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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第七話 署名と残響




 四時間が過ぎた。


 ルクスの指先から血が滲んでいた。魔力ではなく、物理的に。石の床に魔力の線を刻み続ける動作が、皮膚の表面を削っていた。右手の人差し指と中指の腹が、赤く、てかてかと光っている。


 外側の円は復元した。


 千七百六十四本の線、三十二箇所の接続点。すべてが位相を合わせ、淡い青白い光で脈動している。心臓が再び拍動し始めた、という方が近い。


「外の状況は」


 ゲオルクが壁際で姿勢を正した。三十分おきに地上から伝令が来ている。


「北壁のワイバーンは撤退しました。結界の防空機能が回復した影響だと思われます。ゴブリンの群れは——まだ城壁に取りついていますが、勢いが落ちています」


「中間の円が弱っている分、地上の防御は完全ではない。ゴブリン程度は弾けるが、オーガには効かないはずです」


「オーガは残り一体です。騎士団が北門の外で足止めしています」


 ルクスは膝の位置を変えた。四時間同じ姿勢で石の床に膝をつき続けた代償が、太腿の裏から腰にかけて鈍く響いている。


「では、本題に入ります」


 手を、中間の円の遅延術式に移した。


 薄い黒の変色。表面からは見えにくい、巧妙な仕込みだ。紋様の流れに沿って自然な劣化に見せかけている。ルクスの指先が変色の縁をなぞると、術式の構造が浮かび上がった。


 精緻だった。


 侵食の方向は中間の円の中心に向かっている。紋様の線を一本ずつ断ち、隣の線に負荷をかけ、連鎖的に崩壊させる設計だ。


 魔力の減衰曲線から逆算する。


「あと十日です」


「十日?」


「遅延術式がこのまま進行した場合、中間の円は十日で崩壊します。外側の円を直しても、地上の防御が消える。城壁だけで王都を守ることになる」


 ゲオルクの喉が動いた。


「ただし」ルクスは続けた。「術式の解除ができれば、中間の円は自然回復します。紋様そのものが破壊されたわけではない。侵食を止めれば、八百年分の蓄積が紋様を元に戻す」


