第二十五話 ディートリヒの二十年
紙の端が茶色く焼けていた。
魔法省の書庫ではなく、その裏手の記録室——地下に降りる石段の先、天井が低く、湿気が壁紙を波打たせている部屋だった。フリッツが灯した手燭の光が、棚に並んだ綴じ紐付きの束に短い影を落としている。
「人事台帳はこの棚です。年度ごとに綴じてあります。ただ——」
フリッツの丸眼鏡が手燭の炎を映し、揺れた。
「三十年前から二十年分となると、この奥の棚になります。整理が追いついていない年度もあります」
「構いません。着任記録と異動記録があれば十分です」
ルクスは棚の前に立った。背表紙に年号が手書きで振ってある。インクの色が棚の奥へ行くほど薄い。最も古い束では、文字の輪郭だけが紙に凹みとして残っていた。
三十年前の束を引き出した。紐が固い。湿気で膠着した綴じ紐を引くと、皮のように伸びて、ようやく解けた。頁を開く。黄ばんだ紙の上に、几帳面な筆跡で人名と日付と配属先が並んでいる。
ディートリヒ・ライナー。着任:三十年前、秋。配属:宮廷魔導師。前職:王立魔導院研究員。
丁寧な字だった。一画ずつ迷いなく書かれた温かみのある筆跡が、黄ばんだ紙の上に三十年残っている。
「着任時の年齢は?」
「二十七歳です」
フリッツが隣の棚から別の台帳を引いて、確認していた。
「ルクス殿と同じ年齢ですか」
「私は二十五でした」
二歳の差。だが着任の仕方は同じだった——前任者が死に、引き継ぎは手記だけが残された。ディートリヒもまた、その前の宮廷魔導師が没した後に一人で着任している。台帳にはそう書いてある。「前任者死去に伴う緊急配属」。
ルクスの時と、一字も変わらない文言だった。
(三十年。この省は三十年間、同じ一行を書き続けている)
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着任記録から十年分の台帳を順に開いた。
ディートリヒの名前は毎年同じ場所にある。配属先の欄に「宮廷魔導師」、異動の欄に「なし」、備考の欄は白紙のまま。十年目、十五年目、二十年目——二十年間、この男は台帳の同じ行に名前を書き続けた。
倍だった。
ルクスの十年が、半分に見える。
フリッツが綴じ紐の束を机に並べていく。十五年目の台帳を開いた時、備考欄に初めて書き込みがあった。薄い鉛筆書きで、文字は小さく、手燭を近づけなければ読めない。
「『予算審議に伴う人事再編の対象候補。宰相府より照会あり。』——これは」
フリッツの声が低くなった。
「十五年目ですか」
十五年。
ルクスはその行を指で押さえた。紙はざらついて、湿気を吸った繊維が指の腹に貼りついた。
十五年前の宰相はフォーゲルではない。前任のグスタフ・ラインハルト。五年前に引退し、今は南の領地で隠居していると聞く。台帳の照会欄に、その名前が小さく添えてあった。
「前任の宰相も、同じことを考えていた」
フリッツが丸眼鏡の奥で目を伏せた。問い返さなかったのは、「同じこと」の意味が分かったからだろう。成果が見えない。予算に見合う実績がない。結界は立っているが、それは宮廷魔導師のおかげなのか、それとも結界が元から壊れていないだけなのか。
十年間、ルクスに向けられた問いと同じ問いが、二十年前にディートリヒに向けられていた。
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十六年目の台帳には、備考欄に別の筆跡で追記がある。インクの色が違う——鉛筆ではなく、黒インクの正式な記載だった。
「『宰相府照会に対する回答:対象者本人による結界機能の実演を実施。大臣会議にて確認。人事再編の対象から除外。』」
ルクスの指が紙の上で止まった。止まったのは、実演という語が目に入ったからではない。その二行下に、実演の日付と場所が記されていたからだ。
場所:結界核の直上、王城中庭。方法:結界の一時的可視化。
「可視化——結界を、目に見える形にした」
フリッツが束を覗き込んだ。手燭の炎が紙に近づきすぎて、ルクスが束を手前に引いた。
「結界は本来、肉眼では見えません。魔力の膜は透明で、空の色も風も通す。だから維持していても、誰にも見えない」
「それを見せたのですか。ディートリヒ殿は」
「可視化の術式は存在します。術者の魔力を大量に消費しますが、一時的に結界の表面を光らせることはできる」
ルクスは台帳の記述をもう一度読んだ。実演の結果、大臣たちは結界の存在を確認した。予算審議での追放案は取り下げられた。
ディートリヒは一度、結界を見せた。十五年の沈黙を破り、自分の仕事が実在することを証明してみせた。
だが——
ルクスは十七年目の台帳を開いた。備考欄は空白だった。十八年目も、十九年目も、二十年目も。実演の記録は十六年目の一行だけで、それ以降の欄は再び白紙に戻っている。結界は見える形にされ、そして目に見えない形に戻った。大臣たちは一度は納得し、そして一度で忘れた。
「フリッツ」
「はい」
「ディートリヒは二十年間、毎夜結界を維持し、十五年目に追放の危機に遭い、結界を見せて切り抜けた。そしてその後の五年間、再び誰にも見えない仕事に戻った」
フリッツは台帳を見ていた。空白の備考欄が、四年分並んでいる。丸眼鏡の奥の目が、空白を一年ずつ辿っていた。
「ルクス殿と——」
(言うな。同じだと分かっている)
「同じです。見える形にしても、見ない人間は見ない。ディートリヒはそれを、私より五年早く知った」
