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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第十九話 使われなかった機会

 インクの匂いが濃かった。


 地下室の卓上に広げた白紙に、ルクスは前日から書き始めた事件記録の続きを書いていた。手順書とは別の文書——結界破壊工作の経緯を、時系列に沿って並べるための記録だ。


 ペンが紙の上を走る音と、ランプの炎が油を舐める微かな音。地下室の石壁は冷えて、指先に触れる紙が乾いていた。


 三行目で手が止まった。


 「三年前の秋」と書いて、その次を書けずにいた。三年前の秋には二つの出来事がある。一つは視察団の来訪。もう一つは、楔の異常を検出したこと。視察団のことは七十一通目の報告書に書いた。楔の異常は、緊急報告書に書いた。


 あの緊急報告書には何を書いたか——ルクスは記憶をたどった。


 北の楔の魔力流が乱れていた。通常の劣化では説明のつかない周波の揺れが、十月の定期点検で検出された。六つの楔のうち北が最も古く、建国期の基礎構造がそのまま残っている。微弱な異常でも見逃すべきではない箇所だ。原因不明、継続監視を要請——そう書いて提出した。


 宰相の机の上で、文鎮の下敷きになった。


 ペンを置いて卓の上に紙を並べ、左手で端を押さえた。指に紙の質感が伝わる。小指だけがわずかに遅れて力が入るが、紙を押さえる程度なら支障はない。


---


 石段を降りてくる靴音が聞こえた。


 革底が石を踏む音の間隔が一定で、速くもなく遅くもない——ゲオルクだった。普段より少しだけ歩幅が狭い。足音が地下室の入口で止まり、一拍おいて降りてきた。


「証言が取れました」


 ゲオルクは卓の前に立ち、手帳を開いた。手帳の角が折れている——何度も同じ頁を開いた形跡だった。


「魔法省の旧同僚、アダム・ケスラー。元魔法省研究員、現在は民間の術式工房で働いています。三年前の秋に一度だけ、見知らぬ人間から接触を受けた。酒場で声をかけられ、一杯奢られ、世間話をした」


「世間話の内容は」


「楔の構造です。ケスラーは魔法省在籍時に楔の補修記録を扱った経験がある。接触した人間は、楔がいくつあるか、どこに打ち込まれているか、通常の維持に何が必要かを尋ねた。ケスラーは『概要程度は話した』と言っています。楔が六つあること、地下深くに打ち込まれていること、毎夜の魔力注入が必要なことは答えた」


 ルクスはペンを手に取り、事件記録の紙の端に、「ケスラー 三年前 楔の基礎情報」と書いた。


「接触した人間の容姿は」


「ケスラーの証言では、四十前後の男、背が高く、眼鏡をかけていた。話し方に訛りがあり、北方の出身だろうと感じたと。名前は言わずに去った、と」


「ブレンナーの人相書と照合しましたか」


「完全には合いません。ブレンナーの記録にある容姿は三十代前半、眼鏡の記載なし。ただし記録は十二年前のものです。年齢と外見が変わっていれば矛盾しない」


 ゲオルクが手帳を閉じた。鉛筆が手帳の革紐に挟まっていて、閉じる音と一緒に小さく鳴った。


---


 ルクスは卓の上の事件記録を見た。


 三年前の秋。北の楔に異常が出た。同じ秋に、魔法省の元研究員が見知らぬ人間から楔の基礎情報を聞き出されていた。


 ペンの軸を指で回した。


 三年前の秋にはもう一つ、動きがある。シュトラウスが視察団に紛れて入国した時期だ。外務省の記録では、視察団の到着日より一日早く単独入城している。


 三つが同じ季節に重なっている。楔の異常検出、旧同僚への接触、シュトラウスの入国。


 偶然で三つが揃うことは、ない。


 ルクスは紙の上に横線を一本引いた。線の上に「三年前・秋」と書き、線の下に三つの出来事を並べた。そこに四つ目を加えた——緊急報告書の提出。ルクス自身が書いて、宰相に出したもの。


