第五話 王都、廃墟の手前で
東街道が石畳に変わる手前で、馬が速度を落とした。
ルクスは手綱を引くより先に、鼻の奥で気づいた。
焦げた石の匂い。雨水と泥が混ざった、古い傷口のような臭気。
「……思ったより、早い」
唇が動いていた。声が漏れていた。隣を走るゲオルクが振り返った。
「何が、ですか」
「崩壊の進行だ。昨日の今日でここまで来ている」
石畳の継ぎ目が、所々で盛り上がっていた。地面の下から何かが押し出されたように、縁が欠け、中央が浮いている。結界の根が抜けた土地に起きる地盤の変動だ。ルクスは十年前に論文にまとめた。その論文も、報告書の束に紛れて埋もれたまま読まれていない。
王都の外壁が見えた。
外壁の上三分の一に、黒い筋が走っていた。縦に、斜めに、蜘蛛の巣のように。石が罅割れているのではなく、結界の力線が焼き切れた痕跡だ。透明なはずの防護膜が崩れるとき、それは魔力の焦げとして構造物に刻まれる。風が変わった。焦げた魔力は甘い匂いがする。腐った蜂蜜に似ている。
「報告書の九十三通目に書いた」
ルクスは呟いた。
「読まれていませんでしたね」とゲオルクが言った。
「読まれていませんでした」
それだけで、二人の会話は終わった。馬が城門をくぐった。アーチの下を抜ける瞬間、頭上から砂が落ちてきた。石の継ぎ目が緩んでいる。ルクスは首筋に触れ、指先の砂を払った。
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広場が、静まっていた。
人の気配はある。だが皆、固まっていた。荷車の陰に、柱の裏に、店の戸板の隙間に。子供の泣き声が一つ聞こえて、すぐに大人の手で塞がれた。石畳の中央に、直径二メートルほどの窪みがあった。昨夜の崩落だとゲオルクが言った。魔物ではなく、純粋に地盤が抜けた。結界の補強を失った地面は、雨が降るたびに沈む。
ルクスは窪みの縁に一度だけ目を向けてから、視線を城へ移した。
謁見の間まで、足が勝手に進んだ。十年通った道だ。廊下の石壁に染みついた蝋燭の煤の匂いが、鼻の奥を突いた。
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扉が開いた瞬間、部屋の中の音が止まった。
謁見の間には七人いた。国王アルベルト三世、宰相フォーゲル、魔法省長官エルドマン、それから顔のよく分からない貴族が四人。香木の煙が薄く漂い、窓の光が埃を浮かせている。全員がルクスを見た。
ルクスは一秒、入り口で止まった。
扉の縁の金具が冷たい。それだけを手のひらで確かめてから、前に進んだ。
「……戻ってきたか、アーレンハイト」
国王が言った。老いた声だが、芯がある。
「戻りました」
「礼を言う」
「必要ありません」
返答より先に、宰相フォーゲルの眉が持ち上がった。白髪交じりの眉毛が、額の皺に埋もれた。
「……随分と、態度が変わったな」
「辞表を受理されました。私は現在、民間人です。礼儀の基準が変わりました」
「しかし今ここにいる」
「条件付きで協力を受諾したためです。条件の確認を先に行いたい」
フォーゲルが国王を見た。国王が小さく頷いた。
「条件を聞こう」
ルクスは懐から折りたたんだ紙を出した。馬上で書いた。走りながら書いたので、字がわずかに揺れている。それでいい。
「結界の完全復旧後、私は辞任します。辞任は既に受理済みなので、正確には協力終了です」
紙を広げた。インクが馬の揺れに合わせて歪んでいる。
「復旧作業は私単独で行います。魔法省の人間が立ち会うのは構いませんが、指示には従わないでください。邪魔になります」
ルクスは一拍置いた。
「復旧完了後の三日間で、後任のための手順書を作成します。それを魔法省に引き渡した時点で、全ての契約が終了します」
「……それだけか?」
エルドマン長官が言った。四十代、太った体躯、金糸の刺繍が入った上着。着任した頃から変わらない体躯だ、とルクスは思った。
「報酬は要らないのか」
