第二十話 照会状
石壁が水を吐く音がした。
地下室の隅で、夜通し冷えた岩盤が朝の外気を引き込み、表面に細かな水気が滲んでいた。指先で触れると、砥石の冷たさがある。ランプの炎が安定すると、その水がガラスの欠けのように光を砕いて壁を光らせた。
石段に足音が来たのは、ランプの光が広がりきる前だった。
ゲオルクの歩幅は普段より広くはない。だが靴底の着き方が朝の急ぎを含んでいた。
「外務省からです」
封筒を差し出した。外務省次官室の丸印が、右上の隅に押されている。
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ルクスは封を開けた。一枚目は様式のある回答文書、二枚目は補足の書き込みを含む別紙だった。
二枚とも読んだ。
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ヴェーバーの前任地は外務省北方課だった。
北方課は北連合国との外交書簡を管理し、外交使節団の受け入れ手続きを扱う部署だ。ヴェーバーは三年前の書庫着任まで、そこで一年間、記録管理と文書保全を担っていた。
書庫への転任は宰相府の人事決裁として処理されていた。ただし——別紙に書いてあった——決裁に署名した宰相府側の担当者の名前が、現在の在籍記録に存在しない。退職か、別の部署への異動か、次官室でも確認が取れていない。
ヴェーバーが北方課にいた期間に、北連合国関係の照合業務を担当した記録がある。照合対象は訪問者名簿と入国記録だった。その照合を指示した上位者の名前は、記録に残っていない。
ルクスは二枚目の別紙を卓に置いた。インクの乾いた紙が石の冷気で微かに反り、末尾に次官の手書きで一行が添えてあった——「当該決裁書類の原本は現在所在不明。複写記録により確認」
「北方課で訪問者名簿と入国記録を照合していた人間を、書庫に移した」
「前任のシュルツが退官するのに合わせて」ゲオルクが言った。「三年前の春です。視察団の来訪がその秋でした」
「着任から視察団まで、半年ある。半年で書庫の構造と棚の配置を把握させ、前任者の遺品の在処を確認させた」
「シュトラウスが単独入国した時点で、準備は終わっていた」
ルクスは回答文書と別紙を卓の上に並べた。
「北方課への着任は四年前です。書庫への異動が三年前、視察団来訪がその秋。ヴェーバーが北方課に配置された時点で、この工作は既に動いていた」
「四年前から」
「少なくとも。北方課で入国記録の照合を担当させるには、まずそこに着任させなければならない。誰かがヴェーバーを北方課に入れた。それがいつかは、まだ分からない」
「前歴を調べますか」
「次官室への照合依頼に続けて確認してください。北方課着任の前に何をしていたか——そこまで遡れれば、接触の起点が見えるかもしれない」
ゲオルクが手帳に書き入れた。鉛筆の先が紙を走る音が地下室に短く響いた。
ルクスはペンを手に取り、事件記録の新しい頁に「ヴェーバー転任——前任地は外務省北方課(北連合国担当)。決裁者の記録なし」と書いた。
「決裁した人間の追跡を外務省に頼めますか」
「次官室に確認します。ただし三年前の記録になります。人事担当の書記官が変わっていれば、聞き取りが必要です」
「続けてください。今日の午前中に宰相府へ報告する必要があります」
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宰相府のフォーゲルは執務室で書類を処理していた。ルクスが入ると、卓の左側に書類の束を移して場所を作った。前と同じ動作だ。
回答文書の二枚を卓の上に置いた。フォーゲルは一枚目を手に取り、読み始めた。
読むのに時間がかかった。それは資料の量のせいではなく、読みながら意味を組み立てていたせいだ。一枚目を置いて、二枚目を取った。別紙を読んでいる間、フォーゲルの眉が微かに動いた。読み終えると、二枚を重ねて卓に置いた。
「ヴェーバーは外務省にいた頃から、動かされていた」
「そう読めます。北方課での照合業務が、書庫着任の準備だったとすれば——誰かが三年以上前から、この配置を計画していたことになります」
フォーゲルは文書から目を上げた。
「決裁した人間の名前が残っていない」
「現在確認中です。記録が見つかれば、指示した側と実行した側の経路が繋がります」
「見つからない可能性は」
「意図的に消されているなら、見つからないでしょう。記録がないこと自体が、既に証拠の一つになります」
フォーゲルは立ち上がり、窓へ向かった。宰相府の窓からは中庭が見える。春の光が石畳に落ちて、先月の修繕で積んだままの残材が端に見えた。
「保全局です」
フォーゲルが言った。振り返らずに。
「それが現時点で最も整合性の高い推定です」
