卵はいらない、麦が欲しい、その間を歩いた男が市を回した
月の初めの三日。
夜明け前から広場にいた。井戸のそばに筵を広げる。籠を三つ並べる。指の腹に麻の縄目が当たって、少しだけ痺れる。
ハインリヒが来てくれた整地の跡が、足の裏に固く返ってくる。三日かけて石をどかし、土を踏みならした場所だ。鍬の角で削ったところと、足で踏んだだけのところで、感触がはっきり違う。
整地で割れた石が、まだ二つ転がっていた。普通の踏み割れ方じゃない角度だ。後で見る。
まずは、市だ。
今日の僕の目標は、ひとつだけある。十数人を、この井戸のまわりで、何かしら一回でも物を動かすこと。一回でいい。動けば、続きが始まる。
ローザが樹皮の板を抱えてやってきた。板の上に、家ごとの出し物が線で書いてある。糸、麻、籠、卵、塩漬けの根菜、麦の余り。文字はまだ不格好だが、誰の家から何が出るかは、ローザの頭の中で固まっている。
「人、来る?」
ローザが言った。
「来るよ。たぶんね。声はかけて回ったから」
「たぶん、で十分」
ローザは筵の端をぽんと叩いて、板を石の上に置いた。樹皮の表面に、朝の湿りが薄く乗っている。場所のことは、もう困らない。井戸の隣ならいくらでも理由が立つ。
空はまだ薄い灰色だった。麦藁の屋根の向こうから、煙が一筋ずつ立ち上がる。家ごとに朝の煮炊きが始まっている。煙の匂いが、井戸の水の冷たい匂いと混ざって、鼻の奥に残った。
最初に来たのは、隣家の婆さんだった。
籠を二つ抱えて、井戸の縁にどさりと置いた。中に卵が四つ。
「ローザの母さんから聞いたよ。ここに置いとけばいいんだろ」
「うん、ここでいい」
ローザが籠の脇にしゃがんで、樹皮に「たまご 四」と書いた。婆さんは樹皮を覗き込んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、書けるのかい」
「書ける」
「ふうん」
婆さんはそれ以上聞かなかった。井戸の縁に腰を下ろして、誰か来るのを待つ姿勢になった。
それからぽつぽつと、人が増えた。
最初は糸を抱えた女がふたり。「今日はまだ冷えるね」と年かさの方が婆さんに声をかけて、返事を聞く前にもう筵の端に腰を下ろした。遅れて麻束を肩に担いだ男がひとり——担ぎ直しながら小さく咳をして、肩の位置を何度か直した。それから子どもの手を引いた母親と、その子どもの背中に回された編み損ねの屑籠。少しして、麦の余りを布袋に入れた老人が、布袋を井戸の縁に一度下ろしてから、膝の具合を確かめるようにゆっくり腰を下ろした。最後に塩漬けの根菜の桶を抱えた家族——主と、後ろからついてきた妻と、ふたりの間の小さい娘。
十二、三人ほどが井戸のまわりに集まった。
「うちのは今年まだ芽も出ないよ」「そっちは井戸が近いからねえ」——交換の前に、暮らしの話が井戸端にぬるく溜まっていく。誰も品物のことを切り出さない。婆さんが籠の縁を指で一度叩いた。
最初の一言を口にしたのは、糸を抱えた女のひとりだった。婆さんの籠をちらりと覗き込んで、自分の糸束を抱え直す。
「ああ……ええと、うちは鶏、いるから」
「卵、いらないってかい」
婆さんの方が先に被せた。女は少しほっとしたような顔で続けた。
「そう、卵はね。うちは……麦が欲しいんだよ。うちの鶏、卵は産むけど、粉が足りなくて」
婆さんは少しむっとした顔で鼻を鳴らし、井戸の縁を手のひらでぽんと叩いた。それから麦袋の老人の方にぐいと顎をしゃくる。
