第二十一話 夜の巡回
夜気が首筋に触れて、ルクスは外套の襟を立てた。
春の夜はまだ冷える。日が落ちてから二刻が過ぎ、城下の路地は人通りが消えていた。石畳の継ぎ目に溜まった昼の雨水が、ランプの光を細長く反射している。
六つの楔を、今夜から毎夜巡る。
稟議の返答は来ていない。待つ間に手を止めるわけにはいかない。結界を復旧して三週間。楔への干渉がシュトラウス一人の仕業でないなら、結界核だけを見張っていても足りない。六つの楔それぞれに検知術式を仕込む必要がある。
術式の設計は昨日の午後から始めた。触れた者の魔力署名を自動で記録する仕組みだ。仕掛けは単純でいい。魔法陣の外周に感応線を一本加え、接触があれば署名と時刻を石に刻む。複雑にするほど誤反応が増える。ルクス自身の署名を除外するだけの、簡素な篩を一層。
最初は北の楔からだった。王城の地下だ。
城門の衛兵に巡回の旨を告げ、地下三層への階段を降りた。壁の石が湿っている。指先で触れると、冬の底に手を差し入れたような冷たさが骨に届いた。ランプの炎が石段の角に影を落とし、影が進むたびに壁の水気が光った。
北の楔は安定していた。先月の洗浄で伝導路の目詰まりを除去してあるから、楔自体に異常はない。基部に膝をつき、右手の人差し指で外周に感応線を引いた。魔力が石の表面を滑って薄い青の軌跡を残し、一周して線が閉じた。起動を確認し、自分の署名を除外登録した。
立ち上がるとき、左手を石壁に当てた。五本の指が壁を押す。小指だけ、力の入りが一拍遅い。壁を離しても、小指の先に石の冷たさが他の四本より長く残った。
城を出て、南の楔へ向かった。大聖堂の墓地は夜になると門番が施錠する。鍵は大聖堂の管理人から預かってある——結界復旧の際に、宰相府を通じて手配した正式な貸与だ。墓地の鉄柵を開けると、蝶番の油が切れかけた音がした。土と、古い花と、夜露の混じった匂い。墓石の列が闇の中で等間隔に並んでいる。
南の楔は墓地の最奥、記念碑の台座の下にある。地面に膝をつき、石の下を探ると楔の反応が指先に返ってきた。北と同じく安定している。感応線を引き、署名を除外して次へ向かった。
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西の楔は港の灯台の基部にある。潮の匂いが、地下から押し上げてくる石の湿気と混じる中で三つ目の検知術式を仕込み終えたとき、夜半を回っていた。
城壁の東西に埋め込まれた二つは手早く済ませた。壁面の保守口から腕を差し入れ、暗がりの中で触覚だけを頼りに感応線を引く。四つ目と五つ目。
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東の楔に向かう途中で、東門を通った。
門の手前で足を止めた。
槍を持った影が、門柱の横に立っていた。
「——誰だ」
低い声。聞き覚えがある。十年間、毎夜聞いた声だ。
「私です、ベルトラム」
ランプを上げると、橙色の光が門番の顔に落ちた。白髪が増えている——追放の夜に門を開けたときより、こめかみから上がずいぶん白くなっていた。
だが目の光は変わらない。節くれだった指が槍の柄を握る位置も、十年前と寸分違わなかった。喉の奥に、言葉にならない温度がせり上がってきて、ルクスはそれを飲み込んだ。
「ルクスさん」
ベルトラムの声が低くなった。怒りでも驚きでもない。堪えるような声だった。
「戻ったんですな」
「結界の修復で。復旧が終われば——」
「聞いてますよ。辞めて出ていくんだと」
ベルトラムは槍を門柱に立てかけ、両手を腰の前で組んだ。
「嘘ですな」
「何がです」
「出ていくって話が。あんたはこうして夜に出歩いてる。十年前と同じだ。楔を見に行くんでしょう」
ルクスは答える代わりに、ベルトラムの足元へ視線を落とした。靴が新しくなっている。以前の革靴は踵が減って左に傾いでいた。
「靴を替えましたね」
「あんたが出ていった後、城壁の上で走り回らなきゃならなくなりましてね。古いのじゃ足が持たなかった」
