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10/19

読めないまま働くのが嫌だと、ローザは土に自分の名を書いた

 薪を拾いに森に入ったら、ローザがいた。


 朝靄の残る林の中で、枯れ枝を腕に抱えている。湿った落ち葉の匂いが鼻に冷たい。いつもより早い。僕が来る時間を知っているのか、たまたまなのか。


 ローザは枯れ枝を一本折った。乾いた音が靄に吸われて消える。


「石」


「は?」


「あんたが貸してくれた石。あれの続き」


 例の石だ。文字を刻んだ平たい石。


「全部なぞった。でも、何が書いてあるのか分からない」


「……全部なぞったんだ」


「暇だったから。——で、あれは何なの」


「——あれは教会の聖典から写したやつだよ。まだ全部じゃないけどね」


 ローザが枯れ枝を折る手を止め、僕の顔を見た。


「あたしにも教えて」


 薪拾いの朝靄の中で、その言葉はひどく軽かった。頼むような口調ではない。


「何で急に」


「急じゃない」


 ローザが枯れ枝を腕に抱え直した。


「バスティアが紙に何か書いてた。あんたは読んでた。グリュンの帳面もそう。何が書いてあるか分からないままなの、嫌なんだけど」


 知りたいというより、置いていかれたくないのだろう。ローザの声は、そう聞こえた。


「教えるのはいいけど、問題があるんだ」


「何」


「時間だよ。ローザの賦役は朝から昼過ぎまであるよね。糸も紡がなきゃいけない。いつやるの」


「賦役の合間」


「合間って、昼飯の前後だけだよね。それで足りる?」


「足りなきゃ、足りる分だけやる」


 反論する余地がなかった。足りる分だけやる。その一言が、腹の底に落ちた。


「……あんた、十三のくせに時々変な喋り方するよね」


「そうかな?」


「子どもに教えるっていうより、年寄りが説教してるみたい」


「……それで、やるのやらないの」


「やるって言ったでしょ」


 ローザが枯れ枝を拾い直して、さっさと歩き出した。


 ただ、一つだけ正直に言わなければならないことがあった。


「僕が教えている字、全部正しいかは保証できない。教会で聖典を見て覚えたんだけど、全部が正確に写せたかは僕にも怪しい」


 ローザが足を止めた。振り返る。


「じゃあ間違ってるってこと?」


「かもしれない」


「……まあいい。間違ってたら、その時直す」


 正しいかどうかも怪しい字を、そのまま教える。それでも始めるしかなかった。


 ——この世界では、字を覚える時間は賦役の切れ端にしかない。



 昼の賦役が終わった。


 小屋の裏手。日陰になる壁際の土は湿っていて、棒で線が引ける。土の冷たい匂いが濃い。ローザが小走りでやってきた。手に石を持っている。僕が貸した文字の石だ。


「これの、最初のやつからやって」


 石の表面に刻んだ文字は八つ。教会の聖典で確認できた分だけだ。今日はこの八つを一度でいいから全部通す。形は後で直せる。まず通す。それが目標だった。


 棒を拾った。樹皮がざらついて、握ると湿った土の冷たさが掌に伝わる。棒の先で土を少し均してから、ローザがよく見える角度に手を寄せて、地面に最初の文字を書いた。


 ——どう教えればいいのか、実のところ正解を知らない。僕が教会で写したときは、誰にも教わらなかった。


「——これが、アー。最初の字だよ」


 ローザが覗き込んだ。地面の線と、石に刻んだ溝を見比べている。


「棒で書くと形が違う」


「うん。石に彫るのと、地面に棒で描くのじゃ線の太さが違うから。——でも、形の骨は同じだよ」


 ローザが棒を受け取った。地面に、同じ字を書いた。


 ——一画目から、もう似ていた。


 線は荒い。棒の先が土に引っかかって途中で跳ねている。だが、字の骨格は合っている。僕が教会で三回書いて崩した字を、この子は一回でここまで持ってきた。


「……何で書けるの」


「見たから」


 棒を握る掌に汗が滲んだ。思わず声に一拍置いてしまった。


「——見ただけで書けるやつは、そうそういないよ。大人でも」


 ローザの棒が、地面の上で止まった。


 一拍。耳の端が、ほんのり赤い。視線は地面の字から動かないまま、唇が小さく開いて、閉じた。


「……うるさい。続き」


 指先で石の上の二つ目の字を乱暴に叩いて、棒を握り直す。地面を引っかく音が、さっきより少し強かった。


 二つ目も、三つ目も。形が崩れる箇所はあるが、崩れ方に筋がある。線の長さではなく、線どうしの関係を見ている。


