読めないまま働くのが嫌だと、ローザは土に自分の名を書いた
薪を拾いに森に入ったら、ローザがいた。
朝靄の残る林の中で、枯れ枝を腕に抱えている。湿った落ち葉の匂いが鼻に冷たい。いつもより早い。僕が来る時間を知っているのか、たまたまなのか。
ローザは枯れ枝を一本折った。乾いた音が靄に吸われて消える。
「石」
「は?」
「あんたが貸してくれた石。あれの続き」
例の石だ。文字を刻んだ平たい石。
「全部なぞった。でも、何が書いてあるのか分からない」
「……全部なぞったんだ」
「暇だったから。——で、あれは何なの」
「——あれは教会の聖典から写したやつだよ。まだ全部じゃないけどね」
ローザが枯れ枝を折る手を止め、僕の顔を見た。
「あたしにも教えて」
薪拾いの朝靄の中で、その言葉はひどく軽かった。頼むような口調ではない。
「何で急に」
「急じゃない」
ローザが枯れ枝を腕に抱え直した。
「バスティアが紙に何か書いてた。あんたは読んでた。グリュンの帳面もそう。何が書いてあるか分からないままなの、嫌なんだけど」
知りたいというより、置いていかれたくないのだろう。ローザの声は、そう聞こえた。
「教えるのはいいけど、問題があるんだ」
「何」
「時間だよ。ローザの賦役は朝から昼過ぎまであるよね。糸も紡がなきゃいけない。いつやるの」
「賦役の合間」
「合間って、昼飯の前後だけだよね。それで足りる?」
「足りなきゃ、足りる分だけやる」
反論する余地がなかった。足りる分だけやる。その一言が、腹の底に落ちた。
「……あんた、十三のくせに時々変な喋り方するよね」
「そうかな?」
「子どもに教えるっていうより、年寄りが説教してるみたい」
「……それで、やるのやらないの」
「やるって言ったでしょ」
ローザが枯れ枝を拾い直して、さっさと歩き出した。
ただ、一つだけ正直に言わなければならないことがあった。
「僕が教えている字、全部正しいかは保証できない。教会で聖典を見て覚えたんだけど、全部が正確に写せたかは僕にも怪しい」
ローザが足を止めた。振り返る。
「じゃあ間違ってるってこと?」
「かもしれない」
「……まあいい。間違ってたら、その時直す」
正しいかどうかも怪しい字を、そのまま教える。それでも始めるしかなかった。
——この世界では、字を覚える時間は賦役の切れ端にしかない。
昼の賦役が終わった。
小屋の裏手。日陰になる壁際の土は湿っていて、棒で線が引ける。土の冷たい匂いが濃い。ローザが小走りでやってきた。手に石を持っている。僕が貸した文字の石だ。
「これの、最初のやつからやって」
石の表面に刻んだ文字は八つ。教会の聖典で確認できた分だけだ。今日はこの八つを一度でいいから全部通す。形は後で直せる。まず通す。それが目標だった。
棒を拾った。樹皮がざらついて、握ると湿った土の冷たさが掌に伝わる。棒の先で土を少し均してから、ローザがよく見える角度に手を寄せて、地面に最初の文字を書いた。
——どう教えればいいのか、実のところ正解を知らない。僕が教会で写したときは、誰にも教わらなかった。
「——これが、アー。最初の字だよ」
ローザが覗き込んだ。地面の線と、石に刻んだ溝を見比べている。
「棒で書くと形が違う」
「うん。石に彫るのと、地面に棒で描くのじゃ線の太さが違うから。——でも、形の骨は同じだよ」
ローザが棒を受け取った。地面に、同じ字を書いた。
——一画目から、もう似ていた。
線は荒い。棒の先が土に引っかかって途中で跳ねている。だが、字の骨格は合っている。僕が教会で三回書いて崩した字を、この子は一回でここまで持ってきた。
「……何で書けるの」
「見たから」
棒を握る掌に汗が滲んだ。思わず声に一拍置いてしまった。
「——見ただけで書けるやつは、そうそういないよ。大人でも」
ローザの棒が、地面の上で止まった。
一拍。耳の端が、ほんのり赤い。視線は地面の字から動かないまま、唇が小さく開いて、閉じた。
「……うるさい。続き」
指先で石の上の二つ目の字を乱暴に叩いて、棒を握り直す。地面を引っかく音が、さっきより少し強かった。
二つ目も、三つ目も。形が崩れる箇所はあるが、崩れ方に筋がある。線の長さではなく、線どうしの関係を見ている。
