第九話 二つ目の鍵
左手の薬指が動いた。
ほんの数ミリ。曲げようとして、関節が軋み、爪の先が掌をかすめた。痛みがある。痛みがあるということは、神経が繋がっているということだ。
窓の外では石工が壁を削っている。ノミの音が一定の間隔で廊下に響いていた。北壁の焦げ跡は表面だけでは済まず、石の芯まで食い込んでいる。修繕には、壁ごと積み替えるしかない。
右手で手順書の紙を押さえた。三枚目の途中。結界核の維持手順を、後任者が読めば再現できるように文字に落としている。
足音。
石段を上がってくる音。ゲオルクの歩調だ。速い。だが走ってはいない。走れば城内の人間が振り返る。この男は、急ぎの報告ほど歩調を崩さない。
扉が開いた。ゲオルクの肩に朝露がついていた。外を歩いてきたのだろう。エルドマンの執務室は東棟の離れだ。中庭を横切る必要がある。
「確認が取れました」
「座ってください」
ゲオルクは椅子を引かず、壁に背を預けた。立ったまま報告する姿勢だった。
「まず一つ目。視察団の滞在中に書庫を開けたのは、エルドマン長官自身です。管理官ヴェーバーには命じていない」
「長官自身が鍵を持ち出して開けた」
「はい。視察の案内に組み込んだのも長官の判断だと」
「二つ目は」
ゲオルクの視線が、一瞬だけ窓に逸れた。ノミの音が三回続いた。
「長官は、書庫の中に終始立ち会ってはいません」
ルクスの右手がペンを置いた。
「途中で席を外した、と」
「長官の説明は、こうです。視察団が書庫の棚を見学している間に、別の来客——財務省からの急使が来た。長官は書庫を離れて応対し、戻ったのは二十分後。その間、視察団は書庫の中に残っていた」
「鍵は」
「長官が持ったまま離れています。書庫の扉は開いた状態で、閉じていません」
ルクスは左手を膝の上で握った。薬指が掌に触れた。昨日より深く届いている。
「二十分」
「はい」
「書庫は無人だった。二十分間」
「視察団の八名がいました。無人ではありません」
「監視する人間がいなかった、という意味です」
ゲオルクが頷いた。
二十分。棚の位置を確認し、手記三冊を抜き取り、鞄に入れるのに必要な時間は五分もかからない。残りの十五分で、棚の並びを元に戻し、痕跡を消す時間まである。
だが——。
「ゲオルク。もう一つ、長官は何か言っていましたか」
「はい。ここからが——込み入っています」
ゲオルクが壁から背を離した。腰の剣が鞘ごと揺れた。
「長官が書庫に戻ったとき、視察団は全員揃っていた。八名。数を確認したそうです。ただ、長官が気になったのは、棚の前にいた人間の位置が変わっていたことです」
「位置が変わっていた」
「離れたときは、全員が入り口近くの一列目から三列目にいた。戻ったとき、一人だけが七列目にいた」
七列目。前任者の遺品が保管されていた棚だ。
「その一人の名前を、長官は覚えていますか」
「覚えています」
ゲオルクの声が、半音低くなった。
「ヘルマン・シュトラウスです」
名を聞いた瞬間、ルクスの指先が紙の上で止まった。
シュトラウス。名簿で目を引いた名前だ。外交顧問と魔導技術監査官の肩書きを二つ持ち、専門欄だけが空白の男。
*
ルクスは手順書の紙束を脇にどけ、空いた机の上にフリッツから借りた台帳を広げた。
名簿のページを開く。シュトラウスの項目。年齢四十二歳、出身はカルシュタット。
「この男の入国記録は確認できますか」
「城門の通行記録は軍務省が管理しています。三週間前のものなら残っているはずです」
「確認してください。入城と出城の正確な時刻。それから、この男が宿泊した場所」
ゲオルクが手帳に書き留める。鉛筆の先が紙を引っ掻く音。
「もう一つ」ルクスは台帳のページを繰った。「視察団の帰国後に、連合国側との公式なやり取りはありましたか。外交書簡でも、商取引の記録でも」
「確認します。外務省の記録になりますが——」
「エルドマン長官から、外務省への照会として出してもらえますか。私の名前は出さないでください」
ゲオルクの眉が微かに動いた。
「長官は協力的でしたか」
「……はい。ただ——」
