樹皮を叩いていたら、紙ができて記録の方が先に増え始めた
それから、何日か過ぎた。
僕は森の縁で、表皮がまだ剥げる若い棒を探しては、家の裏の壁に立てかけていた。乾いた棒は、樹皮を剥いで板にした。板は、ローザの手元に届くたびに、三日で書き潰された。書き潰された板の山は、土間の隅で、七枚から十一枚に増えていた。
ローザは山を見て、一度だけ、首を横に振った。それから、糸巻きの前に座り直した。アンナは三日に一度、糸の束を抱えて家に来ていた。十日かけて、と言ったローザの言葉どおりに、十日経っても、アンナの糸は、まだローザの糸の太さには届いていなかった。届いていないのに、ローザは板を書き潰し続け、板の山だけが、壁際に増えていった。
その日の昼、僕は土間の壁に立てかけた樹皮の棒を、もう一度、手に取った。
剥いだばかりの樹皮の裏側を、指の腹で撫でた。繊維が縦に走っているのが、指先でざらりと分かる。繊維の束だ。叩けば、繊維だけになる。繊維が薄く広がれば——
——紙になる。
前世の記憶の、ひどく実務的な一項目が、ぱっと頭の中で立ち上がった。和紙の原理。叩いて繊維を解き、水に浸し、網で漉く。繊維の末端同士が水の中で絡み、乾けば結びつく。
僕の家には網はない。水はある。樹皮はこれから増やせる。
叩くための木槌は——土間の隅に、イェニーが麦の皮を砕くのに使っている木の棒がある。
「イェニー」
僕は声をかけた。
土間の奥で洗い物をしていたイェニーが、顔を上げた。
「その麦棒、少しだけ借りていいかな」
イェニーは濡れた指を一度、エプロンの腰のところで拭いた。
「いいよ。どうするんだい」
「樹皮を叩くんだ。ローザが書けるものにしたいんだ」
「細かい字ねえ。あたしは、大きいのも読めないけどねえ」
イェニーは「細かい字」という言葉を、少し持てあました。イェニーにとっては、字はそもそも「書けない」側のもので、細かいも何もない。持てあましたまま、イェニーはまた鉢の縁に手を戻した。
「怪我しないなら何でもやってみなさい」
イェニーはそう言って、麦棒を渡した。棒の先に、麦の皮の粉が白くこびりついている。渡す前に、イェニーは粉を手の平で一度払ったが、払いきれないのでそのまま寄越した。
家の裏の木陰に、薄い平たい石を置いた。石の上に、樹皮の内側を剥いだ繊維の束を乗せた。
麦棒を両手で握って、繊維の束の上に振り下ろした。
ぱん。
乾いた音がした。繊維がばらけた。少しだけ。
もう一度。ぱん。
繊維がもう少しほぐれた。繊維の切れ端が指先に飛んで、かすかに刺さった。痛いほどじゃないが、皮膚の上で小さくちくちくする。(研究室のコピー用紙とは、ずいぶん違う手触りだ)
もう一度。もう一度。もう一度。
腕の付け根がじんじんしてくる頃、繊維の束は、束というより、湿った綿のかたまりに変わっていた。
ローザが家から出てきて、僕のしゃがんでいるところを覗き込んだ。
「何それ、ぼろぼろじゃない」
「叩いたら薄くなるものを試してるんだ。これでいい」
僕は繊維の湿った塊を、石の上に薄く広げた。広げると、繊維の方向が無茶苦茶になって、重なっている場所と隙間だらけの場所に分かれる。薄いシートにはならない。網がないからだ。
水がいる。水に浸して、繊維を均す。
僕は井戸から水を一杯汲んできた。木の椀に水を張り、繊維の塊を水に入れて、指でかき混ぜた。繊維が水の中で解けて、ふわりと広がる。指の間を、細い繊維がくぐっていく。冷たい。井戸水の冷たさが、手首まで上がってくる。繊維が水に沈むたびに、木の青っぽい匂いが立った。
繊維が水の中で均一に散った瞬間を見計らって、椀の中の水を薄い石の上に、慎重に流した。
繊維が石の上に残った。残ったが、ばらばらだった。乾けば、ただの繊維の散らばった跡だ。
失敗だ。
僕がそう思ったとき、ローザがしゃがみ込んで、石の上の繊維の散らばりに手を伸ばした。
「寄せていいの」
「寄せていいよ」
ローザは、手の平を繊維の上に置いて、ゆっくり撫でた。繊維を押し潰すわけじゃない。手の平の熱で、繊維を寄せるような動作だった。
繊維が、寄った。
