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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第二十四話 百二十一通目

 インクの匂いが、爪の間に染みていた。


 地下室の机に紙を広げたのは夜明け前だった。蝋燭が二本、高さの違う炎を立てている。一本は昨夜からの残り、もう一本は書き始める前に点けた新しい炎で、二つの揺れが紙の上で影を重ねている。


 百二十一通目。


 ペンを取り、書式の冒頭に日付を入れた。右手——癖で右手から始めてしまう。百二十通もそうだった。日付、宛先、分類番号、本文と決まった順序で、決まった書式に流し込み、決まった場所に置いて——そのまま積まれて終わった。


 ペンを置いた。


 百二十通の報告書は、事実だけを書いた。結界核の出力低下率、楔の劣化数値、魔力注入にかかる所要時間の推移。正確で、簡潔で、技術者としては非の打ちどころがない。フォーゲルが全通読み通したのは、結界が崩れた後だった。

 (十年。読み手の数は——ゼロだった)


 百二十一通目は、読まれる。


 フォーゲルが昨日示した経路——大臣会議への直接提出——は、読み手を変えるだけの話ではない。読み手が変われば、文章が変わる。技術報告を読み慣れた魔法省の文官に宛てるのと、結界という言葉の定義すら揃っていない十二人の大臣に宛てるのとでは、言葉の粒度が違う。


 ペンを取り直した。冒頭の日付を消し、一行空けて書き始めた。


 「結界防衛機構に関する現状報告——外部干渉の事実と技術的評価」


 題を書いてから、本文に入らなかった。右手の指先がペン軸の上で止まり、蝋燭の炎が一度傾いて戻った。


 百二十通は、十年間誰にも届かず、読まれたのは手遅れの後だった。百二十一通目は間に合わせる——だが間に合うことには、書庫に沈むのとは別の重さがある。事実が正しいだけでは足りない。事実の並べ方が、読む人間の判断を左右する。


 ルクスは手帳を引き寄せた。昨日の大臣会議で書き留めた走り書きが並んでいる。ハイゼンベルクの質問、エルドマンの沈黙、財務大臣と外務大臣の囁き。十二人の大臣の中で、結界の技術的な説明についてこられるのはハイゼンベルクだけだ。残る十一人は——理解する必要がない。理解しなくても判断できるように書く。


 一段落目。結界核の現状を三行で要約した。数字を二つだけ残し、単位を日常の言葉に置き換えた。「外殻修復率九割二分」を「十ヶ所の壊れた箇所のうち九ヶ所は塞いだ。残る一ヶ所は南の楔の接続部」に砕いた。


 二段落目。干渉の事実。東の楔で発見された魔力署名について、技術的な詳細を四行にまとめ、結論を先に置いた。「結界を壊す手口と、結界の構造を読み取る手口は別人によるものである」。


 二つの手口が同一組織の指揮下にある可能性は示唆した。保全局の名は伏せた。事実と技術だけを並べ、読んだ人間が自分で辿り着く構造にした。


 三段落目。署名の技法について。均速走行型が正規課程でのみ教授されること、その課程を持つ機関が三校に限られること。名前を挙げるのではなく、台帳上の事実として記した。


 書きながら、ペンの運びが変わっていくのが分かった。百二十通は自分のために書いていた——数字が正しければそれで良く、誰かの目の前で読み上げられる場面など想像もしなかった。百二十一通目は、相手のために書いている。正確さの上に、伝わる順序を重ねている。


 蝋燭の短い方が燃え尽きた。残った一本の炎が、紙の端を橙に染めている。窓のない地下室では朝が来たかどうか分からないが、石壁を通して冷えが薄くなっている。朝の気配だった。


---


 四段落目に差しかかった時、左手に力を入れた。


 ペンを右手から左手に持ち替えたのは、腕が疲れたからではない。確かめたかった。


 小指がペン軸に触れた。


 昨日の会議では掌の空気をかすめるばかりだった指先が、今朝は軸の丸みに沿って位置を定めた。握りきれてはいない。だが爪の腹がインクで湿った木肌を捉え、滑らずに留まった。


 親指から順に——親指、人差し指、中指、薬指、小指。五本すべてがペン軸の上にある。


 十年間、六つの楔に魔力を注ぎ続けた手だった。結界核の冷たい光を毎夜四時間受け止め、石の表面に指を押し当て、魔力の道筋を確かめ続けた手だ。


 追放された日、東門を出る時に荷を持ち上げようとして、左手の親指が滑った。あの朝から三十日以上が過ぎている。楔から離れた手が、楔の記憶を指先から一本ずつ手放して、今朝やっと最後の一本まで辿り着いた。


 左手で一行書いた。文字は太く、右手より力の加減が粗いが、インクの線は途切れずに紙の端まで走った。五本の指がすべて働いている。


 ペンを右手に戻した。報告書の続きに取りかかった。


---


 草稿の最終行を書き終えた時、石段を降りてくる靴音が二種類聞こえた。一つは革底が石を踏む硬い音で、もう一つは踵を落とさない慎重な歩き方だった。


 扉が開いた。フォーゲルが先に入り、ゲオルクが後に続いた。


 フォーゲルの目が、卓に広げられた紙に向いた。三枚。草稿の表面に、まだインクが乾いていない行がある。


「書けましたか」


「草稿です。書式はまだ整えていません」


 フォーゲルが椅子を引き、ルクスの向かいに座った。一枚目を手に取り、行を追い始めた。読む速度が、二段落目で落ちた。

 (止まっている。百二十通を素通りさせた目が、今——止まっている)