 ローザの棒の動きを、しばらく黙って見ていた。こういう見方を僕は誰かに教わるまで気づけなかった。この子は最初から、そこを見ている。


「……ローザ、形そのものじゃなくて、線どうしの関係で見てるよね」


「長い。次の字」


「……うん」


 四つ目の字で、ローザが手を止めた。


「これ、さっきのと似てる」


 身を寄せて、ローザの地面の字を指でなぞった。


「似てるけど、違う。——ここ、一本多いんだ」


「なんで」


「音が違うから。字は、音を表してるんだ」


 ——音素と表音文字、と続けかけて、言葉を呑んだ。そこまで行けば、ただの授業ではなくなる。


 ローザの目が動いた。石の表面をもう一度なぞった。八つの字を順に指で追って、何かを確認している。


「……じゃあ、この並びにはルールがある」


「あるよ。でも、そのルールを僕はまだ全部知らない」


「ふうん」


 ローザはそれ以上聞かなかった。棒を動かして、五つ目の字を書き始めた。


 教えていないところまで、自分で進んでいる。たまたまでは済まない気がした。


 六つ目。七つ目。ローザの棒が地面を走るたびに、線がわずかに整っていく。八つ目を書き終えたとき、最初の字よりも線が安定していた。


 鐘が鳴った。


 午後の賦役の合図だ。遠くから重い金属の音が、湿った空気を裂く。


 ローザが棒を止めた。


「続きは」


「——明日」


「明日も賦役だよ」


 ローザが棒を地面に突き刺して、立ち上がった。土埃を手で叩き、振り返らずに歩いていく。


 ローザが小屋の裏を離れていく。足元の文字が午後の日差しに乾き始めている。


 地面の文字に土を被せた。ローザの分も。



 夜。小屋の中は粥の湯気が天井に溜まっていた。


 イェニーが鍋をかき混ぜている。昨日の塩がまだ少し残っている。粥の匂いに、ほんのわずかだけ塩の角がある。


「ムーア」


「ん?」


「あの子に、何を教えてるんだい」


 手が止まった。——見ていたのか。


「文字だよ。読み書き」


 イェニーはしばらく黙っていた。鍋をかき混ぜる手だけが動いている。粥の湯気が塩の角を含んで鼻に届く。木べらが鍋底を擦る乾いた音が続く。


 ふいに、その手が止まった。ほんの一瞬、木べらが持ち上がって、また沈んだ。


 イェニーは何も言わなかった。ただかき混ぜる速さが、少しだけ遅くなった。


「……あの子は、頭がいいんだろうね」


「うん。昨日教えた字を、もう自分で並べ替えてるんだ」


 イェニーが小さく笑った。笑ったのか溜息なのか分からない程度の音だった。


「教えるなら、あの子にもちゃんと食べさせてあげなよ」


「……食べさせる?」


「腹が減ってたら、字なんて入らないから」


 粥を椀に注ぎながら、イェニーは僕の目を見なかった。棚の上の布に包んだ塩を少しだけ取り、鍋に振った。


 食べさせろ、か。イェニーなりの線引きだ。


「……ムーア」


「何」


「あんまり、人目につくところでやるんじゃないよ」


 イェニーは理由を言わなかった。言わなくても分かっている。グリュンの目。教会の目。伯の目。字を読める農奴がいると知られたら、叱られて終わる話ではない。


「……分かった」


「はい、食べな」


 イェニーが自分の椀を持ち上げた。話は終わりだ。


 椀を受け取った。一口すすった。麦の粉っぽさが舌に残る。塩気はもうほとんどない。



 翌朝。


 賦役に向かう道で、ローザがしゃがんでいた。


 道の端。人が通らない側。棒を手に、地面に何かを書いている。朝露で湿った土の匂いが、冷えた空気の底に沈んでいる。


 近づいて、見た。


 四つの文字。不格好だが、昨日教えた字だ。並びが違う。石の順番ではない。


 ——自分の名前だ。


 足が止まった。息を吐いた空気が白かった。


 昨日教えた字を自分で並べ替えて書いている。教えた覚えのない組み合わせだった。


 ローザは書き上がった文字を少しだけ眺めていた。一画目が深すぎて、三画目が短い。朝露で湿った土に、棒の跡が浅く刻まれている。それでも、たしかに名前だ。


 鐘が鳴った。


 ローザが立ち上がる。足先で地面の文字を消した。最後の一画まで土に戻してから、棒を道端に置く。


 それから何も言わず、鐘の鳴る方へ歩いていった。


 消したところで、もう遅い。一度書けた名前は、もうあの子の中に残っている。


 ——問題は、明日の場所だ。昨日の壁際には、昼過ぎに人が三人通った。

溜まっているものがあるので、1日二回くらい更新してみます

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