結界が消え、魔物が来た夜のことだ。ベルトラムは東門の門番で、北門の戦闘には加わらなかったはずだが、城壁の上から全てを見ていた。走り回る必要があったということは、東門の周辺にも何かがあったのだろう。
「怪我は」
「かすり傷です。大したもんじゃない」
大したものかどうかは、ベルトラムの新しい靴の踵の減り方が答えている。左右均等に減っている。以前の癖が消えたのは、走り方を変えたか、あるいは足を庇っていた名残かもしれない。
「十年間、毎晩あんたを送り出して、毎朝迎え入れた」
ベルトラムは組んだ手をほどき、門柱に背を預けた。
「あんたが何をしてたか、細かいことは分からない。だが、あんたが出ていった翌日に空が割れた。それだけで十分です」
門柱の石が、ランプの光で温かい色に見えた。実際は冷えている。夜気にさらされた石は、昼の温もりをとうに手放している。
「ベルトラム。しばらく、毎夜ここを通ります」
「——知ってます」
老門番は槍を取り直した。
「十年やったことを、今さら止められるもんですか。行ってきなさい」
ルクスは東門をくぐった。蝶番が軋んだ。あの夜と同じ音だ。ただ、あの夜は外へ出ていく音だった。今夜は、巡回に出る音だった。
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市場の広場に入った。昼間は荷車と人声で埋まる場所が、夜は石畳の広さだけを見せている。井戸は広場の東隅にある。
井戸の蓋を開け、縄梯子を降ろした。縁に体を預けて片足を縄にかけると、井戸の底から湿った冷気が脛を這い上がってきた。水面まで降り、さらにその下の石組みの裏に東の楔がある。
水が冷たかった。膝まで浸かりながら、石組みの裏壁に手を当てた。楔の反応を探る。
指先が、二つの反応を拾った。
一つは楔自身の振動だ。正常に機能している。魔力の流れは安定し、先月の補修が効いている。
もう一つは、楔の表面に残った痕跡だった。
ルクスの手が止まった——止まったのは意志ではなく、指先が受けた情報が処理を要求したからだ。楔の基部、北側の面に、外部からの魔力接触の跡がある。接触から時間が経っている。残留強度から逆算すると、二週間から三週間前。結界を復旧した直後の時期に重なる。
感応線をまだ仕込んでいない。これは検知術式が捉えたものではない。楔自体に残った、生の痕跡だ。
右手の指先を痕跡の上に置いた。魔力の色を読む。シュトラウスの署名は記憶している。北の楔から削り出した干渉痕、書庫の支配術式、視察団の記録に残った入国時の魔力検査——すべて同じ署名だった。粘度が高く、浸透するように広がる特徴的な質。
指先が読み取ったものは、それとは違った。
粘度が低く、浸透型ではなく表面を滑るように広がっている。シュトラウスは楔の構造に食い込むように干渉していた——壊すための触れ方だ。だがこの痕跡は、構造を読み取ろうとした形跡に近い。壊すためではなく、調べるために触れた手が、ここにあった。膝を浸す水の冷たさが、さっきより深く骨に届いた。
ルクスは痕跡から手を離し、右手の指先を水で洗った。井戸の水が指の熱を奪う。痕跡の魔力が自分の感覚に混じらないよう、接触面を冷やして遮断する。十年の習慣だ。
東の楔に検知術式を仕込んだ。六つ目。感応線を引き、署名の除外登録を済ませ、起動を確認した。
縄梯子を登り、井戸の縁に手をかけて体を引き上げた。左手の小指が縁の石を掴み損ね、一瞬、右手だけで体重を支える羽目になった。力が入らないわけではない——ただ、他の四本が石を掴んでから小指が追いつくまでに、呼吸ひとつ分の隙間がある。
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東門に戻ると、ゲオルクが待っていた。
門柱の横に立っている。ベルトラムと並んでいたが、ルクスの姿を見て歩み寄った。手帳を持っている。
「聞き取りが終わりました」
「何人ですか」
「ケスラーを含めて、四人です」
ルクスの足が止まった。
ケスラーへの接触は既に確認していた。何者かが魔法省の旧研究員に接触し、結界の維持体制について聞き出そうとしていた。しかし四人というのは、想定より多い。