「解除、できるのですか」


「できます。ただし——」


 指先を、遅延術式の中心に近づけた。黒い変色の最も濃い一点。ここが起点だ。


 触れた瞬間、指の腹に痺れが走った。


 冷たい。魔力の冷たさではない。意志の冷たさだ。この術式を仕組んだ者の、明確な殺意が、石の中に凍りついている。


「術式の核に(かぎ)がかかっています」


 ゲオルクが眉を寄せた。


「鍵?」


「解除するには、術式の設計者が使った魔力の署名(しょめい)が要る。鍵を持たずに無理にこじ開ければ、遅延術式が即座に発動して中間の円を破壊します」


「……罠ですか」


「罠です。修復者が来ることを想定している。修復できる人間が遅延術式に気づき、解除しようとする——その瞬間に起爆する設計だ」


 ルクスは手を引いた。血の滲んだ指先を、ローブの裾で拭った。白い布に赤い線が引かれた。


「設計者の署名を読み取れれば、鍵は外せます。魔力の署名は指紋のようなもので、六箇所の干渉痕に断片が残っている」


 石段を降りてくる足音が聞こえた。二人分だ。


---


 エルドマンが、書類の束を抱えて降りてきた。濡れた紙の匂いが先に届く。後ろに、若い文官が一人。


「名簿と行程表だ」


 エルドマンの手から書類を受け取った。紙の端が湿っている。急いで書庫から引き出してきたのだろう。


 名簿を開いた。


 北の連合国からの視察団。八名。残りの七名の中に、肩書きが二つ並んでいる人物がいた。


「この人物」


 指で名前を示した。


「ヘルマン・シュトラウス。肩書きが『外交顧問』と『魔導技術監査官』」


 エルドマンが覗き込んだ。


「……二つの肩書きを持つ者は珍しくない。兼任は——」


「外交顧問が、なぜ魔導技術の監査資格を持っているのですか」


 若い文官の喉が小さく鳴った。


「行程表を見せてください」


 若い文官が行程表を差し出した。ルクスの目が、三日目の欄に止まった。午後、地下構造の見学。所要時間——。


「二時間」


「長いですか」とゲオルクが聞いた。


「地下三層まで降りて戻るだけなら、三十分で済みます。残りの一時間半、この部屋にいた」


 名簿に目を戻した。シュトラウスの項目。年齢、四十二歳。出身、連合国東部カルシュタット。専門——空白。


「他の七名は全員、専門欄に記載がある。この男だけ空白です」


 エルドマンの太い指が名簿の上を泳いだ。確認している。一人ずつ。震えていた。


「書けなかったか、書く必要がなかったか。どちらにしても——この人物が、結界の設計を知っていた」


---


 ルクスは魔法陣の前に戻った。膝をつく。冷えた石が膝に貼りつき、焦げた魔力の匂いが鼻に残る。五時間目に入っていた。


「遅延術式の鍵を外す方法が一つあります」


 ゲオルクとエルドマンが、同時にルクスを見た。


「六箇所の干渉痕から署名の断片を集めて、再構成する。合計二時間半。その間、片手で侵食を凍結しながら、もう片方の手で署名を読み取ります」


「同時に、ですか」


「同時にです」


 ゲオルクが一歩前に出た。


「他に方法は——」


「ありません。結界の構造を理解している人間が、この場に私しかいない以上」


 ルクスは左手を遅延術式の核に置いた。冷たい痺れが手首まで昇ってくる。


「凍結を開始します」


 左手から魔力を流し込む。侵食の動きが鈍くなる。完全には止まらない。膨大な圧力で押さえつけているだけだ。


 右手を、最初の干渉痕に伸ばした。署名の断片に触れ、魔力の波長を読み取る。水面に映った文字を、揺れる波の間から拾い上げるような作業だ。左手の凍結と右手の読み取りが、脳の中で二本の旋律のようにぶつかり合う。


