第一話 六つの楔
乾いた椅子の軋みと蝋の匂いが、会議室の静けさを薄く濁していた。
「十年だ。十年間、お前は何をしていた」
宰相フォーゲルの声が会議室に響く。磨かれた石床の冷えが靴裏から脛へ這い上がり、机上の燭台から溶けた蝋の匂いが甘く残っていた。十二人の大臣が私を見ている。
何をしていたか。結界の維持だ。毎晩、王都を囲む六つの楔に魔力を注いでいた。誰も見ていない場所で、誰にも気づかれないように。
「成果が見えない者に、宮廷の席は与えられない」
解任状が滑るように差し出された。羊皮紙の上に、王の印章。
蝋の赤が、血の色に似ていると思った。
蝋の縁はまだ柔らかく、指で押し潰したばかりの形を保っていた。
会議室は半円形の石造りで、天窓から差す午後の光が大臣たちの顔を照らしている。私の席は末席だった。
宮廷魔導師の席は、十年前もここだった。十年経っても変わらない。席順というのは、序列そのものだ。
「ルクス・アーレンハイト」
宰相が私の名を呼ぶ。フルネームを呼ばれるのは、着任の日以来かもしれない。
「反論はあるか」
反論。
私は六つの楔のことを言おうとした。王都の地下深く、建国期に打ち込まれた六本の魔導柱。あれが結界の要だ。百年前に初代宮廷魔導師が設計した防衛機構。魔力を注ぎ続けなければ、結界は三日で消える。
大臣たちの目を見た。
財務大臣は欠伸を噛み殺していた。軍務大臣は窓の外を見ていた。農務大臣は書類を捲っていた。
——言っても、無駄だ。
私は今そう判断したのではない。十年間で、学んだのだ。
結界の報告書は毎月提出していた。百二十通。すべて未読のまま書庫に積まれている。
三年前、結界の劣化を警告する緊急報告書を出した。宰相の机の上で、ペーパーウェイトの下敷きになっているのを見た時から…
「——ありません」
声が平坦に出た。自分でも驚くほど。
十年間の仕事が、一枚の羊皮紙で終わる。その軽さに、怒りよりも先に感心した。手続きというのは、こんなに簡素にできるものなのか。
「では、本日付で宮廷魔導師の任を解く。退出を」
宰相がそう言い、大臣たちは既に次の議題に目を移していた。
私は椅子から立ち上がった。ローブの裾が石の床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
扉に手をかけたとき、背後から声がした。
「ああ、それと」
宰相の声。事務的な追加事項を伝える声。
「官舎は明日までに明け渡すように。荷物は——まあ、大した量でもないだろう」
大臣たちの間から、小さな笑いが漏れた。
私は扉を開けた。背中に視線を感じながら、そのまま廊下へ出た。
廊下に出ると、西日が石壁を橙色に染めていた。影が長い。自分の影が、廊下の突き当たりまで伸びている。
足が止まった。
十年だ。
十年間、私はこの城で暮らした。毎夜、六つの楔を巡回した。
北の楔は王城の地下。東は市場の井戸の底。南は大聖堂の墓地。西は港の灯台の基部。あと二つは、城壁の内部に埋め込まれている。
六つすべてに魔力を注ぐのに、四時間かかる。深夜に始めて、明け方に終わる。それを三千六百五十日、繰り返した。
一日も欠かさず、続けた。
熱が出た夜も。嵐の夜も。あの大飢饉の年、城中が混乱していた夜も。
指先を見た。魔力の通り道が、うっすらと青白い線になって浮いている。職業病のようなものだ。治らない。
息を吐いた。長く、深く。
それから歩き出した。
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官舎は城の東棟、三階の隅部屋だった。
窓は一つ。北向きで、日が差さない。湿気が壁に染みを作っていて、毎年冬になると黒い斑点が広がった。
荷物は本当に少ない。宰相の言葉が正しかったことが、少し悔しい。