「必要ありません」
「なぜだ」
「王国が存続すれば、私が生活する地域の経済が安定します。十分です」
エルドマンが口を開こうとした。ルクスは続けた。
「長官、私の報告書は読みましたか」
部屋の空気が変わった。
「……それは」
「百二十通、十年分です。毎月最低一通、多い月は四通提出しました。結界の劣化速度、修復に必要な魔力量の推計、後任育成に必要な期間の試算。全部書いてあります。今日起きていることは、七年前の報告書に書いた通りの経緯で発生しています」
窓の布が一度だけ揺れ、返事の代わりに衣擦れだけが謁見の間を通った。
窓の外で、風が吹いた。
カーテンが一度だけ動いて、止まった。
「……我々は」とフォーゲルが言いかけた。
「答えは結構です」ルクスは言った。「条件に同意していただければ、今すぐ作業を始めます。同意いただけない場合は、来た道を戻ります。どちらですか」
フォーゲルが国王を見た。国王が目を閉じた。三秒。
「……同意する」
「確認しました。では結界核の場所へ案内を」
「知っているだろう」
「知っています。確認のために言いました」
ルクスは一礼した。礼の角度が、かつて仕えた頃より浅い。七人の視線がそれを捉え、動きを止めた。フォーゲルの唇が一瞬引き結ばれた。国王は椅子の肘掛けに指を置いたまま、視線を窓に逸らした。
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結界核は城の地下三層にある。湿った石の冷気が喉に張りつく深さだ。
正確には、核を格納した魔法陣の上に城が建っている。設計の順序はそちらが先だ。八百年前の話だ。
石段を降りながら、ルクスは右手の人差し指を立てた。指の先端に、魔力を薄く纏わせる。温度ではなく、密度で測る。地下に近づくほど、魔力の濃度が薄くなっていく。抜けている。毛細血管から血が滲み出るように、結界を構成していた力が漏れ出している。
最後の石段を降りた。空気が変わった。湿った石と、古い魔力の残滓。舌の奥に金属の味が広がる。
扉があった。
鉄製の、分厚い扉。ルクスは十年間、この扉の前に立つたびに、同じことを考えた。これは守るためにあるのか。それとも、誰かが中に入れないようにするためにあるのか。
扉を押した。
軋んだ音がして、開いた。
中の光景を見た瞬間、ルクスは足を止めた。
一歩。それだけ止まって、部屋の中に入った。
魔法陣が、欠けていた。
正八角形を基本とする、三重の同心円構造。中心から外に向かって、光の線が走るはずだ。だが今、外側の円の三分の一が消えていた。光の線が途切れ、そこだけ石の床が剥き出しになっている。
欠損は、想定内だった。
想定外は、欠損の形状だった。
ルクスは膝をついた。欠損部分の縁に指を触れた。石が、黒く変色している。焦げではない。これは外部からの干渉痕だ。内側から崩れたのではなく、何かが外から力を加えた。
十年間、自然劣化として報告してきた。
だがこの傷は、自然なものではない。
後ろからゲオルクの足音が聞こえた。ルクスは立ち上がり、向き直った。
「ゲオルク」
「はい」
「結界が崩れ始めたのは、いつからですか。正確な日付で」
「……三週間前の、夜中です。夜番の兵士が気づいた」
「その日に、城内で何かありましたか」
ゲオルクが黙った。
一秒。
二秒。
「……視察団が来ていました。北の連合国から」
ルクスは手の中の欠損部の石片を見た。黒く変色した断面。外部からの干渉。北の連合国。
これは崩壊ではない。
破壊だ。
「ゲオルク、復旧作業を始めます。ただし、それは表向きです」
「……どういう意味ですか」
「手順書の提出後、私は王国を離れます。その前に、一つだけ確認しなければならないことができました」
外の廊下で、足音がした。誰かが石段を降りてくる。
ルクスは魔法陣に向き直り、最初の術式を指先に乗せた。光が、欠損の縁から滲み始めた。
これが、報告書の百二十一通目だ。
今度は、書かない。