フリッツの手が、開いた台帳の縁を握っていた。文官の手は白く、記録室の冷気で指先が赤い。この若い文官は今、自分が勤める省が三十年間繰り返してきたものの輪郭を読んでいる。
石壁から冷気が滲み出していた。記録室の空気は動かず、手燭の炎だけが紙の上で揺れている。ルクスは二十年目の台帳を閉じた。綴じ紐の感触が、官舎で読んだディートリヒの手記——あの一冊目の手記の背表紙と、同じ太さだった。
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二十年目の台帳の、最後の頁に異動記録がある。
「『死亡に伴う退官。死因:病死。後任配属:ルクス・アーレンハイト。』」
病死。ルクスはその二文字を指で撫でた。紙の表面にインクが沈んで、文字の輪郭だけが凹んでいる。
病死ではない。
(二十年だ。二十年守り抜いた男を、台帳は二文字で片づけている)
口には出さなかった。フリッツに伝えるには、まだ証拠が足りない。
南の楔の墓地で確かめた魔力の痕跡が、その二文字を否定している。ディートリヒの身体から魔力を抜き取った者がいた。二十年間結界を支え続けた魔導師の魔力は、抜かれれば命ごと持っていかれる。
「フリッツ。二十年目の台帳、最後の年度の来訪者記録はありますか」
「来訪者——魔法省への外部来訪ですか」
「宮廷魔導師への面会記録です。宮廷魔導師は官職ですから、外部からの面会には記録が残るはずです」
フリッツは棚の下段に屈み込んだ。別の束を引き出し、綴じ紐を解いた。面会記録台帳。薄い冊子で、ほとんどの頁が白紙のまま残っている。二十年間で書き込まれた行は、片手で数えられるほどしかない。
だが、死亡の三ヶ月前の頁に、一件だけ記載があった。
「面会者:カール・ブレンナー。所属:北の連合国、学術交流使節団。面会目的:魔導技術に関する情報交換。」
フリッツが読み上げた声が、記録室の低い天井に跳ねた。
ルクスは手帳を開いた。右手でペンを取り、その名前を書き写した。カール・ブレンナー。学術交流。北の連合国。
死ぬ三ヶ月前に、ディートリヒは北の連合国の使節と会っていた。
「ブレンナーの滞在期間は」
「記録では——二週間です。面会は三回行われています。初回が到着の翌日、二回目がその五日後、三回目が出発の前日」
三回。二週間の滞在で三回の面会。学術交流としては頻度が高い。だが不自然に高いわけではない——相手が結界の専門家であれば、技術的な議論に複数回の面会が必要になることはある。
問題は、その三回の面会の後に何が起きたかだった。
ブレンナーが発った。三ヶ月後、ディートリヒは死んだ。病死と記録された死が、実際には魔力の抽出による殺害だった。そしてその十年後、同じ北の連合国から別の使節——ヘルマン・シュトラウスが現れ、結界を破壊する工作を行った。
「フリッツ」
「はい」
「ブレンナーの名前を、外務省の来訪者名簿と照合できますか」
「外務省への照会が必要になりますが——」
「昨日、ゲオルクが外務省に名簿の確認を依頼しています。新しい使節団の四名の名前が届く前に、十年前の名簿も合わせて照会してください」
フリッツが丸眼鏡を押し上げ、手帳に書き留めた。ペン先が紙を引っ掻く音が、記録室の静寂に線を引いた。
ルクスは面会記録台帳の頁を見下ろしていた。カール・ブレンナーという名前の横に、ディートリヒ・ライナーの署名がある。丸みのある、穏やかな筆跡だった。二十年間結界を守り続けた男の字は、報告書を百二十通書き続けたルクスの字よりも、いくらか柔らかい。
その字を書いた手は、三ヶ月後に魔力ごと命を奪われた。
ルクスは黙って台帳を閉じた。綴じ紐を元通りに結び、棚に戻した。
「フリッツ。もう一つ」
「はい」
「ブレンナーの面会記録に、承認印は誰が押していますか」
フリッツが再び台帳を引き出し、頁を開いた。承認欄を確かめ、手燭を近づけた。
「——魔法省長官の印です。ただし、十年前の長官はエルドマン殿ではありません。前任の長官の印です」
「名前は」
「ヴィルヘルム・ケスラー。エルドマン殿の前任です。七年前に退官しています」
ルクスは手帳にその名前を加えた。カール・ブレンナー、ヴィルヘルム・ケスラー。十年前の面会を承認した長官と、面会に来た使節。
二十年間見えない仕事を続け、一度だけ結界を見せ、それでも忘れられた男の最後の面会者が、北の連合国の人間だった。
手燭の蝋が卓に一滴落ちた。フリッツが慌てて手燭を持ち直した時、ルクスは既に石段に向かっていた。
「ルクス殿——」
「照会は今日中にお願いします。名簿が届く前に、こちらの手札を揃えておく必要があります」
石段を上がる途中で、左手を握った。五本の指が拳を作り、爪が掌に食い込み、小指に鈍い痛みが残った。
ディートリヒは結界を見せた。見えない仕事を、一度だけ目に見える形にした。それで得たものは、追放の撤回だけだ。理解ではない。二十年間の沈黙の末に、北の連合国の使節が来て、三回会って、三ヶ月後に死んだ。
見えるものすら見ない人間がいる一方で、見えないものを正確に見ていた人間がいた。ディートリヒの結界を、外から。
石段の上に朝の光が差していた。魔法省の廊下は人の気配がまだ薄く、石床にルクスの靴音だけが響いている。
十二日後に、同じ国から使節団が来る。十年前と同じ名目で、四名。
ルクスは手帳を胸元にしまい、廊下を歩いた。左手の拳は開かないまま、回復したばかりの小指の腹に、爪の跡が食い込んでいる。




