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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第八話 空の書架



 左手の感覚が戻らない。

 肘から先が他人の腕のように重い。指を動かす命令を送っても、薬指と小指が微かに痙攣するだけだ。石の壁に背中を預けたまま、蝋燭の残り火を見つめていた。芯が短い。あと半刻も保たない。

 右手の指先には乾いた血が張りついている。爪の間に入り込んだ魔法陣の粉塵が、青白い光を帯びていた。


 足音が石段を降りてきた。一人分。革靴の底が石を踏む硬い音。


「——お目覚めですか」


 ゲオルクだった。革の水筒を差し出してくる。


「何時間、眠っていましたか」


「五時間です。日が昇りました。北壁の修繕が始まっています」


 水を受け取った。右手だけで蓋を開け、三口飲む。冷たい水が喉を通る感覚だけが、左手の指先よりもはっきりしていた。


「前任者の手記は」


 ゲオルクが一拍置いた。顎を引いてから答える。


「エルドマン長官が調べました。東棟三〇二号室——前任者の旧居室は、十年前の秋に退去処理が行われたとのことです」


「退去処理」


「遺品の返還と残置物の廃棄です。標準の手続きだと」


「遺族はいたのですか」


「記録上は、なし。引き取り手のない遺品は魔法省の書庫に移管された、と」


 壁から背を離した。立ち上がると左足が痺れていた。壁に右手をつきながら体重を移す。膝の裏が冷えている。石の床に五時間座っていた代償だった。


「書庫を見ます」


「先に医務官のところへ——」


「後で」


 ゲオルクは松明を壁から外し、石段の前に立った。先に行く、という動作だった。言葉より速い。



       *



 石段を上がるのに、来たときの三倍かかった。左手が使えないと壁を伝う腕が右手だけになる。足を一段上げるたびに、膝の裏の冷えが太腿まで上がってくる。


 廊下に出た。東棟の壁に黒い筋が走っていた。結界の焦げだった。透明な防護膜が崩壊する直前に構造物に刻み込んだ痕跡。石工が修繕のために足場を組み始めている。木槌の音が廊下に反響していた。


 魔法省の書庫は中庭側の一階にあった。窓のない部屋だった。

 天井まで届く木製の棚が八列。蝋燭立ての灯りの下で、革表紙の背が暗い色の壁のように並んでいる。紙の古びた匂いと、乾いた埃の匂い。


 案内したのはエルドマンの部下の若い文官で、フリッツと名乗った。丸眼鏡の奥の目が赤い。昨夜の戦闘の間、この文官も眠れずにいたのだろう。袖口にインクの染みが三つ。報告書を書いていた痕跡だった。


「前任宮廷魔導師の遺品の移管記録はこちらです」


 台帳を開いた。黄ばんだ紙に、細かい字が並んでいる。


 移管日付——十年前、秋。品目——書籍十二冊、手記三冊、個人書簡の束一つ、魔導器具四点。受領者署名——書庫管理官ヘルベルト・シュルツ。


「保管場所は」


 フリッツが棚の番号を確認し、奥の列へ向かった。七列目の上から二段目。木の札が掛かっている。「前任宮廷魔導師・遺品」。文字は褪せかけていた。


 棚は空だった。


 札だけが残っている。棚板の表面に埃が薄く積もっていたが、札の周囲——物が置かれていた部分には、長方形の跡が複数ある。本が並んでいた痕跡だった。大きさの違う四角が、七つ。