 四つの出来事が同じ線の上に並んだ。


 事件記録の別の紙を取り、時系列を整理した。ゲオルクが黙って立ったまま、ルクスの手元を見ていた。


「ケスラーへの接触で得た情報は、楔の概要です。六つあること、地下にあること、毎夜の注入が必要なこと——それだけでは破壊工作はできない。位置を特定するには、もっと詳しい情報が要る」


「手記です」


「手記か、あるいは書庫の記録です。ケスラーの情報は予備調査にすぎない。本命の情報源を探すために、まず大枠を掴む——そういう手順だった」


 ルクスはペンを紙の上に置いた。インクの先端が紙にわずかな染みを作った。


「三年前の秋に楔の異常が出た。それをルクスが検出し、緊急報告書を出した。しかし報告書は読まれなかった。読まれていれば——」


 ゲオルクが言いかけて、止まった。


 ルクスは卓の上の時系列を見ていた。四つの出来事が横に並んでいる。その横に、五つ目を書き加えた。「緊急報告書——未読」。


「読まれていれば、三年前の時点で楔の異常が調査されていた。調査すれば干渉痕が見つかった可能性がある。干渉痕が見つかれば、外部からの工作だと判明していた。判明していれば、視察団との関連を精査できた。精査すればシュトラウスの動きに気づけた」


 一つずつ、指で紙の上の項目を押さえながら言った。五つの事実を順に辿り、最後の項目で指が止まった。


「三年前に読まれていれば、ここまでの被害は防げた」


 言い終えると、ルクスの右手はペンに戻っていた。地下室のランプの炎が一度揺れ、石壁に映る影が動いた。


---


 ゲオルクが一歩、卓に近づいた。


「報告書を読まなかったのは宰相です」


「宰相だけではない。報告書の送付先は宰相府と魔法省の二箇所です。魔法省にも同じ内容を送っている。どちらも目を通していない」


 ルクスは紙の束を揃えた。事件記録と時系列表を重ね、端を指で叩いて整えた。


「ただ——これは責任の所在の問題ではない」


 ゲオルクの靴音が止まっていた。


「責任の話をしているのではありませんか」


「していない。事実の確認をしている」


 ルクスは卓の上の事件記録に視線を戻した。


「三年前に報告書が放置されたことは、工作を容易にした要因の一つです。だが原因ではない。原因は保全局の工作そのものです」


 ルクスは紙の端を指で押さえた。


「報告書が読まれていたとしても、保全局が別の手段を取った可能性はある。防げたかもしれない。防げなかったかもしれない。確実に言えるのは、三年前に一度、機会があったということだけです」


「機会があった」


「使われなかった機会が。百二十通のうちの一つとして」


 ゲオルクは手帳を外套の内側に戻した。革と布が擦れる音がした。


---


 しばらく、二人とも黙っていた。


 ランプの油が減って、炎が低くなっていた。石壁に染みた湿気の匂いが、インクの匂いに混じっている。


「ケスラーの証言で、もう一つ確認したいことがあります」


 ルクスが先に口を開いた。


「接触した人間は一人でしたか。それとも、別の機会に別の人間が来ていませんか」


「ケスラーに確認します。ただ——他の旧同僚にも同じ接触があった可能性は」


「ある。ケスラーだけとは限らない。魔法省の研究員で楔に関する知識を持つ人間は、ケスラーの他にもいたはずです。三年前に退職した研究員のうち、同様の接触を受けた者がいれば、工作の規模が見える」