 一箇所目。十八分。二箇所目。三箇所目。


---


 五箇所目を読み終えたとき、左手の感覚が消えた。焦げたような匂いが鼻の奥に残り、唇の裏に鉄の味が滲む。


 痺れではない。感覚そのものが途切れた。長時間にわたる魔力の放出が、神経を灼き切り始めている。指が動いているかどうかを目で確認しなければ分からない。


「ルクスさん」


 ゲオルクの声が、遠くから聞こえた。


「あと一箇所です」


 右手を六箇所目に伸ばした。最後の干渉痕。ここだけ変色が深く、広い。最も力を込めた場所だ。


 触れた。


 署名の断片が、他の五つと異なっていた。


 波形が同じだ。同一人物の署名であることは間違いない。だが六箇所目には、もう一つ別の情報が刻まれている。署名の奥に、微かな残響のような——。


 その名を聞いた瞬間、ルクスの指先が紙の上で止まった。


 この残響を、知っている。


 十年前。着任初日に、前任者の手記を読んだ。あの黄ばんだ紙に、前任者の魔力の残滓が染み付いていた。手記を開くたびに、古い魔力の匂いが鼻を突いた。


 同じだ。


 六箇所目の干渉痕の奥に眠る残響は、前任者の魔力と同じ(しつ)を持っている。


 前任者は——死んでいる。十年前に病死した。流行り病で。


 だが、この残響が意味するところは。


 ——前任者の手記に触れ、頁を開いた人間が、ここにいた。


 紙に染み付いた魔力が術式の縁へ薄く移ったのだ。署名には出ない。だが残響として、こうして痕跡を残す。


「ルクスさん、大丈夫ですか。顔が——」


「大丈夫です」


 声が掠れた。喉の奥が渇いている。


 六つの波形を脳の中で重ね合わせる。左手の凍結が揺らぐ。感覚のない指で出力を制御する。


 署名が——完成した。


 右手を左手の上に重ね、署名を注入する。鍵が回った。音はない。だが魔法陣全体が一度震えた。


 黒い変色が、縁から薄れ始めた。紋様が自らの力で回復を始めている。


 ルクスは手を離した。


 両手が、石の床に落ちた。腕が体を裏切った。上体がぐらりと傾き、ゲオルクの腕が背中を受け止めた。


「——終わりました」


 声が遠い。他人の喉から出たような響きだった。


「中間の円は、三日で完全に回復します。外側の円は既に復元済みです。結界は——機能を取り戻します」


 ゲオルクの腕が強い。軍人の腕だ。ルクスの体重を片腕で支えている。


「水を」


 若い文官が走った。石段を駆け上がっていく足音。


 ルクスは床に座り込んだ。ゲオルクが背中を支えたまま、壁際に体を預けさせてくれた。石壁が冷たい。その冷たさで、指先の輪郭が戻ってくる。


「エルドマン長官」


 声が掠れている。喉に力を入れ直した。


「はい」


「前任の宮廷魔導師の遺品を探してください。特に手記です。黄ばんだ紙の、手書きの記録です」


「手記——」


「私が着任したとき、官舎の机にあった。退任時に引き継ぎ資料として置いてきた。あの手記が、今どこにあるか」


 エルドマンが頷いた。手記の重要性が伝わっていない目だ。


「長官。結界を破壊した人物は、前任者の手記を読んでいます」


 エルドマンの動きが止まった。


「手記には結界の弱点が書かれていた。どこが脆いか。どう力をかければ壊れるか。あれを読めば、六箇所の干渉点は特定できる」


「……あなたの退任後に、誰かが持ち出したと」


「確かめなければ分かりません。手記があるか、ないか。それだけ確認してください」


 文官が水の杯を持って戻ってきた。ルクスは受け取り、一口含んだ。冷たい水が喉を落ちていく。杯の水面が、両手の震えで波紋を立てていた。


「ゲオルク」


「はい」


「六時間の約束でしたが、五時間半で終わりました」


「充分です。充分すぎます」


「手順書の作成に入ります。三日と言いましたが——状況が変わりました」


 ゲオルクの腕が離れた。ルクスが自力で背を壁に預け直したのを見て。


「犯人の署名が取れました。魔力の署名は偽れない。手順書の提出後に王国を離れる条件は変えませんが——」


 ルクスは杯を床に置いた。水が跳ね、石の上に染みを作った。


「離れた先で、一つだけ確認します。前任者の死因です」


 地下の空気が、一度だけ動いた。松明の炎が揺れ、ルクスの影が壁の上で伸びた。


「流行り病で死んだ、と記録にはある。ですが——結界の弱点を知る手記が、誰かの手に渡っていた。前任者が死に、手記が残り、それを読んだ者が結界を破壊した」


 杯の中の水面が、まだ揺れていた。


「順序が逆かもしれない。手記を手に入れるために——前任者が殺された可能性がある」


 エルドマンの顔から血の気が引いた。唇が動いた。音にならず、ただ口の形だけが残った。


 ゲオルクだけが、静かに頷いた。戦場の匂いを知っている男の頷きだった。


「結界は三日で完全に回復します。手順書も三日で完成します。その間に——」


 ルクスは壁から背を離した。指先がじんじんと痛む。血が通い直している。


 石段の上から、声が降ってきた。伝令だ。


「ご報告します。オーガ二体を、騎士団が討伐しました。北壁の戦闘は終結しています」


 ゲオルクの肩の力が抜けた。


 ルクスは立ち上がろうとして、膝が折れた。ゲオルクの手がすぐに伸びてきた。


「手順書は明日から書きます。今日は——」


「休んでください」


「そうします」


 ゲオルクに肩を借りて、石段を一段ずつ登った。地下三層から地上まで、長い階段だ。一段ごとに、膝の裏が軋んだ。


 地上に出た。


 夕暮れだった。西の空が赤い。亀裂の線はまだ薄く残っているが、もう広がることはない。


 北壁の方角から、歓声が微かに聞こえた。遅れて、槍の柄を打ち鳴らす乾いた音も届く。


 風が吹いた。北からの風。春の匂いが混じっている。


 結界は直った。だが——結界を壊した者は、まだどこかにいる。


 ルクスはゲオルクの肩から手を離し、自分の足で立った。膝が一度だけ震えたが、倒れはしない。


「ゲオルク。去る前に——前任者の手記を見つけてください。あの手記が官舎に残っているなら、まだ間に合う」


 夕暮れの風が、灰色のローブの裾を揺らした。


「残っていないなら、この話は王国の内側で始まっていたことになります」




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