「ただ?」
「長官は、最後にこう言いました。『アーレンハイトに伝えてくれ。書庫の管理官ヴェーバーが、数日前から出仕していない』と」
ルクスの呼吸が止まった。一拍。肺の中の空気が冷えるまでの間。
「出仕していない」
「昨日の朝から姿が見えないと。自宅にも人を遣わせたが、留守だったそうです」
左手の中指が痙攣した。意図しない動きだ。回復の途中で、神経が勝手に信号を送っている。
書庫の鍵にアクセスできるのは二人。長官と管理官。エルドマンは自分の行動を話した。ではもう一人——ヴェーバーはどうだ。
視察団がいない日に、ヴェーバーが書庫を開けた可能性。シュトラウスが手記を持ち出した可能性。その二つは、別々の出来事かもしれない。あるいは——繋がっているかもしれない。
「ヴェーバーの経歴を調べてもらえますか。魔法省の人事記録に残っているはずです。出身地、前任地、着任時期。それから——」
ルクスは台帳を閉じた。
「前任の書庫管理官シュルツとの引き継ぎ記録。シュルツが退官する際に、ヴェーバーは書庫の全棚を確認したのか。遺品の棚を含めて」
「それは——三年前の記録です」
「魔法省の内部文書に残っているはずです。引き継ぎ時の棚卸し台帳があるなら、そこに前任者の遺品の項目があるか確認してください」
ゲオルクが手帳を閉じた。書き留めた項目は四つ。シュトラウスの入城記録。視察団帰国後のやり取り。ヴェーバーの経歴。引き継ぎ時の棚卸し記録。
「すべて半日あれば」
「急いでください。ヴェーバーが出仕していないのが、偶然ならいい。偶然でないなら——」
ルクスは窓を見た。石工のノミの音が止まっていた。石工が壁の断面を覗き込んでいる。焦げが石の奥まで浸透している箇所を見つけたのだろう。ノミでは届かない深さだ。
「この話には層がある」
独り言だった。だがゲオルクが聞いていた。
「結界を壊した人間がいる。その人間は前任者の手記を読んでいた。手記は書庫から持ち出された。書庫の鍵を持つのは二人。視察団が書庫に入った。監視の空白が二十分あった。七列目にいた男の専門欄が空白で——」
ルクスは左手を持ち上げた。薬指を曲げた。今度は、関節が途中まで折れた。痛みが手首まで走った。
「そして、鍵を持つもう一人が、数日前から消えている」
ゲオルクの手が剣の柄に触れた。無意識の動作だろう。戦場の匂いを嗅いだ兵士の反射だ。
「ルクスさん。これは——破壊工作の話だけではないのでは」
「どういう意味ですか」
「視察団が結界を壊したなら、目的は軍事的なものです。王都の防御を崩して、攻撃を仕掛ける。ワイバーンの件もそうだ。だが——管理官が消えた。内部の人間が絡んでいるなら、話が変わります」
「変わりますね」
「外からの攻撃ではなく、内部に協力者がいたということになります」
ルクスはペンを取り直した。手順書の三枚目に向き合う。
「ゲオルク。手順書は予定通り三日で完成させます。契約は守ります」
「しかし——」
「調査は別です。手順書を書きながら、もう一本の線を追います。ヴェーバーの線を」
ゲオルクが扉に向かった。靴音が石の床を叩く。扉に手をかけたところで、振り返った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「前任の宮廷魔導師が亡くなったのは、本当に病だと思いますか」
ルクスの右手が、手順書の三行目で止まった。インクの雫がペン先に膨らんでいる。紙に落ちる前に、ペンを持ち上げた。
「前任者が死んだのは十年前の秋です。流行り病の記録は確かにある。同じ時期に、城下の南区で二十三人が亡くなっています」
「では——」
「ただし、前任者の遺品は官舎と書庫に分かれていた。手記は三冊あり、一冊が官舎の机に、残り二冊は書庫に移管されていた。私が着任したとき、渡されたのは官舎の一冊だけだった。遺族がいない。引き取り手がいない。だから書庫の分は誰も触らなかった」
窓の外で、石工がノミを置いた。別の工具——鉄の鑿を取り出している。石の深部に食い込んだ焦げを抉り出すために。