ローザの棒の動きを、しばらく黙って見ていた。こういう見方を僕は誰かに教わるまで気づけなかった。この子は最初から、そこを見ている。
「……ローザ、形そのものじゃなくて、線どうしの関係で見てるよね」
「長い。次の字」
「……うん」
四つ目の字で、ローザが手を止めた。
「これ、さっきのと似てる」
身を寄せて、ローザの地面の字を指でなぞった。
「似てるけど、違う。——ここ、一本多いんだ」
「なんで」
「音が違うから。字は、音を表してるんだ」
——音素と表音文字、と続けかけて、言葉を呑んだ。そこまで行けば、ただの授業ではなくなる。
ローザの目が動いた。石の表面をもう一度なぞった。八つの字を順に指で追って、何かを確認している。
「……じゃあ、この並びにはルールがある」
「あるよ。でも、そのルールを僕はまだ全部知らない」
「ふうん」
ローザはそれ以上聞かなかった。棒を動かして、五つ目の字を書き始めた。
教えていないところまで、自分で進んでいる。たまたまでは済まない気がした。
六つ目。七つ目。ローザの棒が地面を走るたびに、線がわずかに整っていく。八つ目を書き終えたとき、最初の字よりも線が安定していた。
鐘が鳴った。
午後の賦役の合図だ。遠くから重い金属の音が、湿った空気を裂く。
ローザが棒を止めた。
「続きは」
「——明日」
「明日も賦役だよ」
ローザが棒を地面に突き刺して、立ち上がった。土埃を手で叩き、振り返らずに歩いていく。
ローザが小屋の裏を離れていく。足元の文字が午後の日差しに乾き始めている。
地面の文字に土を被せた。ローザの分も。
夜。小屋の中は粥の湯気が天井に溜まっていた。
イェニーが鍋をかき混ぜている。昨日の塩がまだ少し残っている。粥の匂いに、ほんのわずかだけ塩の角がある。
「ムーア」
「ん?」
「あの子に、何を教えてるんだい」
手が止まった。——見ていたのか。
「文字だよ。読み書き」
イェニーはしばらく黙っていた。鍋をかき混ぜる手だけが動いている。粥の湯気が塩の角を含んで鼻に届く。木べらが鍋底を擦る乾いた音が続く。
ふいに、その手が止まった。ほんの一瞬、木べらが持ち上がって、また沈んだ。
イェニーは何も言わなかった。ただかき混ぜる速さが、少しだけ遅くなった。
「……あの子は、頭がいいんだろうね」
「うん。昨日教えた字を、もう自分で並べ替えてるんだ」
イェニーが小さく笑った。笑ったのか溜息なのか分からない程度の音だった。
「教えるなら、あの子にもちゃんと食べさせてあげなよ」
「……食べさせる?」
「腹が減ってたら、字なんて入らないから」
粥を椀に注ぎながら、イェニーは僕の目を見なかった。棚の上の布に包んだ塩を少しだけ取り、鍋に振った。
食べさせろ、か。イェニーなりの線引きだ。
「……ムーア」
「何」
「あんまり、人目につくところでやるんじゃないよ」
イェニーは理由を言わなかった。言わなくても分かっている。グリュンの目。教会の目。伯の目。字を読める農奴がいると知られたら、叱られて終わる話ではない。
「……分かった」
「はい、食べな」
イェニーが自分の椀を持ち上げた。話は終わりだ。
椀を受け取った。一口すすった。麦の粉っぽさが舌に残る。塩気はもうほとんどない。
翌朝。
賦役に向かう道で、ローザがしゃがんでいた。
道の端。人が通らない側。棒を手に、地面に何かを書いている。朝露で湿った土の匂いが、冷えた空気の底に沈んでいる。
近づいて、見た。
四つの文字。不格好だが、昨日教えた字だ。並びが違う。石の順番ではない。
——自分の名前だ。
足が止まった。息を吐いた空気が白かった。
昨日教えた字を自分で並べ替えて書いている。教えた覚えのない組み合わせだった。
ローザは書き上がった文字を少しだけ眺めていた。一画目が深すぎて、三画目が短い。朝露で湿った土に、棒の跡が浅く刻まれている。それでも、たしかに名前だ。
鐘が鳴った。
ローザが立ち上がる。足先で地面の文字を消した。最後の一画まで土に戻してから、棒を道端に置く。
それから何も言わず、鐘の鳴る方へ歩いていった。
消したところで、もう遅い。一度書けた名前は、もうあの子の中に残っている。
——問題は、明日の場所だ。昨日の壁際には、昼過ぎに人が三人通った。
溜まっているものがあるので、1日二回くらい更新してみます




