第四話 百二十通の報告書
二枚目のパンを食べ終えた頃、馬蹄の音が聞こえた。
東街道の方角。二頭。速い。
窓の外に目をやった。埃を巻き上げながら二頭の馬が宿の前で止まる。王国騎士の軍服だ。片方は若く、もう片方は四十過ぎの年嵩に見える。
予想より半日早かった。
食器を重ねて卓の端に寄せた。宿の主人が厨房から顔を出す。
「お客かね。朝からよく来るなぁ」
「——私への客です」
宿の扉が開いた。
年嵩の騎士が先に入ってきた。汗と馬と、革の匂い。一晩中走ったのだろう、目の下に隈があった。
視線がこちらに来て、止まった。
「ルクス・アーレンハイト殿か」
「そうです」
年嵩の騎士の肩から力が抜けた。見つけた、という安堵だ。若い方は入口に立ったまま、宿の中を見回している。逃げ道を確認しているのか、あるいは単に初めて入る辺境の宿に戸惑っているのか。
「王都から参りました。ヴァレス騎士団第三中隊、ゲオルク・ハルトマンです」
「存じております。中庭の訓練で何度かお見かけした」
騎士の眉が動いた。覚えているとは思っていない、という顔だ。
私は覚えている。この男は、結界の楔を点検するために夜の城壁を歩いているとき、一度だけ声をかけてきた人物だ。「こんな時間に何をしている」と。「仕事だ」と答えた。それで終わった。
ゲオルクが椅子を引いた。許可を求める目をこちらに向けたので、手で促した。若い方も席についた。
宿の主人が水の杯を二つ持ってきた。
「——用件は分かっています」
先に言った。
「結界が崩壊した。王都が危険にさらされている。戻ってほしい、と」
ゲオルクの手が杯に伸びかけて、止まった。
「……ご存知でしたか」
「煙が見えますから」
窓の外を指した。西の空に、黒い筋が朝より太くなっている。立ち昇る速度が上がっている。火災ではない。魔物の炎だ。ワイバーンの息だろう。
ゲオルクは窓を見た。顎の筋肉が動いた。
「……それを見て、なお、ここにいらしたのか」
声に非難は混じっていない。ただ確認するような口調だ。
「パンを食べていました」
「——」
「十年ぶりの朝食です。急ぐ理由がありませんでした」
若い騎士の顔が強張った。何か言いかけて、ゲオルクに目で制された。
ゲオルクは水を一口飲んだ。杯を置く。置くときの手の動きが丁寧だった。この男は軍人だが、礼節を知っている。
「率直に申し上げます。王都の結界は完全に消失しました。北の城壁にオーガが到達しています。騎士団が食い止めていますが、長くは持ちません。陛下は——」
そこで口を閉じた。杯の水面が揺れている。
「陛下は、ルクス殿の帰還を請うております」
請う。命令ではなく。
「追放令は」
「撤回の準備が進んでいます。陛下が直接——」
「撤回の準備、ですか」
声が平坦に出た。自分でも驚くほどだった。十年前と同じだ。感情が抜け落ちると、声はこうなる。
「準備ではなく、撤回されたのですか」
ゲオルクは目を伏せた。
「——まだです。正式な手続きには大臣会議の決議が必要で」
「そうですか」
窓の外の煙が、また濃くなっている。
大臣会議。十二人の大臣が半円形の部屋に座り、宰相が議題を読み上げ、印章が押される。あの部屋で私の十年は終わった。同じ部屋で、私の帰還が決まるという。
「報告書を百二十通出しました」
ゲオルクが顔を上げた。
「結界の劣化に関する報告です。毎月一通。十年間。一通も読まれませんでした」
若い騎士の手が止まった。ゲオルクは——ゲオルクは、知っていたような顔をした。
「三年前に緊急報告書を提出しました。宰相の机の上で、文鎮の下敷きになっていました」
声は平坦のままだった。
「追放された翌朝に結界が崩壊して、初めて私の仕事に気づいた。それは理解できます。見えないものは評価されない。それが宮廷の論理です」