「予算があり、人員があり、外交上の隠れ蓑がある。宰相府の人事決裁を偽造する経路がある。これだけの体制を、現場の工作員二人が個人で持てるはずがない」
「外務省の訪問者名簿の照合も同じ意図です。シュトラウスの入国を管理するために、北方課の内側に人間を置いた。ヴェーバーはその一つでした」
フォーゲルが窓から離れ、卓に戻った。椅子に座り、指先で文書の端を押さえた。卓の表面には古いインクの染みがある——ルクスが最初にここで報告書を広げたとき、既にそこにあった。フォーゲルはその染みの上に文書を置き、顔を上げた。
「照会を出します」
ルクスは一拍待った。
「保全局に、正式な照会状を出します。ヴェーバーの人事操作と、北方課における照合業務への保全局の関与を問います」
「承知しました」
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待っている間、ルクスは廊下で壁に背を預けていた。ゲオルクが隣に立ち、手帳を開いたが鉛筆は革紐に挟んだままにした。
執務室の扉が開いた。書記官が出てきた。若い男で、書類の束を抱えていた。
「一点確認がございます。保全局は国王直属の機関でございますため、宰相府からの通常照会には回答義務が生じません」
ゲオルクの手帳が膝の前で止まり、革紐が指先に巻きついた。
「手続き上、国王の承認印を伴う正式な照会でなければ、受理されません」
扉の向こうで、フォーゲルの声がした。
「分かった」
扉の向こうで、紙を置く音がした。
「国王への稟議を上げます。稟議書の起草を」
「承知しました」
書記官が廊下を下がった。扉が閉まった。
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宰相府の外へ出たのは昼前だった。
春の外気が、石の冷えと替わった。中庭を抜ける間、ゲオルクが先を歩いた。
「通るかどうかは分かりません」
ゲオルクが言った。前を向いたまま。
「ええ」
「稟議が通れば、保全局が正式に動くことになります。回答次第では、シュトラウスの工作と保全局の関与が公式に繋がる。通らなければ——」
「別の経路を探すことになる」
「保全局が政治的に保護されているなら、稟議を通した後でも回答が来ない可能性があります」
「その場合は、回答が来ないこと自体が記録になります」
城門を出て、東区へ向かう石畳に入った。午前中の市場はまだ荷下ろしの時間で、荷車の軋む音と積み荷の掛け声が路地に重なっていた。春の朝の匂いがある——土と馬糞と、雨が残った石畳の継ぎ目の水の匂いが混じっている。結界が戻って三週間が経ち、城下の日常は少しずつ音を取り戻していた。
振り返ると、宰相府の二階の窓に灯りが見えた。
昼前の光の中で、窓の橙色は目立たない。それでも、灯りはついていた。稟議書を起草する人間のためのランプが。
ルクスは向き直り、路地を歩いた。
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地下室に戻ると、机の上に事件記録が開いたままあった。昨日書いた最後の行——「本記録は工作の経緯だけでなく、工作を許した制度上の欠陥を併記する」——の下に、余白があった。
椅子に座り、ペンを手に取った。
今日分かったことを書いた。
「外務省回答を受領。ヴェーバーの前任地は外務省北方課。北連合国関係の入国記録の照合業務を担当。着任時の転任決裁者が記録に残っていない。人事への外部干渉が確認された。宰相府より保全局への正式照会を準備中。国王の承認を要するため、稟議手続きに入った」
事実だけ書いた。稟議が通るかどうかは、まだ書けない。
ペンを置き、記録の束を見た。
十年分を書かなければならない。ヴェーバーが北方課に着任したのは四年前だ。シュトラウスが最初にこの王国の入国記録に現れたのはいつか——それを調べれば、工作の起点がさらに遡る可能性がある。
前任者のディートリヒが死んだのは、十年前だ。工作の起点がそこまで遡るなら、この記録には十年分の事実が必要になる。
十年分を書くには、ディートリヒが生きていた時間まで書かなければならない。手記はない。書庫の棚は空だ。手記から読み取った断片の記憶と、干渉痕から拾った前任者の魔力の質と、ゲオルクが集めた証言だけが残っている。それを使って書く。
ルクスは新しい頁を開いた。
窓のない地下室では、昼も夜も同じ暗さだ。ランプの炎が一定で、外の光は届かない。それでも、宰相府の二階で灯りがついているという事実は変わらない。
ペンを走らせた。
手順書はフォーゲルの執務室の金庫にある。今日から稟議書が宰相府で起草されている。事件記録はこの机の上にある。三つの文書が、別々の場所に存在している。百二十通の報告書は誰にも開かれないまま書庫の棚にある——それとは別の、今日書き始めた文書が一つ。
事件記録はまだ序盤だ。