寄った、というより、寄せられた。ローザの手の平の下で、ばらばらだった繊維の端と端が、奇妙な素直さで隣同士にくっついた。ローザが手を離しても、繊維は離れなかった。
僕は、一瞬だけ息を止めた。
普通、繊維はこんな風にくっつかない。水が乾いてから、繊維の末端が絡んで、やっと薄い膜になる。今は、まだ湿っている。湿っているのに、繊維が離れない。
「どうやったの。——いや、何を、したのか」
僕が聞いた。
「どうって。——撫でただけ。本当に、撫でただけ。あたし、何もしてない。……何、したんだろ」
ローザは自分の手の平を見た。見て、指を一度、ゆっくり開いた。
「撫でただけで、くっつく?」
「あたしに聞かれても」
ローザは自分の手の平を、一度ぎゅっと握って、開いた。開いた手の平に、繊維の切れ端が三本ほど、乾いたまま貼りついていた。ローザは切れ端を指で摘まんで、振り落とした。落ちなかった。指の腹にくっついたままだった。
「……何これ」
ローザが初めて、自分の手の平に戸惑った顔をした。
僕は口の中で、ある言葉を押し潰した。
押し潰した先で、言葉が別の言葉にすり替わった。
「イェニーにも、少し触ってもらっていいかな」
「お母さん?」
「うん。手の平で、同じように撫でてほしいんだ」
イェニーは、家の前に持ち出した石の上で、同じ動作をしてみせた。
最初、イェニーはよく分からない顔で、濡れた繊維の塊を手の平で撫でた。ローザほどの確信はない。手の平の当て方が、途中で浮いたり、強くなったりする。
それでも、繊維は寄った。
寄る度合いはローザより弱い。だが、確かに、撫でた跡に沿って繊維が隣同士くっついていく。
「……こうやると、繊維がくっつくのよねえ」
イェニーが、感心したような、少し困ったような声で言った。
「くっつくんだねえ」
イェニーの「ねえ」が、曖昧に伸びた。
その「ねえ」は、イェニーが普段、核心に触れたくないときに使う「ねえ」とは、少しだけ違っていた。どこに向ければいいのか、僕にも分からなかった。
「お母さん、あんた今、何をした」
ローザが、静かに聞いた。
「撫でただけだよ」
「撫でただけじゃ、こうならない」
「ならないかねえ」
ローザとイェニーが、二人で同じ繊維の塊を見ていた。
僕は、二歩下がって、二人を見ていた。
手が震えそうになるのを、腹の奥で止めた。老人の石割りの、あの妙な角度の割れ口が、目の奥で一度だけちらついた。あれと、今の繊維の圧着は、別々の現象じゃない。
僕は草履の爪先で、地面の砂を一度、ぐい、と押した。
——けれども、今ここで名付けない。名付けるのは、観察が積み上がってからだ。
僕は棚を閉じた。
閉じて、目の前の石の上の、繊維のほんの少しの薄片を見た。
「これ、乾かしたら、書けると思う」
僕はローザとイェニーに言った。
「書けるの、これで?」
ローザが言った。
「薄い。軽い。棒じゃなくて、炭の先で字が書けるんだ。細かい字が」
「細かい字ねえ」
イェニーがまた同じ言葉を繰り返した。繰り返したが、さっきより少しだけ、言葉の奥に興味が乗っていた。
「炭で書けば、拭けば消えるかもしれない」
「消える?」
ローザが顔を上げた。
「書き直せるんだ」
ローザは、自分の手の平を一度だけ見た。
「書き直せるなら、書けば」
ローザが言った。言ったあと、自分の口から出た言葉を、一度自分で確かめるように反芻した。
「書き直せるなら、書けば、間違えても、捨てなくていい。捨てた板の分だけ、樹皮を探さなくていい。市で誰がどれを持ってきたか、線を引き直して、置き場所も書き直して——」
ローザの目は、もう僕の顔を見ていなかった。半乾きの薄片の縁を、指の腹でなぞっていた。なぞる動きが、糸を紡ぐときの戻しと同じ角度をしていた。
「——書き直せる側にいるのは、書き直せない側にいるのと、別のことだから」
ローザの声が、途中で止まった。止まったまま、続きが出てこなかった。
僕は、その続きを口に出さなかった。
出さなかったが、頭の中では最後まで言っていた。書き直せるなら、書けば、帳面が作れる。
僕はローザの手の中の、まだ湿った薄片を見た。