「じゃあ、麦と糸で交換すりゃいいだろ。うちの鶏は今年さっぱりでね、卵なんて三日続けて余ってんだよ。昨日の朝なんか、坊主が籠ひっくり返して——まあそれはいいけどさ。あんた、麦は余ってんだろ?」
麦袋の老人は、麦袋の口を結び直しながら首を横に振った。結び目をきゅっと引いてから、膝で袋を一度押さえる。
「俺は糸はいらん。孫の籠が——いや、孫の籠がすっかり壊れててな。籠が欲しい」
籠を編み損ねた屑の子どもの目が一瞬だけ光った。口を開けかけて、「あの……」とだけ言って、すぐ母親の顔を見た。母親が子どもの肩をぐいと引き戻す。
「まあ、その、うちの婆さんが籠はちゃんと編めるんだよ、うちのは。麻と交換してくれるなら——」
「ああ、それは……いや、麻はね」
麻を抱えた男が、割って入るように言い、自分の麻束を抱え直した。抱え直してから、何か思い出したように小さく首を振る。
「うちはもう麻は十分あるんだ。今年は冬が長かったろ。うちの婆さんが冬中漬けてくれた根菜さえあれば——塩漬けの根菜が欲しいんだよ」
塩漬けの家族の主が、木桶を覗き込んで、指で桶の縁を一度なぞった。
「うちは糸がいるよ。冬の繕い物がまだ——」
「あんた、それは違うって」
妻の方が、低い声で主の肩先に被せた。主は振り向きかけて、また口を閉じた。妻は自分の手を一度腰にやってから、もう何も言わなかった。主が少し迷ってから、言い直した。
「……まあ、糸がいるのは本当だよ。冬の繕いがまだ残ってる」
糸の女が、籠を抱えた婆さんの方を見た。短いため息が、井戸の縁に落ちた。
「だから、卵、いらないって言ったろ」
「あんたねえ……」
婆さんは言いかけて飲み込み、代わりに糸の女をじっとりと睨んだ。
僕は、井戸の縁に背を預けて、それを見ていた。
話にならない。ぐるぐると、誰もが自分の欲しいものを言って、それを持っている人間を探して、目で当て、外し、また探す。卵から麦、麦から籠、籠から麻、麻から根菜、根菜から糸、糸から卵。輪はちゃんと閉じている。閉じているのに、誰も動かない。
——交換の連鎖が、二者で切れる。
間に立つ人間がいれば、動く。だが、その役がここにはいない——
僕は喉のあたりで言葉を止めた。今ここで、それを言うのは僕の役じゃない。
ローザが僕の方をちらりと見た。視線が短く合った。
「動かないね」
「動かないね」
ローザが樹皮の板を膝の上で少しだけ傾けた。指先が右端の縦列を上から下へ一度なぞって、また上に戻る。なぞりながら、ローザの目は僕の顔の方には来ない。
「あんた、何かする?」
「しない」
ローザは炭の棒を握り直した。
「——なんで、しないの」
「僕がやると、僕がやったことになる。——いや、それじゃ駄目だ。今日は、村が動いたって形にしておきたい。一回でいいから」
ローザは、ふん、と短く息を吐いた。納得した、というより、そう言うだろうな、という顔だった。
それから、樹皮の板を膝に引き寄せて、炭の棒を握り直した。「たまご 四」と書いた下の空白に、一人ずつ目で追いながら、欲しがっているものを書き足していく。婆さんの名の下に「むぎ」。糸の女の下に「むぎ」。麦袋の老人の下に「かご」。麻の男の下に「ねさい」。塩漬けの家族の下に「いと」。
五つの「欲しがり」が、樹皮の右端に縦に並んだ。ローザの炭が止まった。
「並べたけど、これどうすんの」
「分からない」
ローザは樹皮を膝に乗せたまま、炭の先で右端の縦列を軽く叩いた。
婆さんが籠を抱え直した。帰る素振りだった。糸の女がため息をついた。麦袋の老人がぼそりと「来た意味があったのか」と言った。
その時だった。