鞄一つに収まった。着替えが二着。魔導書が三冊。あとは筆記具と、母の形見の懐中時計。
十年分の人生が、革鞄一つ。
結界の維持記録だけは、分厚いファイルになっていた。三千六百五十日分の巡回記録。楔ごとの魔力残量、結界の状態、異常の有無。几帳面に書き続けた記録だ。
これをどうするか。
持っていくべきか。置いていくべきか。
手が止まる。机の上に置いた。引き継ぎ資料として。
——引き継ぎなど、あるはずがないのだが。
後任の宮廷魔導師が任命されるとは思えない。そもそも、結界の存在を知っている者が宮廷にいない。私が着任したとき、前任者は既に亡い。引き継ぎは前任者の遺した手記のみ。
あの黄ばんだ手記だけが、楔の存在を伝えている。
猶予は、もう三夜しかない。
今夜の注入が途切れれば、明日の夜には楔の輝きが鈍り始める。三日目の朝、王都を包む膜は音もなく剥がれる。
王都を守っていた不可視の壁が消える。
その先に何が起こるかは、歴史書に書いてある。百年前、二代目の宮廷魔導師が病に倒れたとき、結界が一時的に弱まった。そのときですら、魔物の小群が城壁に取りつき、衛兵七人が死んだ。
完全消失は——記録にない。建国以来、一度も起きていない。
私は記録ファイルの上に、短い手紙を置いた。
『後任の方へ。六つの楔の位置と、魔力注入の手順を記録してあります。結界の維持には毎夜の巡回が必要です。くれぐれも、一日も欠かさぬように。——ルクス・アーレンハイト』
誰も読まないだろう。百二十通の報告書と同じように。
それでも書いた。
鞄を手に取り、部屋を出た。振り返らず、扉を閉めた。二度目はない。
城門を出るとき、門番が声をかけてきた。
「おう、ルクスさん。今日は遅い外出ですな」
老門番のベルトラム。十年間、毎夜の巡回で顔を合わせてきた男だ。
「——出ていくんだ、ベルトラム」
「出ていく? どちらへ?」
「追放された。宮廷魔導師を解任だ」
ベルトラムの顔が固まった。開いた口が閉じ、また開く。
「何を……冗談でしょう?」
「解任状に王の印章があった」
「あんたが追放? あんたがいなくなったら——」
ベルトラムは言いかけて、口を閉じた。この老門番は知っている。私が毎夜、城を出て何をしていたか。楔の詳細までは知らないだろうが、私が王都のために何かをしていたことは、理解している。
「結界のことは——」
「上には言った。報告書も出したが読まれなかった」
ベルトラムの手が、槍の柄を握りしめた。節くれだった指が白くなるほどに。
「……引き止めは、しませんよ」
低い声だった。怒りを押し込めた声。
「引き止められても困る」
「分かってます。あんたは十年、やれることをやった。その上で追い出されたんだ。引き止める権利なんざ、ここにはない」
ベルトラムが門を開けた。蝶番が軋む音がした。
「どこへ行くんです」
「東。辺境のほうへ」
「……達者で」
「ああ」
城門を抜けた。夕暮れの王都が広がっている。
市場はもう店じまいの時間で、荷車を引く商人たちが通りを行き交っている。
子供が走り回り、犬が吠える。パン屋から焼きたての匂いが漂ってくる。
平和な、王都の夕方だ。
この平和を守ってきたのが結界だということを、誰も知らない。
知らないままでいい。そう思ってやってきた。
今もそう思っている——かどうかは、自分でもよく分からない。
東門まで歩いた。途中、馴染みの露店で干し肉と堅パンを買った。旅の食糧だ。露店の主人は「珍しいね、こんな時間に」と首を傾げた。
東門の衛兵は、見覚えのない若い男だ。通行証を見せると、事務的に門を開けてくれた。
王都を出た。
振り返ると、夕日を背にした王城のシルエットが見えた。尖塔が何本も天を突いている。あの城の地下に、北の楔がある。今夜から、誰も魔力を注がない楔が。
足元の石畳が、城壁の向こうで土の道に変わった。
前を向いた。
歩いた。