「——十ヶ所のうち九ヶ所は塞いだ、残る一ヶ所は南の楔の接続部」


 フォーゲルが声に出して読んだ。


「技術報告にしては平易ですね」


「大臣全員が読みます。魔法省長官ですら結界核の構造を説明できない場で、技術用語を並べても判断材料になりません」


 フォーゲルの白髪交じりの眉が動いた。反論ではなく、確認の動きだった。二枚目に移り、三段落目の署名の技法に差しかかって、指先が紙の縁を押さえた。


「三校の名前を挙げていますね。我が国と西方と——北の連合国」


「台帳上の事実です。照会ではありません」


「照会ではない。……そうですね。事実の報告です」


 フォーゲルが三枚目を読み終えた。紙を卓に戻す手が、一瞬だけ宙で止まった。白髪交じりの眉の下で、目が紙の最後の行に留まっている。


「書式は宰相府で整えます。ですが——」


 フォーゲルが一枚目の冒頭を指で叩いた。


「本文はこのままで結構です。直す必要がない」


 ルクスは頷いた。百二十通は、十年間赤を入れる人間がいないまま書庫に積もった。百二十一通目は、提出の前に「直す必要がない」と言う人間がいる。


 ゲオルクは扉の脇に立ったまま、手帳を開いていた。フォーゲルが草稿を揃えて立ち上がると、ゲオルクが一歩前に出た。


「アーレンハイト殿。一件、報告があります」


 ゲオルクの声は抑えてあったが、手帳を握る右手の指が白かった。


「今朝、外務省から通達が届きました。北の連合国より——新たな外交使節団の派遣通知です」


 フォーゲルの足が止まった。石段の手前で振り返り、ゲオルクを見ている。


「使節団」


「公式には視察目的です。四名編成、到着予定は七日後。通知には『魔導技術交流の促進』と記されています」


 魔導技術交流。報告書の三段落目に書いたばかりの言葉が、別の形で跳ね返ってきた。署名の技法を教える三校のうちの一つ——北の連合国の中央魔導院。その国から、結界が一度完全に落ちた王国へ、視察団が来る。


 前の視察団が来たのは、結界が崩れる直前だった。


「通知の日付は」


「三日前です。外務省が受理したのが昨日、宰相府への回付が今朝——」


「大臣会議に報告書を提出する前に、来ますか」


 ゲオルクが手帳に目を落とした。七日後。報告書が大臣会議の議事に載るまでの手続きを考えれば——際どい。


「間に合わせます」


 ルクスの声は静かだったが、右手がペンを取り、草稿の余白に「提出期限:五日以内」と書き込んだ。


 フォーゲルが草稿を胸に抱え直した。その顔に、行政官としての判断が戻っていた。


「書式の整備は明日中に終わらせます。提出の手続きは私が——」


「お願いします」


 フォーゲルが石段を上がっていった。靴音が遠ざかり、石壁に吸われて消えた。


 地下室に、二人が残った。ゲオルクが扉を閉め、壁に背を預けた。


「視察団の名簿は」


「まだです。外務省に確認を依頼しています」


 ルクスは頷いた。卓の上に目を落とした。


 草稿の抜けた三枚分の空白と、手帳と、インク壺。それから——卓の端に置かれた革鞄。


 追放の日に東門を出た時から、この鞄を下ろしていない。宿に泊まった時も枕元に置き、王城に戻ってからも官舎の椅子に載せたまま、棚には一度も移さずにいた。直したら去る。その前提が鞄の位置を決めていた。いつでも持ち上げて歩き出せる場所に。


 左手で鞄の取っ手を掴んだ。五本の指が革を握り、小指まで取っ手の縁に引っかかった。使い込んだ革の匂いが、指の熱で立ち上がる。


 十年分の荷を詰めたはずの鞄を持ち上げると、片手で持てるほど軽かった。それを卓の上——草稿があった場所に置くと、革底が紙の余白を押さえるように収まった。


 ゲオルクがその動作を見ていた。声は出さず、壁から背を離して姿勢を正した。顎を引き、踵を鳴らさずに両手を体の横に揃えた。


「七日あります」


 ゲオルクの声は平らで、問いかけの色を含んでいない。


「五日で仕上げます。残りの二日で、楔の検知記録を洗います」


 ルクスは目の前を見渡した。鞄の横に手帳とインク壺、燃え残りの蝋燭が並んでいる。


 百二十一通目の報告書は、もう書き終えた。あとは活字になり、大臣の手に届き、十二人の目に触れる。百二十通はフォーゲル一人が読んだ。百二十一通目は、十二人が読む。


 だがその報告書が届く前に、書いた内容の当事者が王都の門をくぐる。


 ルクスは蝋燭を吹き消した。地下室が暗くなり、石段の上から漏れる朝の光だけが残った。その光の中に鞄がある。机の上に置いたまま、もう椅子の背にも枕元にも戻さない鞄が。


 五日。報告書を大臣の手に届けるまでの猶予は、指で数えられる。

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