第二十六話 繰り返す歴史
インクが乾ききっていない紙の匂いが、執務室に薄く残っていた。
フリッツからの照会結果が届いたのは、外務省への依頼から半日も経たない朝だった。二通の封書。一通は新使節団四名の名簿、もう一通は十年前の学術交流使節団の名簿。ルクスは執務机の上に二通を並べ、封蝋を親指の爪で割った。
新使節団の名簿を先に開いた。四名の名前、所属、肩書。魔導技術交流の促進を目的とする外交使節。代表の名前はヨハン・グリューネヴァルト、肩書は「北方連合国外務省・文化交流局次長」。
残り三名の名前に、カール・ブレンナーはない。
(名前を変えても、手口の系統は変わらない)
予想通りだった。十年前の工作員が同じ名前で再び来るほど、相手は杜撰ではない。名簿の照合は、名前の一致を探すためにやるのではない。
ルクスは二通目の封書を開いた。十年前の学術交流使節団。団員三名。筆頭の名前——カール・ブレンナー。所属:北方連合国中央学術院。肩書:魔導技術研究主任。
ルクスはペンを取り、手帳にブレンナーの所属を書き写した。中央学術院。
机の端に、別の手帳が開いてある。東の楔の調査記録だ。あの時ルクスが書き留めた第二の署名——結界に触れた「読む」側の署名の特徴。均速走行型。走査方向は時計回り。魔力の揺らぎに一定の間隔がある、訓練された手の痕跡。
この技法を教える機関は三つ。王立魔導院、南部魔導学舎、そして北の連合国の中央魔導院。
中央学術院と中央魔導院は別の組織だ。だが、シュトラウスの経歴を調べた時に確認している。保全局は中央魔導院の出身者を多く抱えている。学術院の肩書は、魔導院出身者が外交活動を行う際の偽装に使われる可能性がある。
可能性ではなく、ルクスはその先を確かめる必要があった。
---
靴音が廊下の石を叩いた。間隔が広い。急いでいないが、迷いもない歩幅。
ゲオルクだった。
執務室の扉を叩く音は二回。ルクスが応じる前に、扉が開いた。ゲオルクは入室してすぐ壁際に立ち、外套の水気を手で払った。朝露だろう。外から来たばかりだ。
「名簿の照合が届いたと聞きました」
「今、開いたところです」
ルクスは卓上の二通を示した。ゲオルクは壁から離れず、手帳を胸元から出した。
「ブレンナーの名前は新使節団にありません。ですが、十年前の名簿にはある」
「所属は」
「中央学術院。魔導技術研究主任です」
ゲオルクのペンが手帳の上で止まった。書き留めるのではなく、書く前に整理している。軍人の癖だった。情報を受け取ってから、並べる場所を決める。
「シュトラウスの所属は保全局です。学術院とは別の系統のはずですが」
「表の看板は別でも、出身校が重なります」
ルクスは調査記録の手帳を引き寄せ、東の楔で採取した署名の頁を開いた。
「東の楔で見つけた第二の署名——結界の情報を読み取った痕跡です。均速走行型。この技法は三校でしか教えない。そのうちの一校が、北の連合国の中央魔導院です」
「中央学術院ではなく、中央魔導院」
「ブレンナーの名簿上の所属は学術院です。ですが、保全局が工作員の外向けの肩書を学術院名義にすることは、シュトラウスの前例で確認しています。シュトラウスは外交顧問兼魔導技術監査官でしたが、本来の所属は保全局だった」
ゲオルクのペンが動いた。手帳に短く何かを書き込み、線を引いた。
「つまり——ブレンナーも保全局の人間だと」
「断定はまだできません。ですが、署名の技法は人を偽れない。十年前の第二の署名と、中央魔導院で教える均速走行型は同じ系統です。そしてブレンナーはディートリヒの死の三ヶ月前に三回面会し、結界の情報を直接聞き出せる立場にいた」
ルクスは手帳の頁を繰った。時系列を並べ直す。
三十年前、ディートリヒが着任。二十年間、結界を一人で維持。十五年目に追放の危機。結界の可視化で切り抜けた。