広場の入口の方から、足音が二つ近づいてきた。革袋を腰に下げた大男と、その後ろを軽い足取りで歩く、痩せた若い男。
バスティアだった。そして、後ろの若い男は——前にも来ていた、あの男だ。荷台の隣で品物の数を数えていた、目の動きの速い男。
「市の日と聞いたんでね。寄らせてもらった」
バスティアが井戸の縁に手を置いて、ぐるりと一同を見回した。それから、後ろの若い男に顎で示した。
「俺の弟子だ。セイ、と言う」
セイ、と僕の頭の中で復唱した。名前を持った。
セイは小さく頷いて、井戸の縁に近づいてきた。婆さんの籠の中の卵、女の糸、老人の麦袋、男の麻束、家族の根菜の桶。ひとつひとつに目を落とすのが、ずいぶん速かった。婆さんの籠の卵を一つだけ親指と人差し指の腹で軽く持ち上げて、すぐ戻した。重さを確かめたらしい。子どもの屑籠の前では、ほんの一瞬だけ目が止まって、すぐ離れた。
それから、ローザの膝の樹皮の板に視線が落ちた。右端の「欲しがり」の縦列を、上から下まで一度で読み切った。
「ありゃ、止まってるな」
セイがそう言った。声が軽い。結論から入ってきて、面白がる響きが半分だけ混ざっている。
「動かないんだよ」
糸の女が、半ば諦めた顔で言った。
「卵いらない、麦欲しい、麻いらない、籠欲しい、で、誰もぶつからないんだ」
「ぶつからないんじゃなくて、順番が悪いだけだよ、それ」
セイは井戸の縁に腰を下ろさなかった。立ったまま、首だけ傾けて全員の籠と袋を順に見ていく。値段でも測っているような目つきだった。麦袋の前で一度止まり、親指で袋の腹を軽く押した。押した指をそのままの形で、口の中で何かを呟いた。
「卵四つ。麦は——半斗と少しか」
そのまま麻束の前に移って、束の縛り目を指で一度だけ弾いた。
「ちょっと、整理させてくれ。間違ってたら言ってくれよ」
言いながら、麦袋の老人の前に立った。
セイは老人の目を真っ直ぐに見ていた。
「あんた、籠が欲しい——で合ってる?」
老人は一拍置いてから、麦袋の結び目を親指で確かめて頷いた。
「ああ」
「籠を持ってんのは、そこの婆さんだ」
セイは視線を一瞬だけ婆さんの方に流して、また老人に戻した。
「婆さんが持ってる卵は、そっちの女がいらないって言った。合ってるよな」
「合ってる」
「だが、その女は糸を持ってて——糸が欲しいのは、そこの家族だ。違うか」
言いながら、セイは指で空中に短い矢印を一度だけ引いた。糸の女が黙って頷いた。家族の母親もこくりとした。
「家族が持ってんのは塩漬けの根菜で、それを欲しがってんのは麻の兄さん。で、麻は——」
もう一本、指で空中に矢印。
セイが僕の方を一瞬だけ見た。ローザの方も。それから、視線をまた老人の方に戻した。
「麻は、あんたが孫の籠の修繕に要るって言ったろ。三日前に俺が荷台を停めた時、俺の前でぼやいてたぞ」
老人の目が、少しだけ開いた。
「……言ったかもな」
「じゃ、話は早い」
セイは、軽く一回だけ手を叩いた。それから、指で空中に四角い形を描き始めた。誰がどっちに動くか、線で結んでいく。
「籠は婆さんから老人へ。麦は老人から女へ。糸は女から家族へ。根菜は家族から麻の兄さんへ。麻は兄さんから婆さんへ。一周だ」
間ができた。みんなが頭の中で輪を辿る音が、井戸の縁に薄く溜まる。
「待ってくれ。じゃあ、婆さんの卵はどうなるんだい」
糸の女が言った。
「卵は——婆さんの手元に置いとけばいい」
セイはあっさりとそう言った。
「卵を欲しがるやつが今日はいないんだ。要らないものまで一緒に転がそうとするから止まる。動く分だけ動かす。動かないやつは、無理に動かさない。それだけのことだよ。親方もいつもそう言う」
