第二十二話 二つ目の署名
インクの匂いが、まだ乾ききっていない。
朝の官舎で、ルクスは昨夜の記録を読み返していた。東の楔で検出した魔力署名の特徴。表面走行型、低粘度、浸透なし。シュトラウスの署名とは系統が違う。ペンを置き、右手の人差し指で記録の文字をなぞった。乾きかけのインクが指先にわずかに移る。
記録だけでは足りない。痕跡は時間とともに薄れる。署名の構造を正確に写し取るには、楔の表面から直接転写するしかない。
外套を羽織り、官舎を出た。
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市場の広場は、朝の荷下ろしが始まったばかりだった。荷車の車輪が石畳を叩く音と、木箱を積む声が交差している。井戸の周囲には水汲みの列ができていて、桶の底が縁に当たる硬い音が響いている。
その下に楔がある。昼間は降りられない。
足を止めた。右手の指先を、自分の左手首に当てた。昨夜の感覚記憶を呼び起こす。痕跡に触れた瞬間の魔力の質感は、指先にまだ残っている。十年間、六つの楔に毎夜触れ続けた指は、微細な魔力の差異を皮膚の記憶として保持する。繰り返しが教えた精度だった。
記憶と記録を突き合わせる。表面走行型の署名は、楔の表面を等速で滑り、構造の凹凸に沿って軌道を変える。浸透型なら構造の内部に入り込み、痕跡が楔の深層に残る。だが表面走行型は、楔の外殻だけをなぞった跡を残す。壊すのではなく、設計を知るために触れている。
魔法省の書庫で確認したいことができた。
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魔法省の書庫は、朝の時点では管理人のフリッツだけがいた。
「署名の分類台帳を見せてもらえますか」
フリッツが丸眼鏡を押し上げ、書架の奥へ向かった。革の背表紙が並ぶ棚の中から、茶色の厚い台帳を一冊引き出す。
「魔力署名の分類は第七章です。ただ、この台帳は三十年前の編纂で、新しい分類は追補に——」
「追補も含めてお願いします」
フリッツが追補の薄い冊子を重ねて持ってきた。ルクスは閲覧机に台帳を開き、第七章の分類表を指先で追った。
浸透型、表面走行型、飛散型、定着型。四つの基本分類。表面走行型の下位分類に目を移す。
「均速走行——正規教育課程で教授される基本技法。魔導学院の三年次以降で習得」
指が止まった。
表面走行型には、二種ある。均速走行と不均速走行。均速走行は制御が難しく、正規の訓練なしには安定しない。昨夜の痕跡は、楔の表面を等速で滑っていた。凹凸に沿って軌道を変えながら、速度を一定に保っている。これは独学では身につかない精度だ。
「フリッツ。この台帳に、署名の分類ごとの教育課程との対応はありますか」
「追補の十二頁に、各国の魔導学院の教程比較があります」
追補を開いた。十二頁。各国の魔導学院が教える署名制御の技法が一覧になっている。均速走行を正規課程に含む学院は、三つしか載っていない。王国の魔導学院、西方のザールフェルト学院、そして——北の連合国の中央魔導院。
ルクスは追補を閉じ、頁の角を折った。三つの学院名を手帳に書き写していると、フリッツが閲覧机の向かいから台帳を覗き込んでいた。丸眼鏡の奥の目が、手帳に走る文字を追っている。
「その三校を調べるのは、結界の件ですか」
「確認するだけです」
フリッツは何か言いかけて、口を閉じた。台帳を受け取る手が、普段より慎重だった。
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官舎に戻ると、机の上に封書が置かれていた。
宰相府の印章が押された白い封筒で、蝋封は崩されていない。ルクスの不在中に誰かが届けたのだろう。封を切った。
一枚の紙。宰相府の書記官の名前と、短い文面。
「保全局への正式照会に関する稟議について、国王陛下は現在検討中である。結果は追って通知する」
日付は昨日だった。宰相府の書記官が直接持ってきたのではなく、城内の伝達係を通したために一日遅れている。朝の巡回で各部署に文書を配る、いつもの経路だ。
検討中。
ルクスは封書を机に置いた。紙の端が、昨夜の記録の上に重なった。
