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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第二十三話 顧問の椅子

 封蝋の匂いが、指先に残った。


 朝の官舎に届いた封書は二通あった。一通は昨夜の稟議の結果。もう一通は、蝋封の色が違う別紙だった。


 最初の封を切った。宰相府の書記官の筆跡で、三行。


 「北方魔導技術保全局への正式照会に関する稟議は、外交上の影響を考慮し、現時点では見送りとする」


 却下。


 ルクスは紙を机に置いた。指先に残った蝋の匂いが、薄くなっている。証拠を揃え、経路を示し、フォーゲルが稟議書を通し——それでも動かない。

 (結界の亀裂より、北の機嫌が重いか)

 十年の報告書より丁寧に書いた稟議が、三行の不採用で返ってきた。紙の厚みだけは、一通目の封書より立派だった。


 二通目の封を切った。こちらは書記官の筆跡ではない。宰相府の正式書式で、本文の末尾に国王の小印が押されている。


 「結界復旧に際し、ルクス・アーレンハイトを王国結界顧問として宮廷に留める。任期は結界の安定が確認されるまでとする」


 顧問。


 二枚の紙が卓の上で並んでいる。左が却下、右が任命——保全局には触れさせないがルクスは手放さない、という宮廷の判断が透けて見えた。蓋をしたまま、蓋を押さえる手だけ雇う。


 ルクスは任命書の日付を確認した。昨日——稟議の却下と同日に起草されている。却下の代償として、最初から用意されていた紙だ。


 直したら去る。


 その前提が、一枚の紙で塗り替えられた。結界の安定が確認されるまで——安定の定義も、誰が判定するかも記されていない終わりのない任期だった。


 ペンを取った。右手でインク壺の蓋を開け、任命書の余白に何か書こうとして——やめた。左手で蓋を戻す。薬指が蓋の縁をしっかり押さえた。昨日までなら滑っていた動作だ。指先の感覚が戻りつつある、その手で、終わりのない任期の紙を引き出しにしまった。


---


 午後、会議室へ向かう石の回廊で、冷えが靴底から脛に上がってきた。ここを最後に歩いたのは解任の日だった。同じ冷たさ、同じ天窓からの光。違うのは足の向きだけだ。


 会議室の扉を開けた。


 半円形の石造りの部屋に、天窓から午後の光が落ちている。十二の席が弧を描いて並ぶ中央の演壇にフォーゲルが立ち、大臣たちは半数以上が既に着席していた。


 ルクスの目が、弧の上座寄り——宰相の隣に置かれた椅子を捉えた。他の席と違い、背もたれに布が掛けられている。新しく運び込まれた椅子だった。


「結界顧問の席を用意させました」


 フォーゲルの声が、部屋に薄く響いた。


 十二人の視線が動いた。着席していた大臣たちの何人かが顔を上げ、何人かが目を逸らした。軍務大臣ハイゼンベルクだけが、腕を組んだまま真っ直ぐにルクスを見ていた。


「ありがとうございます。ですが——」


 ルクスは上座の椅子を見てから、視線を部屋の端へ移した。弧の末端——十年間座っていた場所には、もう椅子がない。解任後に片付けられたのだろうが、壁際の空間だけは残っている。天窓の光がぎりぎり届かない一角だ。


「末席をお借りします」


 フォーゲルの眉が動いた。大臣たちの何人かが顔を見合わせた。


 ルクスは壁際へ向かった。扉の脇に予備の椅子が一脚あり、それを弧の末端まで引いてきて据えた。木の脚が石床を擦る音が、誰の声もない部屋を横切った。


 座った。


 末席からは、誰が額に汗をかいているか、誰が卓の下で指を組み替えているかまで見える。上座からでは無理だ。弧の中ほどに座る財務大臣が、隣の外務大臣に何か囁いた。外務大臣の首が微かに引いた。保全局の件が、既に噂として回っている。


 フォーゲルが咳払いをした。


「——では、議事に入ります。本日の第一議題、結界の現状について。結界顧問から報告を」


 ルクスは立ち上がった。末席から半円の中心までは距離があるが、十年間この位置で話していた声の張り方を、体がまだ覚えている。


「結界核は安定しています。六つの楔への魔力注入は正常に継続しており、外殻の修復率は九割二分。残る欠損は南の楔の接続部に集中しています」


 数字を出した途端、部屋の空気が変わった。九割二分。大臣たちの大半は、結界の修復率が具体的な数値で語られるのを初めて聞いたはずだ。


「加えて、報告すべき事項が一点あります」


 間を置いた。エルドマンが上着の襟に指をかけた。金糸の刺繍が揺れる。


「六つの楔のうち東の楔に、外部からの干渉痕が確認されています。表面走行型の魔力署名で、正規の魔導教育を受けた人物によるものと判断しています。結界を破壊する意図ではなく、構造を読み取る目的の接触です」


