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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第六話 魔法陣の修復




 足音が近づいてくる。


 石段を一段ずつ、確実に踏む音。規則正しいが急いでいる。軍靴の底が石を叩く、乾いた反響。


 ゲオルクが腰の剣に手を置いた。


「——長官です」


 魔法省長官エルドマンが、松明の光を引き連れて最後の石段を降りてきた。息が上がっている。金糸の刺繍入りの上着の胸元が、大きく上下していた。地下三層まで自分の足で降りてきたらしい。太った体には酷な階段だ。


「アーレンハイト」


「はい」


「上で——」


 エルドマンが壁に手をついた。呼吸を整えている。ルクスは魔法陣の欠損部に手を当てたまま、待った。


「北壁で、ワイバーンが二体、突破を試みた。一体は射落としたが、もう一体が城壁を越えた。市街に着地して、倉庫街の一角を焼いた」


 ゲオルクの手が剣の柄を握り込んだ。


「被害は」


「倉庫三棟が全焼。住民は避難済みだが——ヴァレス騎士団の兵士が四名、火に巻かれた」


 被害の報告だけが石壁に残った。


 地下の空気が重くなった。石壁の向こうから、低い振動が伝わってくる。地上で何かが崩れた音だ。


 ルクスは指先の術式を維持したまま、口を開いた。


「あと何体いますか」


「北の森から確認できた数で、ワイバーンが残り一体。オーガが二体。ゴブリンの群れは百を超えていますが、騎士団が押し返しています」


「押し返せているうちに、終わらせます」


 エルドマンがルクスの手元を見た。魔法陣の欠損部の縁に、淡い青白い光が滲んでいる。


「……何をしているんだ、それは」


「結界核の魔法陣の復旧作業です」


「見れば分かる。だが——私が知る限り、魔法陣の修復は術者の魔力を消耗する。この規模の欠損を、一人で修復するのか」


 ルクスの指は止まらず、欠損部の縁に沿って線を引き続けた。


「長官、この魔法陣の設計は八百年前のものです。修復に必要なのは魔力の量ではなく、紋様(もんよう)の正確な再現です。欠けた部分の図面は私の頭の中にあります」


「報告書に書いたのか」


「七十八通目と、九十一通目に図面を添付しました」


 エルドマンの口が閉じた。


 ルクスは右手の人差し指を、欠損部の縁に沿って滑らせた。指先から漏れる魔力が、石の床に細い線を刻んでいく。糸を紡ぐような動作だ。線が曲がり、枝分かれし、また合流する。八百年前の設計図を、一筆書きで石に焼き付けていく。


 問題は速度だった。


 外側の円の三分の一。全長にして約十二メートル。一メートルあたりの紋様の線数が百四十七本。接続点が三十二箇所。各接続点には位相の整合が必要で、一箇所でもずれると全体が同期しない。


 十年間の夜間巡回で、私はこの魔法陣のすべての線を暗記した。指先で触れ、目で追い、記録に残した。三千六百五十日分の観察データが、今この瞬間のためにある。


 皮肉なものだ。誰の目にも留まらず過ぎた十年間が、いまこの作業の精度を支えている。


---


 二十分が経った。焦げた石の匂いが薄くなり、その代わり湿った土の冷たさが鼻に残る。


 外側の円のうち、約四メートル分の紋様が復元された。三分の一の三分の一。まだ八メートル残っている。


 指先の感覚が鈍り始めていた。魔力の消耗ではない。集中力だ。一本の線を引くたびに、位相の整合を確認し、隣接する線との干渉を計算する。その繰り返しが、脳の奥を灼いていく。


 ルクスは手を止めた。


 ゲオルクが一歩前に出た。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です。作業を中断したのは別の理由です」


