市を開く話は僕が始めたのに、帳面の男の手柄になった
冬を二度越した。
二度目の冬のある夜、遅く土間に戻ると、ローザが囲炉裏のそばで板に向かったまま、ちいさく頭を落として眠っていた。
僕は藁束を横に下ろしてから、板の端を覗いた。
「おかあさんは、ひえない」
短い一文が、炭の先で、ひと続きに書かれていた。一文字ずつ区切って拾っていた去年の冬とは、違う書き方だった。書いてから、ローザはそれを擦って消していなかった。前なら、書いたあと必ず指で消していたのに。
僕は板を元の位置にそっと戻した。囲炉裏の火が弱くなっていたので、灰をすこし掻き寄せた。ローザは目を覚まさなかった。
二度目の春、バスティアの荷車が泥の街道の向こうから入ってきた日、僕は荷下ろしを手伝った。
幌の中は、去年までに見たことのない量の荷物で埋まっていた。革の包み、塩の壺、麦袋、さらにその下に麦袋。荷下ろしが終わったあと、バスティアは御者台の横にまだ三袋、積み残しているのに気づいた。
「積めなかった。次の村で、追加で頼まれてな」
バスティアは三袋を村の倉の横に下ろすと、手のひらを腰で拭った。
「持って帰れないのか」
「次は夏の終わりか、秋の頭か、その辺だ。そのときに、他の村に回す」
三袋は、倉の軒下にそのまま並べて置かれた。翌朝、見に行ったら、そのうちの端のひとつは、袋の下半分が夜の雨で色を変えていた。
季節に一度来るかどうかの馬車を待つ村と、馬車に積み残されて雨に滲む袋。畑が去年より広がって、ローザの糸巻きの糸が余って、婆さんの編んだ籠が軒下に積まれているのに、売り手の馬車は年に二、三度しか来ないこと。
頻度が足りないなら、頻度が要る。
馬車の側を増やすのは、僕の手に余る。増やせるのは、こちら側——待つ場所を、決めた日に、決めた人数で、先に揃えておく方だ。月に一度でいい。人を集める日を、月に一度、先に作っておけばいい。
その一行の思いつきは、翌日になっても、翌々日になっても、消えなかった。
声が低くなったのに気づいたのは、二度目の春のことだった。
開墾地の縁で鎌を握ると、手の付け根のダコが鎌の柄に吸いつくように当たる。去年より、この厚みがだいぶ増した。背も一握り分ほど伸びた。十五になっていた。
体の話だ。中身ではない。
「ムーア」
縁の方から声がかかった。ローザだった。糸の束を腕に抱えている。
顔を上げて、少し驚いた。背がさらに伸びている。もう僕と同じくらいだ。
「あんた、声が低くなったね」
「ああ……やっぱり分かるか」
ローザは糸の束を抱えたまま、僕の顔を一度ちらと見た。
「気づくでしょ。背も伸びたし。あんた、急にだよ」
ローザが糸の束を地面に置いた。腕に薄い筋がついていて、肩の線がかつてのように細くない。十六。村の娘の中では、もう小さい方ではない。
「で、何やってるの」
「春のうちに、この縁から広場まで草を刈っておきたくて」
「広場って、村の真ん中の」
「そう」
「何のために」
「人を集めたいんだ」
ローザが僕を見た。
「広場、誰が許可するの」
「許してもらう。——いや、許させる、の方が近いだろうな。バスティアが、そろそろ集まる場所があった方がいいって言ってた」
嘘ではない。正確には、まだ言っていない。だが、そう誘導するつもりだ。
「集まる場所」
「月に一回でも、人が集まれば、物が動くんだ」
ローザはしばらく黙った。腕の糸を抱え直しながら、広場の方を見ている。それから、低い声で言った。
「売り物、ないでしょ」
「ある。ローザの糸も、僕の麦も、向かいの婆さんが編む籠も」
「籠なんて誰が買うの」
「籠が要る奴が買う」
ローザは少し首を傾げて、糸の束に目を落とした。
「……ふうん」
それだけ言って、家の方へ歩き出した。広場の方ではない。
僕は鎌を握り直した。湿った草の根のあたりから、土の冷たい匂いが立ち上がる。
去年の秋、開墾地の縁が広場まで届きそうだと気づいたときから、僕は段取りを考えていた。
僕が「市をやろう」と言っても誰も来ない。痛いほど学んだ。人を動かすには、動かしたい側に動いてもらうしかない。
つまり、グリュンだ。
数日後、街道の方から馬車の音がした。
バスティアの幌付きの荷車が、ゆっくり村に入ってくる。馬の鼻息と、車輪が泥を噛む湿った音が、曇った空の下に低く響いた。
僕は畑から駆けた。手のひらが乾いた土でざらついている。
「久しぶりです」
バスティアが御者台から降りた。前より少し痩せて見える。
「ムーア。背が伸びたな」
