外音2 音がうまれる前の家
その家に引っ越してきた日のことを、結衣はよく覚えていない。覚えていないというより、“思い出そうとすると曖昧になる”という方が近い。
最初の印象は、普通の家だった。少し広くて、少し古い。でも、それだけ。音はまだ、普通だった。ドアが閉まる音、皿が置かれる音、階段を上がる音、どれも生活の一部でしかなかった。ただひとつだけ、今思えば違っていた。“音が途切れない家”だった。どこかで必ず、何かの音が続いている。それは安心にも似ていたし、少しだけ落ち着かなさにも似ていた。父はその家を気に入っていた。
「静かだな」
そう言った。でも、母は少し違った。
「静かすぎない?」
その違いは、最初はただの性格の違いだと思っていた。弟はすぐに馴染んだ。部屋の角に座って、どこかの音に耳を澄ませていた。
「なんかさ…ここ、誰かいる感じする」
そのとき結衣は笑った。気のせいだと思った。本当に、そう思っていた。最初の“ズレ”は、小さかった。
夕方のことだった。母が皿を置いた。
カタン。
その少しあとに、もう1つ同じ音がした。
カタン。
母は気づかなかった。結衣も、すぐには気にしなかった。ただの偶然。そういうものはよくある。でも弟だけが言った。
「今、もう1回鳴ったよね」
その言葉を、誰も深く受け取らなかった。それが最初だった。“もう1回”が現れた瞬間。
次の日、階段の音が2回聞こえた。
コト。
そして、もう一度。
コト。
父は気づかなかった。母も気づかなかった。でも結衣は、少しだけ違和感を覚えた。ただ、それを言葉にできなかった。その頃からだった。“同じことが少し遅れて起きる”ようになったのは。遅れはほんのわずかだった。でも確実にあった。そして、その遅れは誰にも共有されなかった。家族の中で、見ている時間が少しずつずれていく。それでも生活は続く…普通に、静かに。ただ1つだけ、積み重なっていった。“気のせい”の数が。
ある夜、弟が言った。
「さっきさ……俺、もう1人いた気がする」
結衣は笑おうとして、やめた。弟の顔が、笑い話に見えなかったからだ。そのとき初めて思った。この家は、何かを待っているのかもしれない、と。何かが来るのではなく、何かが“揃うのを”。父は気づかないまま仕事に行き、母は気づかないまま料理をし、弟は気づきながら遊ぶ。そして結衣は、気づかないふりを覚えた。音はまだ壊れていない。ただ、少しずつ“増えているだけ”。その増え方に、誰も名前をつけなかった。つけてしまえば、戻れなくなる気がしたからだ。
ある日、結衣は窓の外を見た。誰もいないベランダ。でも一瞬だけ、誰かが立っている気がした。見えないのに、見える位置。そのとき結衣は思う。この家はもう、完成している途中なのだ、と。まだ揃っていないだけで…。




