ、と書いた。


 アンナは土間に膝をついて、ローザの前に座った。膝の上に、細い藁のくずと、よじれの悪い糸の塊を置いた。自分のエプロンの端で、一度、手の平を拭った。拭う必要があるほど汚れてはいない。座り直すための動作だった。


「うちの旦那が、もう一歩ぶん細くしろって、昨日から何度も言うんだ」


 アンナがそう言った。声が少しだけ萎びていた。


「糸のことなんて、あの人、何も知らないのに。機織りの細かさだけ見て、こっちに言ってくる」


「細くすると、切れる」


「切れるよ。何度も切れる。だから、あんたに聞けって言われた」


 アンナは膝の上の糸の塊を、指先で一度ならした。


「婆さんが、ローザに聞きなって。あの子は違うからって」


 ローザは糸の塊を自分の膝に乗せて、指の腹で一回だけ撫でた。アンナの顔は見ていない。糸の塊の、撚りの入り方だけを見ている。


「向きが逆」


「逆?」


「紡ぐのは右に回すだけじゃなくて、最後だけ逆に戻す」


 ローザは自分の指で、くるり、と空中に回す動作をして見せた。


 アンナは真似をした。真似をしようとして、途中で手首が逆に動いた。ローザの手首はまっすぐなのに、アンナの手首は途中で一度、ふにゃりと角度を変える。


「そこ、違う」


 ローザはアンナの手首を、自分の指先でぽんと触った。


「戻すのは、手首じゃなくて、指の先だけ」


 僕は土間の奥で、棒の樹皮を剥ぎながら見ていた。


 見ていて、分かった。ローザの教え方は、ローザのやり方じゃない。ローザ自身は、糸を紡ぐときの手の動きを意識したことがないはずだ。


 アンナの手首が、また途中でふにゃりと折れた。


 指の先が勝手にやっていて、それを「どうやってるか」と聞かれて、初めて言葉にしている。言葉にした瞬間に、自分の技が自分の外側に一度取り出されて、別の人間の手首に移動しようとする。


 上手く移動しない。アンナの手元で、糸がまた切れた。


「また切れた」


「もう一回」


 もう一回、切れた。


「真似してるつもりなんだけどねえ。あたしの手首、昔からこうなんだ。婆さんにも、もう何年も……何年も、同じとこ直されてて」


 アンナは自分の手首を、もう片方の手で軽く押さえた。押さえた手の甲に、紡ぎの細かい傷がいくつもあった。


 ローザが舌打ちをした。その舌打ちは、アンナに向けたものじゃないように聞こえた。自分自身に向けたもの——たぶん、教えることの難しさに、自分で苛立っていた。


 僕は剥ぎかけの樹皮を、膝の上に置いた。


「あたしがやったほうが早い」


 ローザが言った。


 言ってから、首を一度横に振った。


「早いけど、一人分しかできない」


 アンナはうつむいていた。糸の塊を膝から少し外して、自分の手の平を見ていた。


「ゆっくりでいい」


 ローザが、自分の口から出た「早い」を打ち消すように言った。


「十日かけて、一人分のあたしの糸に近づいてくれればいい」


「十日……うちの旦那、十日も待てるかしらね。待てない、たぶん。でも、持って帰って見せてみる」


 アンナは少しだけ顔を上げた。口の端が、笑ったのか諦めたのか分からない形に動いた。


「待たせなよ」


 ローザがそう返した。アンナがまばたきを一つした。うつむいたままの萎びた声じゃなくなっていた。ローザが膝を組み直して、アンナの糸の塊に、もう一度、自分の手を添えた。



 アンナが帰ったあと、土間の隅に、書き潰した樹皮の板の山が残っていた。


 ローザが朝から使い潰した三枚を含めて、山はもう、七枚あった。残りの書ける板は、壁際に四枚。次の市までに、品物の出し入れと、誰にどれが渡ったかの線と、次の市の日付を、あと四枚の上に全部書かなければならない。書き間違えたら、一枚捨てる。捨てた枚数だけ、森に樹皮を探しに出る。


 ローザは自分の膝の上で、指を、昨日と同じ角度でゆっくり動かしていた。アンナの手首に添えていた手の動きを、自分の膝の上で、無意識に繰り返していた。


 繰り返しながら、ローザが、誰に言うともなく言った。


「板、足りなくなる」


 僕も、同じことを思っていた。思っていたが、その先は、まだ何も浮かんでいなかった。

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