グリュンの帳面が、村の唯一の帳面じゃなくなる。
背筋の奥が、ひやりとした。
冷たいのは、井戸水の冷たさが手首に残っていたせいだ。たぶん。
日が傾き始めた頃、石の上の繊維の薄片は、半分だけ乾いていた。
日が傾いて、石の上の半分に影が落ちてきていた。影のかかった側はまだ湿って柔らかい。乾いた半分の方を、僕はそっと剥がしてみた。繊維は、繊維のまま崩れなかった。手のひらに乗せると、麻布の端切れより少しだけ薄く、樹皮より格段に軽い。指先で曲げると、ほんのわずかに折れ跡がつく。折れ跡の上を、もう一度指でこすると、折れ跡は繊維の毛羽で隠れて、ほとんど見えなくなる。
ローザが、乾いた薄片の端を指先でつまんで、持ち上げた。
「薄い」
僕は答えなかった。答える代わりに、もう一枚の半乾きの方を、自分の指の腹で撫でてみた。乾いた半分は、指紋の溝に引っかからずに滑った。樹皮ともぼろ布とも違う手触りだった。前世の指の記憶のどこかに、似たものがあった気がしたが、たぐり寄せる前に消えた。
「これに、炭で字を書いたら」
「歪まずに乗ると思う」
ローザは薄片を自分の膝の上に置いて、家の土間から、市で使っていた樹皮の板を持ち出してきた。板の端に、いつか焼いた小枝の炭の切れ端がくっついていた。板からそっと剥がして、指先で持ち直した。
薄片の上に、炭の先を当てた。
しゅっ、と細い線が引かれた。棒で削った線とは、全く違う線だった。樹皮の上の削り線は、木目に負けて歪む。薄片の上の炭の線は、素直に指の動きについてきた。
ローザは、線の上にもう一本線を引いた。二本の線は、ほとんど同じ角度で並んだ。
ローザは、線を見たまま、ずいぶん長い間、黙っていた。
やがて、小さく言った。
「これ、書ける」
僕は何も言わなかった。言わずに、ローザの引いた二本の線を、上から覗き込んだ。線の太さがほとんど揃っていた。樹皮の板の上では、こうはならなかった。——グリュンの帳面の線と、同じ側にある線だ。
「字が、歪まない。棒で削らなくていい」
ローザは続けて自分で言った。僕の相槌を待たずに、自分の口で一段ずつ確かめていく言い方だった。
ローザは炭を薄片の上に置いて、もう一度、自分の指の腹で薄片の表面をなぞった。
「次の市に、これ持っていく」
ローザは薄片を膝の上に戻して、両手で包むように押さえた。
「出し物の一覧、これで書く」
僕はうなずいたが、声は出さなかった。
声を出さなかったのは、出すと、別のことを言ってしまいそうだったからだ。グリュンの帳面が、村に一つしかない帳面でなくなる——その言葉が、口の中で何度か形を作りかけて、形を作るたびに、まだ早い、と腹の奥で押し戻した。押し戻した分だけ、舌の根が乾いた。
ローザは顔を上げて、僕を見た。
「あんた、これ、前の世界で見た?」
僕は、少しだけ黙った。
黙ってから、答えた。
「叩いて繊維を薄くすれば、何か——たぶん、書けるものが、できる。それだけは、聞いたことがあるんだ」
「どこで」
「忘れた」
——忘れていない。忘れたふりをするしか、今のところ方法がない。
「忘れた、で、やってみたの」
「やってみた」
胸の奥で、何かが一度、小さく沈んだ。
ローザはそれ以上聞かなかった。聞かずに、薄片をもう一度、指先で持ち上げた。
イェニーが家の前に立っていた。手の平を一度、エプロンで拭いていた。拭いたあと、自分の手の平を見た。見てから、空を見上げた。
「今日の夕飯は、麦の粥に菜っぱが入るよ」
イェニーはそう言って、家の中に入っていった。
僕はローザの手の中の薄片を見ながら、立ち上がった。
膝の裏が、長くしゃがんでいたせいで固くなっていた。背を伸ばすと、腕の付け根が、麦棒を振り下ろしていた時の余韻でじんじんする。明日、もっと叩く。もっと繊維を作る。その前に、ローザとイェニーの手の平のことを、頭の棚の、まだ名前のついていない段に、もう一つ分、置いておく。
次の市の日まで、あと二十日とちょっと。薄片を乗せる籠が、あと一つ、要る。
僕は身をかがめて、ローザの膝の上の薄片の縁に、指の先をそっと当てた。乾いた側の縁が、指の腹にかすかに引っかかった。