「あんたは痩せましたね」
「この冬は街道が長くてな」
荷車の後ろから、もう一人の男が降りた。僕と同じくらいの背丈で、目つきが鋭い。荷台の縁に手をかけたまま、何かをぶつぶつと呟いている。指が空中で動いていた。
数を数えているのではない。計算している。樽の数か、麻袋の重さか、その積み合わせか。
「弟子ですか」
「ああ。今年から連れてる」
若者は僕の方を見なかった。荷台の中身から目を離さない。
「それより、ムーア。お前のところの糸と麦、引き取れる量が増えた」
「いくらで?」
「前と同じだ。量は増やせる」
「……量だけ増やしても、意味がないんです」
バスティアの眉が少し寄った。
「——置いとく場所がないって意味です。糸は湿るし、麦は痛む」
「は?」
僕は荷台の方を見て、それからバスティアの目に視線を戻した。
「あんた、年に何回ここに来るんですか」
「二回。多くて三回だ」
「二回だと、こっちが用意した分は二回分しか動かないんです。間が空きすぎる」
「間を詰めるなら、もっと頻繁に来るしかないが、それには——」
「集まる場所がいるんです」
バスティアが眉を上げた。
「お前、何の話をしてる」
「広場で、月に一回、村の連中の物を集めて売る。あんたはその日に合わせて来る。それなら毎月でも来られるんじゃないですか」
バスティアは少し黙ってから、荷台を振り返った。若者がまだ何かを呟いている。
「……月に一回か。集まる物は」
「糸、麻、麦、籠、編んだ縄。冬なら干した肉も少し」
「干し肉が出るのか」
「グリュンの取り分を超えた分なら、出る家もあります」
バスティアは荷台の縁に手をついた。指先で木をとんとんと叩いている。乾いた音が二回、三回と続いた。
「悪い話じゃない。が、グリュンが許すか」
「許すように仕向ければいいんです」
「どうやって」
「あんたから言ってください。『この村に集まる場所があれば、毎月でも来る。上納が増える』と」
バスティアが僕の顔を見た。少しだけ笑った。
「お前、十五の言うことじゃないな」
僕は笑わなかった。
「僕が言ったって、誰も聞きません」
バスティアはもう一度笑って、荷台の若者に何か声をかけた。若者は顔を上げず、指だけ動かしている。
翌日の昼過ぎ。
賦役の終わりに、グリュンが僕を呼んだ。
「そこの。ムーア」
名前で呼ばれた。グリュンが僕を名前で呼ぶのは久しぶりだった。
近づくと、グリュンは帳面を脇に挟んでいた。いつもより背筋が少しだけ伸びているように見えた。板壁の湿った匂いがする。
「お前、市みたいなことをやるそうだな」
「いや、バスティアが言ってきた話だよ」
「あの行商人か」
「……うん」
グリュンは帳面を持ち替えた。革の端が擦れて、乾いた音がする。
「お前の名が出た」
「……僕の」
「お前の畑が広がっていて、出すものが多いと。だから月に一回来たい、と」
「僕は、ただ畑をやってるだけだよ」
「ふん」
グリュンは少し鼻を鳴らした。
「俺が、伯さまに上申してやる」
「……上申か」
「『この村に市場ができれば、交易で上納が増えます』とな。場所は広場でいい。日は月の初め、お務めの後だ。お前、準備しろ」
「僕が?」
「他に誰がいる」
グリュンは帳面を脇に挟み直した。それから低い声で続けた。
「言っておくが、これは俺の手柄だ。お前が言い出したことではない。分かるな」
「分かった」
「上手くいけば、お前の畑のことも、もう少し見逃してやる」
グリュンは指の先で帳面の縁を、こつ、こつ、と二度叩いた。それから、声が一段だけ低くなった。
「……俺だって、伯さまに言われて回してるんだ。これが回らなければ、俺の方が叱られる」
最後の一言は、僕にではなく、自分の帳面の方に落とした言い方だった。
グリュンが歩いていく。背中が、いつもより少し軽い。足音が乾いていた。
僕は地面を見た。
上手くいけばいくほど、グリュンの上に上納が積み上がる。村の働き分も増える。
——これが、僕がこれから始めることだ。
息を吸って、立ち上がった。立ち止まっていても草は刈れない。
翌日の昼。賦役の合間。
僕はローザを広場の隅に呼んだ。樹皮の小さな板を一枚渡した。
「これで何やるの」
「市の準備だ。場所、日、何が出るか、決めなきゃいけない」
「あたしが」
「ローザが」
ローザは樹皮を指で撫でた。表面のざらつきが指の腹に乗る。
「何で、あたしが」
「ローザの方が、村の家のことを知ってる。誰がいくつ籠を編むか、誰が糸を出せるか、僕は知らないから」