パンの皿に、バターの欠片が残っていた。指で拾い、口に入れた。塩気が舌の上で溶ける。
「しかし、見えなかったのではない。見ようとしなかったのです」
ゲオルクの手が、膝の上で握られていた。
「——仰る通りです」
「あなたに言っているのではありません。あの部屋にいた十二人と、一人の王に」
沈黙が落ちた。宿の主人が厨房で鍋を洗う音だけが聞こえた。
若い騎士が、耐えきれなくなったように口を開いた。
「でも——今、人が死んでるんです。城壁の兵士が怪我をしてる。街の人たちが怯えてる。それは——」
「知っています」
遮った。声が硬くなったのが、自分でも分かった。
「門番のベルトラムは元気ですか」
若い騎士が面食らった顔をした。
「ベルトラム……東門の?」
「毎晩、私が楔の点検に出るとき、門を開けてくれた人です」
「——無事です。東門は、まだ攻撃を受けていません」
「そうですか」
椅子の背にもたれた。天井を見上げた。
木造の天井に染みがあった。雨漏りの跡だろう。宮廷の大理石の天井とは違う。飾り気がない。しかし雨漏りの跡には、この宿が何十年もここに在ったという時間が刻まれていた。
ベルトラムの顔が浮かんだ。市場の果物売りの老婆の顔が浮かんだ。中庭で訓練する若い衛兵の顔が浮かんだ。
結界は、彼らのために維持していた。王のためではない。宰相のためでもない。
あの城壁の中で暮らす、名前のある人々のために。
椅子を引いた。立ち上がる。
「条件があります」
ゲオルクが背筋を伸ばした。
「結界を復旧したら、私は再び辞します。宮廷には戻りません」
「しかし——」
「復旧後の維持は後任を育ててください。私が結界術の全てを文書にします。三日あれば、別の魔導師でも維持できる手順書を作れます」
ゲオルクの目が見開かれた。
「そんなことが——可能なのですか」
「可能です。私が十年かけてやっていたのは、手順書がなかったからです。初代の宮廷魔導師は記録を残さなかった。だから毎夜、試行錯誤しながら楔に魔力を注いでいた」
それが百二十通の報告書の本質だった。毎月の試行錯誤の記録だ。読んでいれば——読んでいれば、後任を育てる時間はあった。
「条件は以上です」
ゲオルクは椅子から立ち上がり、頭を下げた。深く。
「——謹んで、お受けします」
「あなたが受ける必要はありません。陛下と宰相が受けるのです」
「は——」
「馬はありますか。もう一頭」
「宿場に一頭預けてあります」
「借ります」
部屋に戻り、荷物をまとめた。灰色のローブ。旅嚢。それだけだ。十年間の荷物が、この程度だった。
階下に降りると、宿の主人が心配そうな顔で立っていた。
「もう行くのかい。朝食、美味かったかね」
「とても」
代金を払った。宿の主人は受け取りながら、窓の外の煙を見た。
「あの煙——大丈夫かね」
「大丈夫にします」
外に出た。馬が三頭、並んでいた。鼻先から白い息が短くこぼれ、鐙が触れ合うたび乾いた金属音がした。
ルクスは馬に跨がった。十年ぶりの乗馬だ。鞍の硬さが内腿に食い込み、体が覚えている動きと、忘れかけていた感覚が混ざった。
西を向いた。煙が空に太い柱を立てている。風向きのせいで、焦げた匂いがここまで薄く流れてきた。
「——出ましょう」
三頭の馬が、東街道を西へ駆け始めた。
来た道を戻る。追放された道を、逆に辿る。
馬の背で揺れるたび、宿の薄い寝具に残っていた体温が遠ざかっていく。
頬に当たる風はまだ冷たい。だが、王都から流れてくる焦げ臭さだけは、さっきよりはっきりしていた。
手綱の革が、指の内側でぎしりと鳴る。
鞍は冷たい。
ルクスは手綱を握りながら、一つだけ考えていた。
報告書を。今度こそ——読ませる。