 ゲオルクが手帳を再び出し、鉛筆を抜いた。書き込む音が地下室に小さく響いた。


「研究員への聞き取りを広げますか」


「広げてください。ただし範囲を決めます。楔の構造に直接関わった者に限定する。それ以外は情報を持っていないから、接触される理由がない」


「了解しました」


 ゲオルクが石段へ向かった。靴底が石を踏む音が二歩分聞こえたところで、ルクスが声をかけた。


「ゲオルク」


 靴音が止まった。


「ケスラーに接触した人間が、ブレンナーかシュトラウスかは、今の段階では断定できない。だが、どちらであっても同じことが分かります。これは一人の人間の判断ではない。組織として情報を集めていた」


「保全局の方針として、ですか」


「方針として。予備調査があり、実行があり、回収がある。少なくとも三段階の計画です。一人の工作員が個人的に動いた痕跡ではない」


 ゲオルクは石段の途中で背を向けたまま、「分かりました」とだけ言い、階段を上がっていった。靴音が遠ざかり、地上の扉が閉まる音がした。


---


 一人になった地下室で、ルクスは卓の上の時系列表を見た。


 横線の下に並んだ五つの項目。最後の一つ——「緊急報告書——未読」の文字に、ペンの先を置いた。


 百二十通の報告書のうち、一通でも読まれていれば、何が変わったか。


 答えは出ない。出ないが、三年前の緊急報告書に関しては具体的な帰結が描ける。読まれていれば調査が始まり、干渉痕が見つかり、工作の端緒が掴めた可能性がある。その可能性を誰も検証していない。検証する人間が不在だったのではない——報告書を開く人間がいなかった。


 怒りとは違う。怒りは百二十通の報告書で使い果たした。今ペンが追っているのは因果の線だけだ。


 ルクスはペンを取り、事件記録の新しい頁を開いた。


 書いた。


 「三年前の秋、北の楔に周波の乱れを検出。同時期に魔法省旧研究員への外部接触を確認。緊急報告書は宰相府に提出済みであったが、措置は取られなかった。以上の事実から、工作は少なくとも三年前には実行段階に入っていたと推定される」


 事実だけを書いた。解釈は省いた。読む人間が判断すればいい。


 ペンを置き、インクが乾くのを待った。ランプに油を足した。明るくなった炎が紙の表面を照らし、今書いた文字の輪郭が鮮明になった。


 事件記録はまだ序盤だ。三年前の出来事は全体の一部にすぎない。十年前——ブレンナーがディートリヒの手から魔力を抜いた時から、この工作は始まっている。


 十年分を書かなければならない。


 そしてもう一つ——フォーゲルへの追加照会の結果がまだ来ていない。ヴェーバーの転任時期と視察団の到着時期の照合。それが揃えば、人事への干渉経路が見える。見えれば、保全局の工作がブレンナーとシュトラウスだけでは完結しないことが証明される。


 保全局一組織の判断で、十年間の工作が維持されるのか。予算があり、人員の配置があり、偽造書類があり、外交上の隠れ蓑がある。それだけの体制を、末端の工作員二人が個人で調達できるとは思えない。


 ルクスはペンを置いたまま、地下室の天井を見た。石の天井に、ランプの炎がつくる光の輪が揺れている。


 制度の問題だ、とルクスは思った。


 報告書が放置されたことも、工作が十年間素通りしたことも、前任者の死が病死として処理されたことも——全て、この王国の制度が素通りさせた結果だ。個人の怠慢はある。だが怠慢を許す仕組みが先にある。


 宮廷魔導師の席は末席だった。報告書の送付先は二箇所しかなく、どちらにも読む義務が課されていない。結界の仕事は「見えない仕事」で、見えない仕事には予算も人員もつかない。その構造が、十年間そのまま残った。


 個人を追うだけでは足りない。構造を書き残さなければ、また同じことが起きる。


 事件記録の表紙に、一行書き足した。


 「本記録は工作の経緯だけでなく、工作を許した制度上の欠陥を併記する」


 書き終えて、ペンを置いた。油を足したランプの炎が安定していた。書くべきものの量が見えてきた——十年分の事実と、それを可能にした構造の全体。手順書の十五頁より、長くなるだろう。


 外務省の回答は、まだ来ていない。

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