ローザはしばらく黙ってから、樹皮を膝に置いて、棒を拾った。
「場所は、広場の真ん中じゃ駄目。教会から見える。隅の、井戸の近く」
「井戸の」
「水が要るから。それと、人が集まっても井戸があれば理由になる」
「……理由」
「グリュンに何か言われた時の」
僕は何も言えなかった。
ローザは樹皮の上に棒で線を引いた。二本、三本。井戸と広場の位置関係を描いている。
「日は月の初めの三日。お務めの後。畑の準備が終わってる家が多い」
「ローザ、いつそんなこと考えたの」
「今。——あんた、また何か一人で抱え込みそうな顔してる」
ローザは棒の先を樹皮の上に置いたまま、僕の目を見ずに言った。
ローザは樹皮の上に「ゐど」と書いた。文字は不格好だが、間違っていない。
「出すものは、糸と麻と籠。あとは家ごとに聞かないと分からない」
「聞いてくれるかな」
「あんたが行った方がいい」
「僕は家の中のことを知らない」
「知らないからいい。知ってる奴が聞くと、駆け引きになる」
——駆け引き。その言葉を、僕はこの子の口から初めて聞いた気がした。
僕はローザの顔を見た。ローザは樹皮を見たままだったが、僕の視線に気づいて、一度だけ指先で樹皮の縁を弾いた。口の端が、ほんの少しだけ動いていた。笑ったというほどではない。
その時、後ろから足音がした。
振り返ると、ハインリヒだった。井戸端で「わからなくはない」と言った、あの男だ。歳は二十手前。普段は黙って鍬を振っているだけの男が、今日は僕の方に歩いてくる。
「ムーア」
「ハインリヒ」
「広場、何か始めるんだろ」
「……うん」
「整地、手伝うよ」
僕は少し驚いて、ハインリヒの顔を見た。
「何で?」
ハインリヒは少し肩をすくめた。
「あんたの畑、見てたら、やることがあるんだなって思った」
「やること」
「俺らも、ぼんやり鍬振ってるだけじゃなくて、やることがあるんだな、って」
ハインリヒは樹皮を覗き込んだ。ローザが描いた井戸の位置を見ている。
「井戸の近くか。いいな」
「井戸が要るから、と思った」
ローザが言った。ハインリヒは頷いた。
「明日、賦役が終わったら、こっちに来る。鍬持ってくる」
「助かるよ」
「いいよ」
ハインリヒはそれだけ言って、また鍬を肩に担ぎ直して歩き去った。
足音が遠ざかってから、僕はローザの方を見た。
「ローザ」
「何」
「市を開きたい、と言ったのは僕じゃない——そういうことにしてくれ」
ローザは樹皮を見たまま答えた。
「分かってる」
「グリュンには、グリュンが言い出したことになっている。バスティアには、バスティアが言ったことになっている。お前には——」
「あたしは、何も言わないだけ」
ローザは樹皮の隅に棒の先で小さく「ろざ」と書いた。それから掌で擦って、消した。
土の匂いが、指のあたりに残った。
夜。
小屋の中の粥は、去年よりだいぶ濃くなっていた。麦の粒がはっきり見える。塩が少しだけ効いている。バスティアから引き取った塩が、棚の布の中にまだ少し残っているからだ。
イェニーが椀を差し出した。
「ムーア、ちゃんと食べてるかい。忙しそうだけど」
「食べてる」
「腹、減ってないかい」
「……減ってない。頭が熱いだけで」
イェニーは自分の椀を置いて、しばらく僕を見ていた。それから、低い声で言った。
「あんた、また熱が出てるんじゃないかい」
僕は椀を口に運んだ。粥の温さが舌に乗って、塩の角が喉のあたりに残る。
「……熱じゃない。少し、考えが多いだけだと思う」
「そうかい」
イェニーはそれ以上聞かなかった。木の匙で粥をすくって、自分の口に入れた。
僕は椀を半分まで空けて、そこで手を止めた。残りは置いた。
「もういいのかい」
「明日、早い」
「広場かい」
「うん」
イェニーはそれ以上聞かなかった。ただ、匙を持つ手が、ほんの少しだけ止まった。それからまた動き出した。
僕は腰を上げて、戸口の方に向かった。
「ムーア」
「ん」
「忘れ物」
イェニーが僕の置いた椀を持ち上げた。中に粥がまだ半分残っている。
「腹が減ってたら、明日の整地、できないだろ」
僕は椀を受け取った。塩の匂いがほんのり立ち上がる。一口、二口、立ったまま飲み込んだ。
「……ありがとう」
イェニーは何も言わずに鍋をかき混ぜた。
戸口を出ると、夜の風が冷たかった。麦藁の屋根の向こうから、誰かの咳の音が響いてくる。
明日、ハインリヒが来る。広場の整地が始まる。
月の初めの三日に、何人来るかは、まだ分からない。