「病死した人間の遺品を、十年放置する。それ自体は異常ではない。宮廷では珍しくもない。ですが——」
ルクスはペンを紙に戻した。インクが一画目を引く。
「手記の内容を知っていた人間がいるなら、十年間放置された理由にも意味が出てきます。すぐに持ち出さなかったのか、すぐには必要がなかったのか。三週間前に必要になったのか——あるいは三週間前にようやく、持ち出す手段を得たのか」
ゲオルクの喉が動いた。嚥下の音。
「管理官ヴェーバーは三年前に着任しています」
ゲオルクが手帳を開き、親指で古い任用記録の頁を押さえた。
「ええ。前任のシュルツが退官した後に」
「三年前に着任して——三週間前に手記が消えた」
「三年の間に、何が起きたか。それを調べてください」
ゲオルクが扉を開けた。中庭の光が差し込んだ。冷たい朝の空気が、室内の蝋燭の煙を揺らした。
足音が遠ざかった。
ルクスは左手を机の上に置いた。五本の指を、順番に曲げてみた。
親指——動く。人差し指——動く。中指——途中まで。薬指——途中まで。小指——動かない。
昨日より二本、多い。
ペンを左手に持ち替えた。握れる。ただし筆圧が足りない。紙の上にインクの薄い線が引かれた。
右手に持ち替えて、手順書の続きを書いた。
手記は、ルクスの頭の中にある。十年前に読んだ内容を、すべて記憶している。だが手記そのものは、退任時に官舎の机に置いてきた。引き継ぎ資料として。
エルドマンは「書庫に移管された」と言った。書庫の棚は空だった。ヴェーバーは消えた。
ルクスが十年かけて蓄積した知識を、三日で紙に移す作業。報告書は百二十通、宰相府の紙束の中に埋もれた。この手順書は、読まれるだろうか。
ペンを置いた。窓の外で、石工が鑿を振り下ろした。石の破片が飛んだ。焦げの芯が露出した——黒ではなく、紫色の変色。結界の魔力が石に焼きついた痕跡だ。
石工がその色を見て、手を引いた。見たことのない色だったのだろう。
ルクスには見覚えがあった。
六箇所目の干渉痕の奥にあった残響と、同じ色だ。前任者の魔力が、物質に染みついたときに残す色。
壁の焦げにまで、前任者の痕跡が出ている。
ルクスは椅子から立ち上がった。窓に近づき、石工の手元を見下ろした。
紫色の変色は、石の断面に筋のように走っていた。縦に三本。等間隔ではない。力の流れに沿った、不規則な線。
結界が崩壊したときに刻まれた傷ではない。これはもっと古い。十年以上前の痕跡だ。
前任者が生きていた頃に、この壁に前任者の魔力が通った。それは結界の正常な動作だ。異常ではない。
だが——。
ルクスは窓枠に右手をついた。左手の指を、もう一度握った。四本が掌に触れた。小指だけが、まだ宙に浮いている。
前任者の魔力の質を、ルクスは知っている。手記を読んだから。干渉痕から読み取ったから。
壁に染みついた紫色と、干渉痕の残響。同じ質の魔力だ。
だが、濃度が違う。
壁の紫は薄い。十年以上の歳月で拡散した、古い残滓。干渉痕の残響は——濃い。手記を読んだ人間の術式に移った、二次的な痕跡でありながら、壁の直接痕跡より鮮明だった。
手記を読んだ人間は、前任者の手記だけでなく——前任者の魔力そのものを、大量に取り込んでいる。
手記に染みついた量では、ああはならない。
ルクスは窓から離れた。
机に戻り、手順書の紙を裏返して、白い面にペンを走らせた。
前任者の死因。病死。十年前の秋。南区で二十三人が死んだ流行り病。
前任者の魔力。手記に残滓。干渉痕に残響。壁に直接痕跡。
干渉痕の残響の濃度——手記経由では説明できない濃さ。
ペンが止まった。
前任者の魔力を、手記以外の経路で取り込む方法が、一つだけある。
前任者の体に、直接触れることだ。
魔導師の体には、生涯をかけて扱った魔力が蓄積している。死後も、しばらくは残る。遺体に触れた者の術式に、その魔力が転写される。手記の残滓より遥かに濃い。
ルクスはペンを置いた。
紙の上に、三つの単語が並んでいた。
死因。遺体。接触。
石工の鑿が、また壁を打った。紫色の石片が中庭に落ちた。朝の光の中で、それは一瞬だけ輝いて、地面の泥に沈んだ。




