バーデミリオン邸
石柱だけが残った門を潜ると荒れ果てていた庭が整理されていた、剪定された枝が集められて積まれている。
伸び放題の木々と格闘している少年、ディーノ・フォン・バーデミリオン、ダンテの一人息子、汗で濡れた額に金髪を張り付かせ、私の姿を見つけると碧眼の瞳に笑顔が弾けた。
「ビビ姉さん!」 梯子の上で大きく手を振る。
「あっ、高い所で危ないよ」 もう十二歳になる、幸い角は無い、髪も瞳も母親似の典型的なローマン人、明るく人懐っこい笑顔が走ってくる。
「庭の整備なんてどうしたの? 庭師にでもなろうって言うなら良い師匠を紹介してあげるよ」
「ううん、そういうわけじゃないよ、少し整理しておこうと思ってさ」
この少年が見せる屈託のない笑顔はダンテと同じ、差別も区別もない笑顔が好きだ、でも今見せた横顔には影がある、理由は分かっている。
「母さんは……アマレットはいる?」
少年は憂いを残したまま頷いてみせた。
ディーノは結婚したダンテとアマレットの息子、私とアマレットはあの事件以来しばらくは疎遠だった。
握った手の記憶があるのは母のものでなく彼女の手だ、親友と呼べるなら今でもそう呼びたいと私は思っている、本心だ。
私の額に傷を残した事件の後、大雪が降った日、アマレットはダンテの前で自分の額をナイフで切った、私と同じ場所に傷が残る深さで。
私に対する謝罪や負い目の気持ちがあったのかもしれない、でも……あれは告白だったと思う、幼いながらに何となくは感じていた、俺の女だとダンテに叫ばせた私に対する嫉妬、馬鹿なアマレット、そんな事をしなくても私はこの世界に金眼を残さないと誓っていたのに、幸いにもダンテの処置が早かった、化粧で隠れる程度の傷跡で済んだ。
ダンテが失踪してから五年、親友と呼べたアマレットと私のあいだの壁は崩せないでいる、消えない額の傷が私から小さく柔らかな手まで奪った。
「部屋で寝ていると思う、最近ちょっと調子悪いんだ……」
「そう、見舞ってもいいかな?」
「もちろん、ビビ姉さんが来た日は母さん機嫌が良いんだ、先にいっていて、シェーブルを預かるよ」
優しい嘘だ、そんなはずは無い、アマレットにとって私は招かざる嫌な記憶。
「ああ、それとこれ」 袖から出した小袋を放る。
ガチャリとディーノの掌の中で音を発てる、稼ぎの一部、働き手を失った二人には必要なもの、私が持っていても酒代に消えるだけなら、よほど有意義だろう。
ディーノは慣れた手つきでシェーブルの手綱を引いて行く、もう馬にも乗れる、失踪した父の責任を背負ってきた背中、いつのまにか力強く広くなっている、小袋はもうすぐいらなくなると思うと少し寂しい、この屋敷に通う理由がまた一つ減ってしまう。
玄関を開いてリビングに入るとアマレットがいた、お茶の用意をしている、話声が聞こえたようだ。
「いらっしゃいヴァレリー、座って」 ビビとは呼んでくれない。
「ありがとう、起きていて平気なの? ディーノからあまり調子が良くないと聞いたけど」
「まあ、あの子ったら、平気よ、少し熱っぽいだけ、直ぐに良くなるわ」
魔素中毒だ、ラライ山脈から遠く離れた場所でも魔素が滞留してしまう場所がある、耐性のない者にとっては毒ガスの中で生活しているようなものだ。
「アマレット、まだ引っ越す気にはなれないの? このままじゃもっと衰弱してしまう、手遅れになる前に……」
カチャリと言葉を遮りカップが置かれた。
「あの人は帰ってくるわ、引っ越しはダンテと相談して決めたいの、貴女からの施しで生活している私が言えた事じゃないけれど、この屋敷はあの人の家、あの人が帰ってくる場所はこの家しかない、妻である私がここで待っていなきゃいけない」
やつれた顔、艶の消えた髪の女、あの人と言葉にする時だけは瞳に小さな炎を灯す、ダンテはアマレットの中にまだ生きている、そのことは少しうれしい。