「卵は……」
婆さんが自分の籠の中の卵を見た。それから、ぱっと顔を上げた。
「いいよ。卵は持って帰る。籠と引き換えに麻が来るなら、それでいい」
「俺は籠が来るならいい」
麦袋の老人がそう言って、籠を婆さんから受け取った。婆さんは次に何を受け取るか分からず、手が宙で止まった——のを、セイが指で順番を示した。
「麦は老人から糸の女へ。糸は女から家族へ。根菜は家族から麻の男へ。麻は麻の男から婆さんへ」
言いながら、セイは先ほど空中に描いた四角を、もう一度同じ場所で指でなぞり直した。一周目と同じ線を、今度は手と物が通るように。僕たちには見えていない線が、セイには最初から見えているらしかった。
手と手の間で、麦の粒がほんの少しこぼれた。籠の縁が掠めた音がした。糸が女の手から家族の母親の手に渡って、家族の母親が「冬の繕いに足りる」と小さく言った。根菜の桶が麻の男の腕に乗った。麻の束が婆さんの膝の上に落ちて、婆さんが両手でゆっくり撫でた。僕は井戸の縁にもたれたまま、それを見ていた。
——動いた。
心臓のあたりが、ぐっと熱くなった。今日の僕の目標は、十数人の中の何かを一回でも動かすことだった。一回どころじゃなかった。五つ、六つ、品物が円を描いて回った。
「悪くない。悪くないぞ、これ」
セイが、最後にそう言った。誰に言ったわけでもない。半分は自分自身に向かって言って、半分は井戸の縁の僕の方に放った言葉だった。
「あんたんとこ、面白いな。次もこういう日があるなら、寄っていいか」
婆さんが、麻の束を抱えたまま頷いた。糸の女が頷いた。麦袋の老人が頷いた。子どもの母親が、屑籠を抱え直して、ばつが悪そうに頷いた。
バスティアは井戸の縁にずっと腕を組んで立っていた。最後にぼそりと言った。
「月に一回でいい。この日に来る」
その時、広場の入口の方から、また別の足音が近づいてきた。重い足音だった。
顔を上げると、ヴィルヘルムだった。
名前は知らなかった。三つ隣の村の鍛冶屋だ、とハインリヒから聞いていただけだ。革の前掛けに焦げた跡がいくつもある。
肩から布袋を下ろして、鍬の刃が三本と、小ぶりの鎌が二本、井戸の縁に並べた。鈍い灰色だった。
「市があると聞いた。市がある日になら、来る」
誰も何も言わなかった。鉄と引き換えにできるものを、今日この場の誰も用意していない。ローザが、膝の樹皮の板にすっと視線を落とした。
「鉄かね……」
麦袋の老人がぼそりと呟いた。呟いただけで、それ以上は続けなかった。
「今日は持って帰る。次の月、ここで何が出るか見てから、また来る」
布袋に鉄を戻して、来た方向にゆっくり歩き去った。
ローザが、樹皮の板の上に、棒で「鍛冶」と書こうとして、字を一度迷ってから「かじ 月一」とだけ書いた。
婆さんが帰り、糸の女が帰り、家族が帰り、麻の男が帰り、麦袋の老人が帰った。子どもの母親は、屑籠を抱えたまま少し残って、ローザの樹皮の文字を覗き込んでいた。
バスティアとセイが、最後に残った。
「来月もな」
バスティアが僕の肩を一度叩いて、井戸の縁から離れた。セイは離れる前に、もう一度僕の方を見た。目が、品物を見ていた時と同じ動きをしていた。
「あんた、これ、誰に教わった」
セイが言った。
「誰にも教わってない。今日のは、あんたが勝手にやったこと。僕は——座る場所を決めた、までだ。あとは座ってた」
「座ってただけのやつが、座る場所をこういう風に作るかね」
セイは少しだけ笑った。歯を見せない、口の端だけの笑い方だった。