 ルクスは膝をついたまま、復元した紋様の隣——まだ欠損が残っている区域に指を伸ばした。石の表面を撫でる。


「ゲオルク、ここを見てください」


 ゲオルクが横に膝をつく。エルドマンも、重い体を屈めて近づいた。


「石の変色です。外部からの干渉痕であることは先ほど伝えました。ですが——」


 ルクスは指先で、黒い変色の縁をなぞった。


「変色の方向に規則性があります」


「方向?」


「黒い部分をよく見てください。変色が濃い側と薄い側がある。濃い側が入口で、薄い側が出口です。つまり、力が流れた方向が分かる」


 ルクスは床に手のひらを押し当てた。魔力を薄く広げて、変色の分布を探る。


「六箇所です。黒い変色が、等間隔に六箇所。それぞれが外側の円に向かって力を注入した痕跡です」


「六箇所」とエルドマンが繰り返した。


「そして六箇所すべてが、同一の術式構造(じゅつしきこうぞう)で構成されています。同じ人間が、同じ道具を使って、計画的にやった」


 エルドマンはそこで言葉を失った。


 地下に風はない。松明の炎が真っ直ぐ立っている。その静けさの中に、エルドマンの呼吸だけが荒く響いた。


「……アーレンハイト。視察団は、この部屋に入ったのか」


「私に聞いてはいけません。私は追放されていました。当時の城内の動きを管理していたのは、あなたです」


 エルドマンの唇が引き結ばれた。顎の肉が震えている。


「……鍵は、私が預かっていた」


「地下三層への鍵ですか」


「そうだ。宮廷魔導師が不在となった後、魔法省が管理を引き継いだ。引き継いだと言っても、形式的なものだ。結界核が何であるかを正確に理解している者は、省内にはいなかった」


「鍵を誰かに渡しましたか」


 エルドマンが目を逸らした。


 松明の光が、長官の横顔を彫り深く照らしている。額の汗が一筋、顎を伝って落ちた。


「……視察の一環として、城の地下構造の見学を求められた。外交儀礼として、断れなかった」


「視察団を、この部屋に入れたんですね」


「私も同行した。だが——魔法陣の意味を、私自身が理解していなかった。彼らが何かをしたのかどうかも、分からなかった」


 ルクスは立ち上がった。膝についた石の粉を、手のひらで二度叩いた。


「長官。あなたの過失については、今は問いません。結界が復旧するまで、私には他にやることがあります」


「……すまない」


「謝罪は結界に効きません。一つ、お願いがあります」


「何だ」


「視察団の名簿と、当日の行程表を出してください。それから、視察団がこの部屋にいた時間。正確な分数で」


「分かった」


「もう一つ。報告書の七十八通目を探してください。魔法陣の完全な図面が添付してあります。復旧作業の照合に使います」


 エルドマンが頷いた。重い足取りで石段を登り始めた。三段目で一度振り返り、何か言おうとして、やめた。足音が遠ざかっていく。


---


 地下に二人が残った。


 ルクスは魔法陣の前に戻り、再び膝をついた。指先に魔力を灯す。


「ゲオルク」


「はい」


「この作業にはあと三時間かかります。外側の円が復元できれば、結界は部分的に機能を回復します。完全ではありませんが、ワイバーンの侵入は防げるようになる」


「それを聞いて、楽になりました」


「楽にならないでください。話がまだあります」


 ゲオルクが背筋を伸ばした。


「破壊の手口が分かりました。六箇所の干渉痕は、いずれも魔法陣の外側の円——結界の防空機能を担う区画に集中しています」


「防空?」


「結界には層があります。外側の円が空からの侵入を防ぐ。中間の円が地上の魔物を弾く。内側の円が地下からの浸食を抑える。破壊工作は外側の円だけを狙っていた」


「つまり——」


「空からの攻撃を可能にするための工作です。ワイバーンを通すためにやった。地上の魔物が押し寄せているのは、外側の円が壊れた余波で中間の円も連鎖的に弱まったからです。本命は空です」