 右手の指を棚板に当てた。指先に埃が付く。


 薄い。


 十年放置された棚なら、埃は指の腹に感触が残るほど積もる。この棚の埃は、呼吸で飛ぶ程度の薄さだった。


「この棚に最後にアクセスした記録はいつですか」


 フリッツが台帳を繰る。出入り記録のページ。


「……記録上は、移管時の十年前が最終です」


「記録上は」


 フリッツの喉が動いた。


 棚板の奥を覗いた。壁との接合部に、擦り傷がある。直線的な傷。本を引き抜いたときにできる種類の痕だった。木の繊維が白い。酸化していない。


 数週間以内の傷だった。


「この書庫の鍵はどこに保管されていますか」


「魔法省長官室の金庫です。長官と書庫管理官のみがアクセスできます」


「現在の管理官は」


「マルクス・ヴェーバーです。前任のシュルツが三年前に退官して以降、引き継いでいます」


 棚板をもう一度見た。七つの長方形の痕。そのうち三つは他より一回り小さく、跡が浅い。革表紙の本と、綴じの甘い薄手の手記では、棚板に残す圧痕の深さが違う。


「三週間前に北の連合国の視察団が王城を訪れた際、この書庫は行程に含まれていましたか」


 フリッツの顔から血の気が引いた。丸眼鏡の奥の赤い目が、一瞬だけ大きくなる。


「……視察団の行程には、魔法省の施設見学が含まれていました。この書庫も対象です」


「案内は誰が」


「エルドマン長官自身です」


 視察団の行程表は、昨夜エルドマンが持参した書類の中にあった。地下構造見学に二時間。往復三十分で済む場所に、残りの一時間半。


 その一時間半で、この書庫に立ち寄れる。棚の位置を探し、手記三冊を鞄に入れるのに必要な時間は、五分もかからない。


 手記三冊。前任者が結界維持の十年間に書き残した全記録。術式の構造、楔の位置、魔力の注入手順。百年前の初代から引き継がれた知識の断片。


 それを読んだ者の術式には、手記に染みついた前任者の魔力が移る。昨夜、結界核の干渉痕から検出したのは、まさにその痕跡だった。


 持ち出した者と、破壊術式を仕込んだ者が同一人物かどうかは、まだ分からない。だが、書庫の鍵を開けられるのは長官か管理官のどちらかだ。視察団が中に入れたのは、その鍵が開いていたからだ。


「フリッツ」


「はい」


「長官は昨夜、私が干渉痕の分析をしている間、ずっと地下にいましたね」


「はい。報告書を持参されて——」


「報告書を持参した理由を、長官は何と言っていましたか」


 フリッツが口を開きかけ、閉じた。眼鏡の奥で目が泳ぐ。


「……ご自身で確認したいことがある、と」


 確認。何を確認しに来たのか。報告書を届けるだけなら、部下に任せれば済む。四十代の長官が、戦闘中の王城で、わざわざ地下三層まで降りてきた理由。


 エルドマンの太った体躯を思い出した。金糸の刺繍入りの上着。額に浮いた汗。私が干渉痕を調べている間、壁際に立って何度も首筋を拭っていた。


 暑かったのか。それとも。


「ゲオルク」


 背後で革靴の底が石を踏む音がした。


「エルドマン長官に確認したいことが二つあります。一つ。視察団の滞在中にこの書庫を開けたのは長官自身か、管理官に命じたのか。もう一つ。開けた際に、長官は終始立ち会っていたのか、席を外した時間があったのか」


「承知しました」


 ゲオルクの足音が遠ざかる。


 フリッツは棚の前で立ち尽くしていた。丸眼鏡を右手で押さえている。指先が白い。


 棚をもう一度見た。十二冊の本と三冊の手記が並んでいた場所。十年間、誰にも読まれず、誰にも必要とされず、棚の上で埃を被っていた記録。百二十通の報告書と同じだ。ただし報告書は、読まれずに済んだ。


 つまり、犯人は手記を開き、読み、破壊の手引きに変えた。


 書庫を出た。廊下の窓から朝の光が射し込んでいる。窓枠の下の石壁に、黒い焦げ跡が横一線に走っていた。修繕の石工が二人、壁を検分している。一人がノミで黒い部分を削り取ろうとして、首を振った。焦げは表面だけではない。石の中まで染みている。


 左手を見た。指先はまだ動かない。だが手首から先に、微かな痺れが戻り始めている。焼き切れたのではない。麻痺だ。時間が経てば動くようになる。


 確認すべきことが、もう一つ増えた。


 前任者の手記は持ち出された。三週間前に。結界は破壊された。三週間前に。書庫の鍵を持つのは二人。


 どちらが開けたのかは、まだ分からない。だが、どちらが開けたにせよ——この話は、やはり王国の内側で始まっていた。



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