第二話 空に走る亀裂
——場面は、宮廷に戻る。
ルクス・アーレンハイトが城門を出た、その翌朝のことだ。
宰相フォーゲルは、いつものように早朝の執務室で書類を捌いていた。窓硝子には夜の冷えが残り、乾いた紙と古いインクの匂いが執務室に沈んでいる。紙端が指先に乾いて鳴った。
今日の最初の案件は、新しい宮廷画家の選定だ。先代が引退してから三ヶ月、王妃が催促してきている。
昨日の会議は滞りなく終わった。魔導師の解任は最初の議題で、五分で片付いた。残りの二時間で、税制改革と港湾整備の予算を議論した。そちらの方がよほど重要だった。
——あの魔導師は、何をしていたのだろう。
ふと思ったが、すぐに忘れた。考えるまでもない。十年間、目に見える成果を一つも出していない男だ。魔物退治もしない。新しい魔法の開発もしない。宮廷行事で魔法を披露することもない。
隣国ヴェルハイムの宮廷魔導師は、先月の国際会議で見事な幻術を披露したと聞いている。炎の竜を空に描いたそうだ。それに比べて、うちの魔導師は——
幻術は拍手を取る。式典ではそれで充分だ。だがフォーゲルが信じるのは、予算書に書ける数字の列だ。城壁を一夜も欠けさせず守った、などという曖昧な功績に、彼の書類棚は場所を用意しない。
まあ、終わったことだ。
ペンを走らせていると、執務室の扉が叩かれた。
「入れ」
軍務大臣のハイゼンベルクが入ってきた。朝が早い男だ。軍人出身で、夜明け前から起きている。
「宰相閣下、一つ報告が」
「何だ」
「今朝の哨戒で、城壁の北側に妙な現象が確認されました」
「妙な現象?」
「空に——何と言いますか、薄い線のようなものが見えると。衛兵が二名、同じ報告を上げています」
フォーゲルは眉を寄せた。
「線?」
「はい。大気が裂けたような——ひび割れのような、と申しておりまして」
「天候の異常だろう。気象官に確認させろ」
「はっ」
ハイゼンベルクが退出した。
フォーゲルは書類に視線を戻した。空のひび割れなど、光の加減か、雲の形か、何かの見間違いだろう。
宮廷画家の候補リストに目を戻した。
一人目、フォルカー・ブラント。肖像画の名手。ただし遅筆。
二人目、エルゼ・ミュラー。風景画に定評あり。ただし性格が——
扉が叩かれた。今度は強く。
「入れ」
ハイゼンベルクが、再び入ってきた。
顔色が違っていた。
「——閣下。北壁の上空に、亀裂が広がっています」
---
フォーゲルが城壁の上に立ったとき、最初に感じたのは風だった。
北から吹く風が、妙に冷たい。三月の半ばだ。もう春の風が吹いていい時期なのに、肌を刺すような冷気が北から流れてくる。
そして、空を見上げた。
——息が、止まった。
北の空に、亀裂があった。
透明な硝子に走るひびのような——空そのものが割れたような線が、王都の上空を横切っている。最初は一本だった。ハイゼンベルクの報告から一時間も経っていないのに、三本に増えていた。
亀裂の向こうは、色が違っていた。空の青とは異質な、淀んだ紫色が覗いている。
「何だ、あれは」
フォーゲルの声が掠れた。
隣に立つハイゼンベルクが、険しい顔で答えた。
「分かりません。ただ——」
ハイゼンベルクは城壁の下を指差した。
地面が震えていた。
足裏に伝わる微かな振動。石畳の隙間から、砂埃が跳ねている。
「城壁の各所で、同じ振動が報告されています。特に北側と東側が強い」
「原因は」
「不明です。ただ、古い記録に——」
ハイゼンベルクが言い淀んだ。
「言え」
「百年前の資料に、似た記述がありました。結界が弱まったとき、空に亀裂が生じたと」
結界。
その言葉を聞いて、フォーゲルの脳裏に、ちらりと何かが過ぎった。
昨日追放した男の顔が——いや、顔は覚えていない。末席に座っていた、地味な灰色のローブの後ろ姿。それだけだ。