だがその四年後——ブレンナーが来た。学術交流の名目で。三回の面会。結界の構造について何を話したのか、記録には残っていない。面会の承認印はケスラーが押している。ケスラーに悪意があったかどうかは分からない。学術交流の面会を承認すること自体は、長官の通常業務だ。
そしてブレンナーが去り、三ヶ月後にディートリヒは死んだ。魔力を抽出されて。
ルクスは黙って手帳を閉じた。
---
ルクスは椅子の背に手を置いた。立ったまま話すのはゲオルクの癖だが、今はルクスも立っている方が合っていた。
「ゲオルク。ブレンナーはシュトラウスの前任です」
ゲオルクの顎がわずかに引かれた。否定でも肯定でもなく、事実を受け止める前の間だった。
「前任。保全局の」
「保全局がこの王国の結界を狙い始めたのは、十年前ではない。少なくとも、ディートリヒの在任中——おそらくは彼が結界を可視化して追放を免れた後、結界の存在が外部に確認された時点から、工作は始まっていた可能性がある」
「十年以上」
「ブレンナーが結界の情報を持ち帰り、ディートリヒの魔力を抽出して殺害した。十年後にシュトラウスが後任として来た。ブレンナーが持ち帰った情報をもとに、結界の構造に手を加え、最終的に破壊した。保全局は一度の工作で終わらせるつもりはなかった。世代を跨いで、担い手が変わっても、工作を継続している」
ゲオルクの外套から水滴が一つ、石床に落ちた。音は小さかったが、執務室の静けさの中で際立った。
「組織的な作戦です」
「はい」
ルクスの右手がペンを机に置いた。ペン軸が木の表面を転がり、インク壺の縁に当たって止まった。
「そして、この工作が成功した理由は、保全局の手口が巧妙だったからだけではありません」
ゲオルクが顔を上げた。手帳を持つ手がわずかに下がった。
「宮廷の体質です」
ルクスの声は平坦だった。怒りを抑えているのではなく、怒りでは足りない場所にいた。
「ディートリヒは二十年間、結界を維持した。報告書を書いたかどうかは分かりません。ですが台帳の備考欄は、二十年間ほぼ空白でした。誰も彼の仕事を記録しなかった。十五年目に追放を検討され、結界を可視化して見せた。大臣たちは一度は納得した。そして忘れた」
左手の指が、卓の角を押さえていた。五本の指が均等に木に触れている。回復したばかりの小指が、他の四本と同じ力で天板を押し返していた。
「見えない仕事を軽んじ、担い手を孤立させた。外から結界を狙う人間にとって、これ以上の隙はない。宮廷魔導師が何をしているか、誰も知らない。面会記録は片手で数えるほどしかない。工作員が近づいても、誰も気づかない。結界が壊れるまで、何も起きていないように見える」
「——それが、十年間あなたにも起きた」
ゲオルクの声は低く、事実を確認する口調だった。だがその一言は、ルクスの十年を二つの手で掴み上げるような重さを持っていた。
「はい。私の場合はディートリヒより少しだけ幸運でした。結界が崩壊したのが、殺される前だった」
(結界が壊れなければ、私もまだ一人で報告書を書いている。あるいは——もういない)
ゲオルクのペンが手帳の表紙を叩いた。軽い音だったが、一定の間隔を刻んでいた。指が言葉の代わりに何かを数えている。
ルクスはそれ以上口を開かず、窓の外に目を向けた。幸運という言葉の味が、舌の上で苦い。結界が崩壊し、人が死に、街が壊れ、それでようやく目を向けられたことを幸運と呼ぶ。
---
ゲオルクが手帳を閉じた。革の表紙が乾いた音を立てた。
「報告書をまとめますか」
「百二十一通目に、ブレンナーの件を加筆します。フォーゲルには今日中に口頭で伝える」
「使節団の到着まで、あと何日ですか」
「十一日です」
ゲオルクは扉の方を向き、それからルクスに視線を戻した。
「ブレンナーが今の使節団に名前を変えて紛れ込んでいる可能性は」