 大臣たちの椅子が軋んだ。一つではない。複数。


「——いつからだ」


 ハイゼンベルクだった。腕組みを解き、身を乗り出している。


「痕跡の経年劣化から推定して、結界復旧後の二週間から三週間以内です」


「復旧後に、か。結界が一度完全に落ちた空白期間は、向こうにとっても好機だったということだな」


「特定には至っていません。ただし、均速走行型の署名技法は正規課程でのみ教授されるものです。独学では精度が出ません」


 ハイゼンベルクの目が細くなった。質問の的が絞られていく。軍人の問い方だ。


「その技法を教える機関は」


「台帳上は三校。我が国の魔導学院、西方のザールフェルト学院、北の連合国の中央魔導院です」


 部屋が静まった。北の連合国。保全局への照会が却下された、その当事国の名前だ。


「我々も把握していたことだが——」


 エルドマンが口を開いた。椅子の肘掛けに手を置いたまま、視線を泳がせている。


「——魔法省としても、結界周辺の異常については監視体制を敷いている。過剰に不安を煽る必要は——」


「長官」


 ハイゼンベルクの声が遮った。短く、低い。


「具体的にどんな監視体制を敷いている。人員は何名で、楔への巡回頻度は」


 エルドマンの指が肘掛けの上で止まり、答えが返ってこないまま三秒、五秒が過ぎた。弧の反対側で、誰かが小さく息を吐いた。


「……現在、人員の配置については調整中で——」


「もういい」


 ハイゼンベルクが視線をルクスに戻した。


「検知は?」


「六つの楔すべてに感応式の検知術式を設置済みです。新たな接触があれば即座に記録されます」


 ハイゼンベルクが頷いた。一度だけ、深く。それで問いを終えた。


 ルクスは末席に座り直した。半円の弧の端から、大臣たちの横顔を見渡す。ハイゼンベルクの顎は引き締まっている。エルドマンの額に汗が浮いている。他の大臣たちは——互いの反応を窺い合い、自分から口を開く者はいない。

 (十二人。動いたのは一人。止まったのも一人。残りの十人は、椅子の温度を測っている)


 ペンを左手に持ち替えた。薬指が軸をしっかり受け止め、昨日まで圧が抜けていた関節に力が通っているのが分かる。小指も軸に触れていた——握りきれてはいないが、指先がペンの丸みをなぞるように位置を探っている。動いている。


 手帳に、ハイゼンベルクの質問とエルドマンの沈黙を書き留めた。左手の文字は右手より太い。だが読める。


---


 会議が終わり、大臣たちが立ち上がった。椅子を引く音、革靴が石を踏む音、低い囁き声が混ざり合って廊下へ流れていく。


 ルクスが椅子を壁に戻そうとした時、フォーゲルの声が背後から届いた。


「少し残ってもらえますか」


 大臣たちの最後の一人が廊下に消えた。扉が閉まる。半円形の部屋に、二人だけが残った。


 フォーゲルは演壇から降り、弧の中ほどの席に腰を下ろした。白髪交じりの眉の下で、目が机の一点を見ている。手帳を開く素振りもない。


「稟議の結果はお読みになりましたね」


「今朝、確認しました」


「外交上の配慮という判断です。私の権限では覆せません」


 フォーゲルの声が低い。会議中に部屋全体へ向けていた声量を、二人の距離に絞っている。


「ただ——」


 フォーゲルが机の上で指を組み替えた。


「正式照会には外交手続きが要る。しかし、大臣会議に提出される報告書は内政文書です。外務省の承認は必要ありません」


 ルクスの手が止まった。


「大臣会議に報告書を直接提出する。保全局の名前を出さず、干渉の事実と署名の技術的分析だけを記録として残す。照会ではなく、報告として。この経路なら——」


「外交問題にならない」


 フォーゲルが頷いた。顎を引く動作が途中で一瞬止まり、それから下まで落ちた。


「報告書は、大臣全員の目に触れます。先ほどの会議で、ハイゼンベルクは既に動き始めている。事実が共有されれば、照会の圧力は自然に生まれる」


 ルクスは末席から立ち上がらず、壁際の椅子に座ったままフォーゲルの横顔を見ている。


 百二十通を素通りさせた机と、同じ手だ。その手が今、次の一通を届ける道を自分で探している。

 (遅い。だが——動いている)

 喉の奥が少し熱い。怒りではない。百二十通分の沈黙を知っている体が、百二十一通目の可能性に反応しただけだ。


「書きます」


 間を置かなかった。


「ただし、手順書とは別の文書になります。事実の積み上げに、技術的な説明を加えます。大臣たちが判断できる粒度まで噛み砕く必要がある」


「構いません。書式は宰相府で整えます。あなたは事実だけを書いてください」


 フォーゲルが立ち上がった。椅子を引く手が、わずかにぎこちない。袖口を正す仕草が出かけて、途中でやめた。


「アーレンハイト」


 扉に手をかけたまま、フォーゲルが振り返った。


「保全局を迂回する方法は、一つだけではありません。報告書が大臣全員の手に渡れば——次の稟議は、却下できない」


 それだけ言って、廊下に出た。


 扉が閉まった。半円形の部屋に、ルクスだけが残った。


 左手を開くと、薬指は完全に伸びた。小指が遅れて、だが確かに他の四本を追いかけ、爪の先が掌の皮膚に触れた。途中で止まり、もう一度動いた。


 手帳を開いた。左手で持ち、右手でペンを走らせた。


 百二十一通目。今度は、届く前に読ませる。


 天窓から差す光が、末席の椅子の脚に当たっている。ルクスはそれを見て、椅子をそのまま残した。左手の小指が、ペンの軸をまだ探っている。

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