稟議が通るかどうか——判断の材料が足りないのか、それとも判断を遅らせる理由があるのか。フォーゲルが提出した稟議書の内容は、ルクスも確認している。手順書、シュトラウスの署名一致、ヴェーバーの経歴の空白、四人の旧同僚への組織的な情報収集。証拠は揃っている。
これだけの証拠を前にして「検討中」が返ってくるということは、証拠の問題ではない。政治の問題だ。北の連合国に正式照会をかけることの外交的影響を、誰かが計算している。
封書を引き出しにしまった。鍵をかけた。鍵が回るとき、左手の小指が鍵の軸を握りきれず、親指で押し添えた。
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日が落ちてから、ゲオルクが来た。
官舎の扉を叩く音で、靴音の主が分かった。ゲオルクの打音は一定の間隔で三回。軍人の癖だ。
「入ってください」
ゲオルクが扉を開けた。外套の肩口が濡れている。夕方から雨が降り出していた。
「ベッカーに再聴取をかけました」
椅子を引き、ゲオルクが腰を下ろした。手帳を開く前に、外套のポケットから折り畳んだ紙を出した。
「これは」
「ベッカーが描いた人相書きです。記憶を頼りに、ですが」
ルクスは紙を広げた。鉛筆の素描で、四十代後半のやせた顔に銀縁の眼鏡をかけた男が描かれている。顎が細く、短い髪の下の額が広い。
「ベッカーの記憶では、この男は外交使節の随行員を名乗っていました。しかし——」
ゲオルクが手帳を開いた。
「外務省の公式記録に、過去五年間の外交使節の随行員名簿を照会しました。銀縁の眼鏡という特徴に該当する人物は三名いましたが、いずれもベッカーが接触を受けた時期には王国外に赴任中です」
「つまり、外交使節の随行員を名乗ったのは偽装ですか」
「その可能性が高い。ベッカーは名刺を受け取っていません。口頭で名乗っただけです。加えて——」
ゲオルクの鉛筆が手帳の一行を指した。
「ベッカーへの接触は、シュトラウスが他の三人に接触した時期より約半年遅い。三人への接触が三年前から二年前にかけてであるのに対し、ベッカーへの接触は一年半前です」
「時期がずれている」
「シュトラウスが情報を集めた後に、別の人間が補完的に動いた。同時ではなく、段階的です」
ルクスは人相書きを机の上に置いた。鉛筆の線が揺れているのは、ベッカーの記憶が薄れかけていたからだろう。だが特徴は十分に読み取れる。顎の細さ、額の広さ、銀縁の眼鏡——この人物は顔を隠していない。名前だけを偽った。
「ゲオルク。今夜、東の楔をもう一度調べます。付き合ってもらえますか」
「承知しました」
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市場の人通りが消えた深夜、井戸に降りた。
水は昨夜より冷たかった。雨水が地下に流れ込み、水位がわずかに上がっている。膝上まで浸かりながら、石組みの裏壁に右手を当てた。
楔の反応。正常。検知術式は稼働しており、昨夜から今日にかけて新たな接触は記録されていない。
次に、痕跡の残る北側の面に指を移した。
右手の人差し指で、痕跡の軌跡をなぞる。昨夜より丁寧に読む。均速走行——楔の表面の凹凸に沿って、速度を落とさずに滑っている。溝の深さが変わる箇所でも、指圧の配分を変えて等速を保っている。台帳の記述そのままの精度だ。
ルクスは水の中で自分の左手を見た。指先が青白く光っている。この手で触れれば楔は応答する。だが痕跡の主は、応答を求めていない。問いかけではなく傍聴——楔の構造を、外側からなぞり取った手だ。
左手を楔の基部に当てた。小指まで含めた五本の指で、楔の表面を押した。
痛みが走った。
小指から手首を抜け、前腕の中ほどまで。鋭くはない。鈍い、芯を押されるような圧だ。楔の魔力と自分の魔力が接触する面で、何かが軋んでいる。
手を離した。痛みは引いたが、小指の先に痺れが残った。
「ルクスさん」
上から、ゲオルクの声が降りてきた。井戸の縁に立って、下を見ている。
「大丈夫です」
左手を水に浸した。冷たさが痺れを押し流す。完全には消えない。小指の腹に、鈍い違和感が居座っている。