「そう、否定するつもりはないよ、それならディーノと旅行にでも行ってみるのはどう? 近場で少しの間療養するくらいならダンテだって怒りはしないよ」
「詳しいのね、あの人の事」 「!? そんな……」
「母さん!」
怒りを含んだディーノの声、いつの間にか扉の外にいたようだ。
「……」 その声にアマレットは立ち上がり背中を向けた、聞かせたくは無かった。
ダメ とディーノの口が次の言葉をつなぐ前に私は唇だけを動かして制する、察しの良い子だ、踏み出した足を返して扉が閉まる音が聞こえた。
「……」 いつからこんな空気になってしまったのだろう、三人の幸せな姿を見ていたかった。
「お願いがあるの……」 後姿の細い肩が震えていた。
「何でも言っておくれ」 人殺し以外なら叶える覚悟はある。
「ディーノが貴女に付いて行くって、貴女と一緒に父親を捜しに行くって言うの……連れてはいかないで」
「そんな歳なんだね……分かった、安心して、頼まれても説得する」
「ありがとう……」
「近いうちにまた旅に出るよ、今度こそ何か見つけて見せるから」
ビクリとアマレットの肩が揺れた。
「……もう……探さないで、もう十分よ……」
細い肩が更に細く閉じていく、後ろから支えてやるべき人が、ここにいない。
「……」 慰める言葉を探せなかった。
「ヴァレリー、貴女も自分の人生を生きて……もう、許して……」
「許すって何を?……まさかこの傷の事をまだっ!? …… 私はそんな! …… いえ、分かったわ、これで最後にする」
「約束して」
「ええ、約束するわ、アマレット」
アマレットの背中を見たままの紅茶はすっかり冷めて、いつもよりも苦かった。
シェーブルと一緒にディーノは待っていた。
―― 思いつめた顔は見たくない。
「ありがとうディーノ、悪かったね」
つとめて明るく口角を上げてみたが似合ってはいないだろう。
「ビビ姉さん、俺っ!」
―― 次の言葉は言わないで。
「駄目だよ、連れてはいけない、アマレットと約束した」
「っ!」
「許して、そして母さんを怨まないで、今は支える手が必要なんだ、ディーノ、あんたなら分かるだろ」
「でも……」 少年は何を言葉にすべきか考えている、飛び立つ準備を終えた翼は風を待っている。
―― でも……その風は私じゃない。
「マップメーカーも悪い仕事じゃない、やるなとは言わない、でも、もう少しだけ私を信じて待っておくれ、お前の父さんを必ず見つけてみせるから、話はそれからにしよう、今は母さんの、アマレットの傍に居てあげて」
「!」 少年の頬を涙が伝う。
「ビビ姉さん、あんまりだ……母さんにまであんな事言われて……誰なら姉さんを助けられる? 俺はっ」
堪らずその顔を胸に抱いて言葉を止めた。
―― 絶対に言わせちゃいけない。
「ディーノ、あんたは二人に似て優しく育ったね、そのまま無くさないで、必ず帰るから、その時には一杯付き合いなよ、うんと薄くしてあげるから、人生で最初の一杯を私に驕らせて、いいでしょ」
「姉さん……」
―― 君が姉さんと呼んでくれるだけで十分すぎる。
アマレットがディーノを生んだのは真夏の深夜、屋敷から飛び出してきたダンテは両拳を天にむけて突き上げた。
「見たか! 神様、俺の息子が産まれたぞ! 金髪で碧眼、角も生えてない! 魔人じゃない、正真正銘の人間だ! ありがとう、神様! ありがとう」
そのまま男泣きする姿を影から見ていた。
ダンテの選んだ相手がアマレットで良かった、アマレットがいてくれて良かった。
私は初めて神の存在を信じて感謝した。
―― そこに私の席はなくていい、あの頃をとり戻したい。
振り返るとディーノが燃やした枝の煙が風のない青空に昇っていく、混じりけのない心の様に純粋な白が優しい。
「いい酒を奢らなきゃ、神様、たまには私にも味方して……」
シェーブルの蹄が地を蹴る、冷たい風が濡れた金眼に心地よかった。