「結界とは何だ」
「王都を守る防衛機構です。建国期に——」
「そんなものがあるのか」
「記録上は。ただ、ここ数十年、誰もその存在を確認していません。目に見えないものですから」
フォーゲルは空の亀裂を見上げた。
亀裂の縁が、じわじわと広がっている。硝子のひびが伸びるように、ゆっくりと、しかし確実に。
「——魔導師を呼べ」
「宮廷魔導師は昨日——」
ハイゼンベルクが口を閉じた。
二人の目が合った。
フォーゲルの喉が動いた。嚥下の音。
「……あの男が、やっていたのか」
ハイゼンベルクは沈黙した。答えを持っていない。
頭上で、四本目の亀裂が走った。乾いた音がした。空気が裂ける音——ではない。もっと低い、地の底から響くような音だった。城壁の石が共鳴して、足元がぶるりと揺れた。
城下町から、悲鳴が上がり始めた。
---
午後になって、事態は加速した。冷えた石粉の匂いが鼻に刺さり、舌にざらつきが残る。
空の亀裂は十数本に増え、王都の上空を蜘蛛の巣のように覆い始めた。亀裂の向こうに見える紫色の空間が広がり、太陽の光が遮られて、王都は薄暮のような暗さに沈んだ。
昼のはずなのに部屋の隅が見えにくくなり、文官が燭台へ再び火を入れた。揺れる火が壁の書類棚を不規則に舐めた。
その明かりは場違いなほど強く、机上の決裁書の白だけを刺すように浮かび上がらせた。
振動は断続的に続いている。
机の上のインク瓶が小さく跳ね、そのたび黒い雫が決裁書の端へ散った。窓枠の金具が細かく鳴る。廊下では文官が走り、階段のどこかで誰かが転んだ短い悲鳴がした。
城壁の石組みに罅が入り始めた。
そして——音が聞こえてきた。
北の森の方角から。
避難を告げる鐘が三度鳴り、四度目は鈍い軋みだけを返した。鐘楼の番人が逃げたのか、鐘楼そのものが揺れたのか、フォーゲルにも判別できない。
最初は風の音だと思った。しかし風ではない。遠くの、無数の何かが蠢く音だ。木々を薙ぎ倒す音。枝を折る音。そして、咆哮。
咆哮は壁に反射して遅れて胸に届いた。獣の声というより、湿った土を押し分ける地鳴りに近い。
一つではない。十ではない。
百か、それ以上の咆哮が重なって、低い唸りのような音になっている。
「北の森から——魔物です」
伝令が走ってきた。息を切らし、顔面が蒼白だった。
「哨戒部隊からの報告。魔物の群れが、北の森を抜けて王都に向かっています。数は——数えきれないと」
ハイゼンベルクの顔が強張った。
「種類は」
「ゴブリンの群れ、オーガが複数、それから——」
伝令が唾を飲んだ。
「上位種のワイバーンが、少なくとも三体」
ハイゼンベルクが振り返り、フォーゲルを見た。宰相の顔から血の気が引いている。
ワイバーン。翼竜の一種。城壁など飛び越える。通常、王都近辺には現れない。結界が——結界が、防いでいたというのか。
「全軍、防衛態勢を取れ」ハイゼンベルクが叫んだ。「城門を閉鎖。弓兵を城壁に配置。騎士団は北門前に展開」
兵士たちが走り出す。甲冑の音が城壁の上を駆け抜けていく。
フォーゲルの足が石に縫い付けられている。
石の手すりに手をついて、北の空を見ている。森の上に、黒い影が舞い上がるのが見えた。ワイバーンだ。翼を広げ、旋回している。
十年間——あの地味な男が、これを防いでいたのか。
報告書。月に一度、提出されていた報告書。あれの中に、書いてあったのか。結界のこと。楔のこと。毎夜の巡回のこと。
一度も、読んでいない。
一度も。
「——宰相閣下」
ハイゼンベルクの声が遠くから聞こえた。
「王に報告を。それと——あの魔導師を、探さなければなりません」
フォーゲルは頷いた。足が震えている。怒りか、恐怖か、区別がつかない。