「ま、いいや。聞かないでおく。聞かない方が、たぶん俺も得だ」
バスティアの後ろについて、広場の入口の方に歩いていった。
僕とローザだけが残った。
日が高くなっていた。井戸の縁の石が、朝より少しだけ温まっている。手のひらを置くと、冷たさの中に薄い熱があった。
「動いたね」
ローザが言った。
「動いた。……思ってたより派手に動いた、というべきか」
「あんた、なんもしなかったね」
「したよ」
「何を」
「立ってた。立ってる場所を作って、そこに立ってた。それも仕事のうち……ってことに、しといてよ」
ローザは、ふっ、と鼻先で短く笑った。馬鹿にしたわけじゃない笑い方だった。樹皮の板を膝の上に置いて、「動」という字を書こうとして、形を思い出せなくて、代わりに「うごく」と書いた。書いた字を、しばらく指でなぞった。
「あの男」
「セイ?」
「セイ。あれ、頭の中で線、引いてたよね」
「引いてた。——いや、『引いてた』は違うな。最初から線で見えてる。覚えたんじゃなくて、最初からだ」
「あたしと似てる」
ローザは樹皮の板の縁を、指の腹で一度だけ撫でた。撫でた指がそこで止まる。それから、ゆっくりと首を振った。
「いや、あたしは知ってるものを並べてるだけ」
僕は何も言わなかった。
頭の中では、別のことを言いそうになっていた。あいつは、見た瞬間に線を引いた。誰にも教わらずに、それをやる人間がいる。僕がこれから——
僕は、井戸の水の冷たい匂いを思いきり吸い込んで、頭の奥のその台詞を、押し戻した。
ローザが僕の方を見ていた。
「また熱が出そうな顔してる」
「出てない。——出てないって」
ローザは樹皮の板の縁を指の腹で一度撫でてから、僕の目の下のあたりを見た。
「出る前に言うんだよ、いつも。あたし、もう覚えた」
「……まあ、出るかもしれない。でも今日はまだだ」
「お母さんに言われたんでしょ。顔色見たら寝かせろって」
「言われた。母さんはあの話になると、ほぼ予言者だからな」
ローザは樹皮を裏返して、空白の面の方に「次 月の 初め 三日」と書いた。文字は、朝より少しだけまっすぐになっていた。
「卵、要らないって言われた婆さんは、次は別のもの持ってくるかも」
「かもね」
ローザの「かも」が、いつもと違って語尾が落ちなかった。断定じゃないけれど、保留でもない。何かを観察していた言い方だった。
僕は井戸の縁から立ち上がった。膝の裏が、長く座っていたせいで少し固くなっていた。背を伸ばすと、声変わりの途中の喉のあたりに、変な角度の緊張が走る。まだ十五になったばかりの体だ、ということを、こういう時に思い出させられる。
広場の隅、整地の終わった場所の端の方に、妙な角度で割れた石が、まだ二つ転がっていた。整地の時に僕たちがどかしきれなかった石だ。
頭の奥に押し戻したはずの台詞が、戻ってきそうになる。別のものを見たかった。
僕は、そっちに歩いていった。
しゃがんで、割れた石の片方を拾った。割れ口が、ぱきりとした直線になっていた。普通に踏んで割れる割れ方じゃない。指で割れ口の縁をなぞった。冷たい。冷たくて、少しだけざらついている。
去年の老人の指の動きが、一瞬だけ、目の奥に浮かんだ。
誰がこの石を割ったのか。今は分からない。後で見に行く。
僕は石を地面に戻して、井戸の方へ戻った。
ローザが樹皮の板を抱えて立っていた。
「帰る」
ふたりで広場を後にした。背中で井戸の水音が、ぽつん、と一度だけ聞こえた。
次の機会には、もう一人、ふたり、増えているかもしれない。鍛冶屋の革の匂いが、井戸の縁に混じる日も、たぶん遠くない。