痛みの原因は分かっている。十年間の注入で、ルクスの左手は楔との間に共鳴回路を作っている。他者の干渉痕に触れると回路が乱れ、最も細い小指の経路から負荷が出る。
だが、この痛みが意味することがもう一つある。表面走行型であっても、構造を正確になぞるには一定の魔力を流す。その残留が共鳴回路と干渉するほど深い読み取りだった。軽い接触なら、ここまで響かない。
縄梯子を登った。左手で縁の石を掴む。小指が遅れたが、昨夜より隙間が狭い。力を入れる方向が分かったからだ。
「何が分かりましたか」
ゲオルクが手を差し伸べた。手袋を外した素手で、指が井戸の縁の内側まで届いている。ルクスはその手を見て——取らず、自分の腕で体を引き上げた。濡れた膝を石畳につき、立ち上がる。差し伸べた手を断られて、ゲオルクは静かに一歩引いた。
「この署名の持ち主は、正規の訓練を受けた人間です」
外套の裾から水が落ちる。石畳に黒い染みが広がった。
「魔法省の分類台帳と照合しました。均速走行型の表面読み取りは、正規の魔導教育課程でしか教えない技法です。独学では精度が出ない」
「北の連合国の中央魔導院」
「それを含む三つの学院のいずれかです。断定はまだできません。ですが——」
ルクスは手帳を出した。濡れた指で頁を開く。インクが滲まないよう、右手だけで扱った。
「シュトラウスは楔を壊すために触れていた。浸透型の干渉は、構造に食い込んで劣化を促す技法です。だがこの署名の主は、壊していない。楔の構造を読み取り、設計を複写しようとしている」
「復旧した結界の設計を」
「ええ。壊す技術はシュトラウスが担った。この人物の役割は別です。結界を復元した方法——楔の洗浄手順、伝導路の修復技法、注入量の配分——それらを持ち帰ることが、目的でしょう」
ゲオルクの靴音が止まった。手帳を出し、鉛筆を構えた。
「保全局は、結界を壊す人間と、結界の技術を盗む人間を、別々に送り込んでいた」
「組織として動いている。シュトラウスの逮捕で工作が終わったと考えるのは早計です」
井戸の蓋を閉じた。木の蓋が石の縁に当たる、乾いた音。
ルクスは広場を見回した。夜の市場は空だ。荷車はなく、露店の骨組みだけが闇の中に立っている。この広場を昼間に通る人間は何百人もいる。その中に、銀縁の眼鏡の男が混じっていたとしても、誰にも分からない。
「接触時期は二週間から三週間前。結界を復旧した直後です。壊れたままなら読み取る価値がない。復元されて初めて、設計を持ち帰る意味が生まれる」
風が広場を横切った。雨の匂いが混じっている。
「もう一つ。東の楔だけに痕跡があり、他の五つにはありません。井戸の底という人目につきにくい場所を選んだか、あるいは東の楔の構造に何かを見出したか。いずれにしても、計画的な接触です」
ゲオルクが鉛筆を止めた。手帳を見ずに、ルクスの顔を見た。
「検知術式は全楔で稼働しています。次に触れれば記録される。ただし、正規の訓練を受けた人間なら、感応線の存在に気づく可能性がある」
「気づいて止めるか、別の方法を取るか」
「どちらにせよ——」
ルクスは手帳を閉じた。左手の小指が、さっきの痺れをまだ覚えている。
「東の楔一つでは、結界の全体設計は分かりません。六つの楔がどう連動し、結界核とどう接続しているか——それを知るには、少なくとも二つ以上が必要です。読み取りはまだ途中でしょう」
ゲオルクが手帳を閉じた。鉛筆が革紐に挟まれる音がした。
「この人物は、まだ仕事を終えていない」
雨が降り始めた。広場の石畳を叩く水音が、一粒ずつ増えていく。
ルクスは外套の襟を立てた。左手の小指が布を掴むのに、もう一拍かかった。だが今度は、追いつくのを待った。
稟議は検討中。検知術式は稼働中。そして結界の設計を盗もうとする人間が、おそらくこの城壁の内側にいる。
手帳のインクは滲んでいない。記録は残った。
雨粒が手帳の革表紙を叩いた。ルクスはそれをポケットにしまい、左手の小指で口を閉じた。遅れたが、閉じた。
六つの楔に仕掛けた感応線が、今この瞬間も署名を待っている。問題は、向こうがそれに気づく前に触れるか——気づいた上で、別の手を打ってくるかだ。




