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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第三話 辺境の朝食









 玉座の間は、緊急の空気に満ちていた。磨き上げた大理石の床が底冷えし、開ききらない窓から雨前の湿気が入り込んでいる。


 国王アルベルト三世は、玉座に深く腰掛けたまま、宰相の報告を聞いていた。


 五十二歳。即位して十五年。善政と呼べるほどの名君ではないが、暗君でもない。凡庸な、しかし安定した治世を築いてきた王だ。


 ——その安定が、魔導師一人の夜業に支えられていたことを、王は知らない。


 「結界というのは、確かなのか」


 王の声は低かった。怒りを含んでいるが、それ以上に困惑が滲んでいる。


 「百年前の記録と一致しております」フォーゲルが答えた。声が僅かに揺れている。「結界の弱体化時に、同様の現象が発生したと——」


 「あの魔導師が維持していた、と」


 「おそらくは」


 「おそらく?」


 王の声が鋭くなった。


 「昨日の会議で、お前は言ったな。十年間何の成果もない、と。余もそれを認め、印章を押した」


 フォーゲルの頭が下がった。


 「——申し訳ございません」


 「謝罪はいい」


 王が立ち上がった。窓の外を見る。空の亀裂が、玉座の間の窓からもはっきり見えた。紫色の光が差し込んで、大理石の床に奇妙な影を落としている。


 遠くから、また咆哮が聞こえた。近づいている。


 「あの男を連れ戻せ」


 王が言った。


 フォーゲルは顔を上げた。


 「陛下——」


 「聞こえなかったか。あの男を連れ戻せと言っている」


 「しかし、昨日追放したばかりの者を——」


 「追放したのは余の判断だ。判断が誤りだったなら正す。それだけのことだ」


 王の声は明瞭だった。しかし、握りしめた手の甲に血管が浮いている。


 「どの方角へ向かったか分かるか」


 フォーゲルは首を振りかけて、止まった。


 「……城門の記録を確認します。門番に聞けば——」


 「すぐにやれ。騎士を送れ。早馬で追え」


 王は窓辺に立ったまま動かない。北の空を見つめている。


 フォーゲルが退出しようとしたとき、王が呟いた。


 「——十年か」


 宰相は足を止めた。


 「十年間、毎夜。あの男は、一人で」


 王の声は小さい。フォーゲルの方を向いていない。


 「誰にも知られず、誰にも評価されず。それでも十年」


 窓の向こうで、亀裂がまた一本増えた。乾いた破裂音が、玉座の間に届いた。


 「——なぜ、言わなかった。なぜ、誰にも」


 フォーゲルは何か言いかけ、唇だけを閉じた。


 言っていた。報告書を、百二十通。


 未読のまま机に積んだのは、こちらの方だ。


 喉が焼けた。それでも、その言葉は押し込んだ。今はまだ言えない。


 「全力で探します」


 それだけ言って、フォーゲルは玉座の間を出た。


---


 王都は混乱の中にあった。閉め遅れた市場から獣脂と香辛料の匂いが流れ、怒号が石畳で跳ね返っている。


 空の亀裂は拡大を続け、午後の半ばには王都の上空全体を覆うように広がった。


 日差しが紫の幕に遮られ、街には異様な薄闇が降りている。


 市場は閉まった。商人たちは荷物を抱えて逃げ出そうとし、城門が閉鎖されていることを知って怒号を上げた。子供が泣き、犬が吠え、馬が暴れた。


 北の城壁では、最初の戦闘が始まっていた。


 ゴブリンの先遣隊が城壁に取りついた。数は三十ほど。通常なら城壁に近づくことすらできない——結界が防いでいたからだ。


 弓兵が矢を射る。ゴブリンの何体かが落ちる。しかし、後続が来る。森の中から、途切れなく。


 城壁の上で、若い衛兵が震える手で弓を構えていた。


 「何で……何で急にこんな……」


 隣のベテラン兵が歯を食いしばりながら答える。


 「結界が消えたんだ。今まで近づけなかった魔物が、一斉に押し寄せてきている」


 「結界って——そんなものがあったんですか」


 「あった。あったんだよ。俺らが知らなかっただけで」


 矢が放たれる。ゴブリンが一体、城壁の途中で力を失って落下する。


 その向こうに、森を出てくる影が見えた。ゴブリンより大きい。遥かに大きい。


 オーガだ。


 三体。体高は城壁の半分ほどある。手に持つ棍棒で木をへし折りながら、のしのしと近づいてくる。


 「オーガだ! 弓兵、集中射撃!」


 ハイゼンベルクの怒号が飛ぶ。


 矢が集中する。オーガの厚い皮膚に突き刺さるが、足を止めない。


 一体が城壁に近づき、棍棒を振り上げた。石組みに叩きつけられる。衝撃で城壁が揺れ、兵士の一人が足を滑らせて落ちかけた。


 「騎士団、出撃!」


 北門が開き、騎士たちが飛び出す。馬蹄が地面を叩く。槍が陽光を——いや、紫色の薄明かりを反射する。


 戦いが始まった。


 結界が守っていた平和の、その終わりの始まりだった。


 城壁の上から、ベルトラム老門番は戦闘を見ていた。


 彼の持ち場は東門だ。北門の戦闘には加わっていない。しかし、城壁の上からすべてが見えた。


 ゴブリンの群れ。オーガの巨体。そして、空を旋回するワイバーンの影。


 ベルトラムは槍を握りしめた。


 あの男のことを思った。


 毎夜、東門を出ていく灰色のローブ。戻ってくるのは明け方で、足取りが重く、目の下に隈を作っていた。それでも翌日も、また翌日も、出ていった。