「あります。ですが、それよりも問題なのは名前ではなく目的です。十年前はブレンナーが結界の情報を読み取り、宮廷魔導師を殺した。今度の使節団が同じ手順を踏むなら、狙うのは修復中の結界か、私自身か、あるいはその両方です」
「護衛をつけます」
「いえ」
ルクスは首を横に振った。
「護衛をつければ、相手に警戒を悟らせます。今は泳がせる方がいい。結界核への通路には検知術式を張ってあります。誰が近づいても分かる」
ゲオルクは反論しなかった。ただ、手帳を胸元にしまう手が一瞬遅れた。護衛を断られたことを受け入れたのではなく、別の形で守る方法を考え始めている。その間が、この騎士の信頼の示し方だった。
「ゲオルク」
「はい」
「この件が終わったら——」
ルクスはそこで口を閉じた。迷いではない。次に並べる語の順番が、まだ定まらなかった。
「体質を変えなければ、私の後任も同じ目に遭います」
ゲオルクの靴が石床の上で鳴った。姿勢を正したのだ。軍人が命令を受け取る時の動きではなく、同意を示す時の動きだった。
「変えるというのは——」
「宮廷魔導師が一人で結界を抱え、報告書を誰にも読まれず、面会記録が片手で足りるような制度を、そのまま次の人間に引き渡すわけにはいかない。ディートリヒの二十年を繰り返し、私の十年を繰り返し、その次の誰かがまた同じ空白の中で結界を支えることを、仕組みとして許してはいけない」
三ヶ月前のルクスなら、その言葉は出てこない。追放された日、鞄一つで東門を出た時、頭にあったのは自分の仕事が終わったという一点だけだ。制度を変えるのは、制度を作った側の仕事であって、宮廷魔導師の仕事ではないと思っていた。
だがディートリヒの台帳を読み、空白の備考欄を二十年分辿り、ブレンナーの署名と東の楔の痕跡を並べた時、分かったことがある。制度を変えなければ、結界を直しても意味がない。壊す側は、壊す相手を孤立させることから始める。孤立させているのは外敵ではなく、宮廷そのものだ。
「手順書だけでは、足りないということですか」
ゲオルクの問いは静かだった。
「はい。手順書は結界を維持する方法です。ですが、結界の維持者を維持する仕組みがない。そこが壊れている」
ゲオルクが一つ頷いた。手帳をもう一度開いて、何かを書き留めた。ルクスの位置からは文字が読めない。だがペンの動きは長く、二行目に折り返していた。
---
ゲオルクが退室した後、ルクスは黙って執務机に向き直った。
百二十一通目の報告書の草稿を引き出した。フォーゲルが書式を整備中の原稿だが、手元にはルクス自身の控えがある。その末尾に、今朝の照合結果を書き加えた。
カール・ブレンナー。北方連合国中央学術院。面会三回。ディートリヒの死の三ヶ月前。署名の技法系統が東の楔の第二署名と一致。保全局の前任工作員と推定。
ペンを置き、インクが乾くのを待った。窓の外から鳥の声が一つ聞こえた。朝はまだ浅い。十一日ある、とルクスは数えた。使節団が到着するまでの十一日。報告書を大臣会議に通すまでの猶予は、それより短い。
左手を開いた。五本の指が机の上で扇のように広がった。昨夜、爪の跡が食い込んでいた小指の腹に、まだうっすらと赤い痕が残っている。
ディートリヒは結界を二十年守り、殺された。ルクスは結界を十年守り、追放された。次の人間が同じ場所に立たされることを、ルクスはもう許容できなかった。許容できないと気づいた瞬間が、結界を直す仕事の外側に、もう一つの仕事を見つけた瞬間だった。
報告書の上にペンを戻した。加筆すべきことがまだある。保全局の工作の全容だけではない。ルクスはペンを持ち直し、草稿の余白に一行書き足した。「制度改善に関する提言(仮)」。
(直すだけでは足りない。仕組みを——変える)
百二十通の報告書に、その文言を書いたことは一度もない。
ペン先がインク壺に沈んだ。六日の猶予は、結界と制度の両方に使わなければならない。