 ゲオルクの目が細くなった。


「……ワイバーンが三体。通常、北の森にワイバーンは棲息していません」


「そうですか」


「オーガは稀にいます。ゴブリンは常にいる。ですが翼竜は、山岳地帯の生き物です。北の森に現れること自体が——」


「誰かが連れてきた」


 ルクスの声は平坦だった。石の床に線を引く手は止まらない。


「結界の防空機能を無効化し、本来いないはずのワイバーンを森に放つ。混乱に乗じて何かをするつもりだった。あるいは——」


 ルクスは言いかけて、口を閉じた。


 指先の線が、一本完成した。淡い光が走り、隣の線と接続する。位相が合った。微かな振動が床を伝わった。


「推測はここまでにします。視察団の名簿を見れば、もう少し絞れる」


「ルクスさん」


 ゲオルクが呼んだ。十年前と同じ呼び方だった。城壁の上で、夜の巡回中にすれ違ったときの。


「何ですか」


「あなたは、復旧したら本当に王国を離れるのですか」


 ルクスの手が一瞬止まった。


 一瞬だけだ。すぐに線を引く動作に戻った。


「約束しました」


「破壊工作の調査は」


「復旧と手順書の作成が私の契約です。調査は——」


 言葉が途切れた。


 指の腹に、ざらついた異物感が引っかかった。


 これまでの六箇所とは違う場所だ。魔法陣の中間の円——地上防御を担う区画の内側に、薄い黒が滲んでいる。復元作業中だからこそ指先が拾い上げた。表面の変色は極めて薄く、意図的に隠されている。


「……七箇所目」


 ゲオルクが息を飲んだ。


「外側の六箇所は陽動です。派手に壊して、注意をそちらに向ける。本命はここだ」


 ルクスは中間の円の変色部に指を置いた。薄い黒の下に、微細な術式の残滓が眠っている。指先の魔力で表層を剥がすように読み取る。


「これは即効性の破壊術式ではありません。遅延型です。時間をかけて中間の円を蝕んでいく。外側の円が修復されても、中間の円が内側から崩壊するように仕組まれている」


「……いつ発動するのですか」


「既に動いています」


 ルクスは立ち上がった。膝に石の粉がこびりついたまま、魔法陣に向き直った。


「外側の円の復旧を急ぎます。同時に中間の円の遅延術式を解除しなければならない。三時間では足りない。五時間。いや——」


 指先で変色の範囲を測った。中間の円の七分の一に薄い黒が広がっている。


「六時間です」


 ゲオルクが口を開いた。


「六時間持ちますか。城壁の外が」


「分かりません。ですが、この遅延術式を放置して外側だけ直しても意味がない。直した端から中間の円が崩れる。そうなれば地上の防御も永久に戻らない」


 地上から、また振動が伝わってきた。さっきより近い。壁の松明が揺れた。


 ルクスは魔法陣の中間の円に手を置き直した。遅延術式の構造を読み取る。精緻だ。紋様の流れに沿って自然な劣化に見せかける設計。百年前の記録を読んだ者でなければ書けない。


「相手は結界の設計を知っている」


 独り言だった。だがゲオルクが聞いていた。


「知っている、とは——」


「遅延術式の配置が、結界の弱点を正確に突いている。八百年前の設計書か、あるいは——」


 ルクスの脳裏に、一つの像が浮かんだ。前任者の手記。黄ばんだ紙に、細い文字で書かれた結界の構造。あの手記は、ルクスが着任したときに官舎の机の引き出しにあった。


 前任者の死後、あの手記を読んだのは自分だけだと思っていた。


 だが——確かめていない。


「ゲオルク。前任の宮廷魔導師が亡くなったのは十年前です。死因を知っていますか」


「……病死と聞いています。流行り病だったと」


「その遺品はどうなりましたか」


「分かりません。十年前は、私はまだ新兵でしたから」


「遺品の記録は軍務省にありますか。それとも魔法省か」


「おそらく魔法省でしょう」


 ルクスは魔法陣に向き直った。指先に光を灯し、遅延術式の解除に取りかかった。


 六時間。


 城壁の向こうでは兵士が戦い、倉庫街の煤がまだ空を黒く染めている。


 指先が線を引く。一本、また一本。


 報告書には書けないことが増えていく。




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