 「何をしてるんです?」と聞いたことがある。着任して間もない頃だった。


 「仕事だ」とだけ答えた。


 十年間、いつも同じ答えだった。仕事だ。それだけ言って、また夜の闇に消えていく。


 ベルトラムは昨夜の別れを思い出した。


 あの男の目を覚えている。


 怒りでも悲しみでもない。ただ、底に疲労が沈んでいた。


 十年分だ。


 「ルクスさん……」


 東の空を見た。あの男が去った方角だ。風に混じった土の匂いが、まだ昼の熱を残している。


 頼むから、早く見つけてくれ。あの馬鹿どもより先に。


---


 騎士が二名、早馬で東街道を駆けていた。馬の汗が鼻を刺し、轡の金具が甲高く鳴る。


 宰相の命令で、追放された宮廷魔導師を追うためだ。


 「本当に一人で結界を維持していたのか?」


 若い騎士が、馬を並走させながら聞いた。


 「知らん」年嵩の騎士が答える。「だが、あの男が出ていった翌朝に結界が崩れ始めたのは事実だ」


 「……何で追放したんだ、そんな重要人物を」


 「知っていたら追放などせんだろう。知らなかったから追放した。そういうことだ」


 年嵩の騎士は苦い顔をした。


 「問題は——見つけたとして、戻ってくれるかだ」


 「命令すれば——」


 「追放した相手に命令はできん。頼むしかない」


 追放した人間を追いかけて、頼む。昨日追い出した相手に、今日助けてくれと頭を下げる。


 年嵩の騎士は馬の速度を上げた。みっともない話だ。しかし、王都の上空に広がるあの亀裂を見た後では、体面など言っていられない。


 東街道を走る。


 街道沿いの村を過ぎ、橋を渡り、丘を越える。


 日が傾き始めていた。


---


 辺境の宿は、街道沿いの小さな石造りの建物だった。軒から落ちた雨水が土を叩き、湿った干し草の匂いが漂っている。


 看板の文字は半分消えかけている。「旅人の燈」と読めるような、読めないような。


 ルクス・アーレンハイトは二階の部屋で、ベッドに横たわっていた。


 久しぶりに——十年ぶりに、夜通し眠った。


 深夜の巡回がない。楔に魔力を注がなくていい。四時間の儀式に備えて体力を温存しなくていい。


 ただ、眠る。


 それだけのことが、こんなにも贅沢だったのかと、布団の中で思った。


 体が軽い。比喩ではない。


 十年間、毎夜の魔力放出で体に蓄積していた疲労が、一晩眠っただけで薄れている。指先の青白い線は消えないが、拳を握ると関節がすんなり動いた。


 朝日が窓から差し込んでいる。東向きの窓だ。温かい光。


 起き上がり、着替えて階下に降りた。


 宿の食堂は小さかった。テーブルが四つ。客は他にいない。宿の主人が厨房で何か焼いている匂いがする。卵と、パンと、燻製肉の匂い。


 「朝食、お願いします」


 「はいよ。すぐ出すから座ってて」


 主人は太った中年の男で、愛想がいい。宮廷の人間とは違う。客を客として扱う。それだけのことが、妙に心地よかった。


 窓際の席に座った。


 窓の外は、辺境らしい長閑な風景だ。牧草地が広がり、羊が数頭歩いている。遠くに山並みが霞んでいる。空は青い。この辺りには、まだ亀裂は見えない。


 朝食が運ばれてきた。厚切りのパンと、目玉焼きと、燻製肉。それにバターの塊と、りんごの薄切り。


 素朴な食事だった。宮廷の食事よりも美味そうに見えた。


 パンを手に取り、ナイフでバターを削った。


 塗っている途中で、ふと窓の外を見た。


 西の方角——王都がある方角に、黒い煙が細く昇っていた。


 ここから王都まで、馬で丸一日の距離がある。それでも見える煙だ。相当な量の火災か——あるいは。


 あるいは、魔物の群れが城壁に到達したか。


 空の亀裂は、ここからは見えない。しかし、あの煙が意味するところは分かる。


 結界が消失した。楔に魔力が注がれなくなって——予想より早い。


 私がいた頃、楔の劣化は進んでいた。報告書に何度も書いた。蓄えられた魔力の残量が年々低下していると。


 三日持つと思っていた。


 二日だったか。あるいは——もっと早かったか。


 パンの上のバターが、体温でわずかに柔らかくなっている。均一に塗り広げた。端まで丁寧に。


 向こうから誰かが来るだろう。


 一日か、二日のうちに。騎士か、使者か、あるいは宰相自身か。


 「戻ってくれ」と言うだろう。「王都を救ってくれ」と。


 十年間、報告書を無視し、存在を軽んじ、最後には追放した。その相手に頭を下げに来る。


 どうするかは——まだ決めていない。


 怒りは、ある。ないと言えば嘘になる。


 しかし、王都には罪のない人々がいる。市場の露店の主人。走り回る子供たち。門番のベルトラム。


 彼らには、何の罪もない。


 パンにかぶりついた。バターの塩気と、小麦の甘さが口に広がった。


 美味い。


 十年間、宮廷で食べたどの食事よりも。


 もう一口、噛み締めた。ゆっくりと。急ぐ理由がない。十年ぶりに、朝食を味わって食べている。


 窓の外の黒い煙が、一段、濃くなっている。


 ルクスはパンを置き、バターナイフを取った。


 二枚目のパンに、バターを塗った。


 「——始まったか」


 宿の主人は厨房で皿を洗っている。羊は牧草地で草を食み、空は青い。


 西の煙だけが、世界が変わり始めたことを告げていた。


 ルクスはパンにバターを塗り続けた。


 端まで。丁寧に。









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