「名前を」
ゲオルクが手帳を開いた。ランプの光が頁を照らし、鉛筆の文字が読み取れた。
「ケスラー、ホフマン、ツィーグラー、ベッカー。全員が元魔法省の文官です。三年前から二年前の間に、それぞれ別の場面で接触を受けています」
「接触の方法は」
「酒場での偶然の会話、宮廷行事での名刺交換、書庫での資料閲覧の際の雑談。いずれも自然な接触を装っています。同一人物の名前は出ていませんが、接触した人間の特徴を聞き取ったところ、三人がシュトラウスの外見と一致しました」
「残りの一人は」
「ベッカーに接触した人物は、シュトラウスとは別の人間です。四十代後半、やせ型、銀縁の眼鏡。ベッカーは名前を覚えていませんが、外交使節の随行員を名乗っていたと言っています」
ルクスはゲオルクの手帳を見た。鉛筆の文字が整然と並んでいる。四人の名前、接触時期、接触場所、聞き出された内容の要約。騎士の筆跡にしては細かい。
「聞き出された内容に共通点は」
「結界の維持体制と、宮廷魔導師の勤務実態です。全員に共通して、『夜間の巡回はあるのか』『一人で維持しているのか』『代替要員はいるのか』が聞かれています」
「代替要員の有無を確認している。つまり——」
「ルクスさんを排除した場合に、結界がどれだけの期間で崩壊するかを見積もっていた。追放を待つのではなく、追放を仕掛ける前に、崩壊までの猶予を計算していた可能性があります」
ゲオルクの声は報告の調子のままだった。ルクスの右手が、無意識にペンを握るように指を閉じた。追放は宰相フォーゲルの判断だと思っていた。だが四人の証言が示しているのは、もっと前の段階で結界の崩壊が計算されていたという事実だ。
「ゲオルク。東の楔で、不審な痕跡を見つけました」
「痕跡ですか」
「魔力の接触痕です。二週間から三週間前のもの。結界を復旧した直後の時期です。署名はシュトラウスのものと一致しません」
ゲオルクの手帳が閉じた。鉛筆が革紐に挟まれ、手帳が外套の内ポケットに戻った。
「別の人間が、楔に触れた」
「触れ方から見て、破壊ではなく調査です。構造を読み取ろうとしている。シュトラウスの干渉は楔に食い込む浸透型でしたが、この痕跡は表面を滑るように広がっています。手法が違う」
「ベッカーに接触した人物——シュトラウスとは別の、銀縁の眼鏡の男」
「今の段階では断定できません。ただ、時期は重なっています」
門柱の横で、ベルトラムが槍を握り直す音がした。老門番の耳に会話がどこまで届いていたかは分からない。ただ、東門を守る人間として、夜の往来に耳を立てている。
ルクスは手帳を出し、検知術式の設置記録を書いた。六つの楔、すべてに感応線を配置完了。東の楔に未知の魔力署名を検出。残留強度から接触時期は約二週間前。署名の特徴は表面走行型、低粘度。シュトラウスの署名との一致なし。
ペンを閉じた。
「明日、この痕跡の詳細な分析をします。署名の特徴を記録に残す必要がある。稟議の返答が来る前に、証拠を固めておきたい」
「承知しました。ベッカーにもう一度聞き取りをかけます。銀縁の眼鏡の男について、もう少し詳しい特徴が取れるかもしれません」
ゲオルクが歩き出した。靴音が石畳に落ちた。三歩進んで、振り返った。
「四人とも、聞き出されたことに気づいていませんでした。雑談の中で自然に答えていた。組織的な情報収集です」
「ええ。一人の工作員が動いていたのではない。複数の人間が、複数の経路で、同じ情報を集めていた」
ゲオルクが頷き、夜の路地に消えた。
東門の前で、ルクスは空を見上げた。結界が戻って三週間、空に亀裂はなく、紫色の変色もない。透明な防護膜が王都の上空を覆っている。
ルクスは手帳を外套のポケットに戻した。左手でポケットの口を押さえたとき、小指が布を掴み損ねた。他の四本は布地の感触を正しく返しているのに、小指だけが一拍遅れて追いつく。
検知術式は今夜から稼働している。次に楔に触れれば、署名が石に刻まれる。
だが二週間前の手は、もう触れ終えている。




