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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第十六話 南の楔の傷



 大聖堂の裏手は、朝でも影が深かった。


 建物の北壁が太陽を遮り、墓地の一角には昼前まで光が届かない。石畳の縫い目に苔が育ち、足を置くたびに湿った音がした。空気が重く、水の匂いがする。石と土が混じった匂いだ。


 ルクスは墓石の列を進んだ。


 南の楔はここにある。大聖堂の墓地の地下、礼拝堂の基礎石から東へ十五歩の位置に埋まっている。前任者から引き継いだ手記に、そう書いてあった。手記はもうない。だが数字は覚えている。


---


 「ディートリヒ・ライナー」の名が刻まれた墓石は、外壁際の列にあった。


 石灰岩の板。幅五十センチ、高さ七十センチ。彫りが深く、刻み目はまだ鋭い。没年は十年前。享年は刻んでいない。職名もない。宮廷魔導師として二十年を過ごした人間の墓にしては、情報が少なすぎる。


 墓石の表面に、薄い変色があった。


 石灰岩が持つ白の中に、くすんだ紫が沈んでいる。石の色ではない。魔力の残留物が石に染み込んだ跡だ。時間が経つと石の中で変質し、こういう色になる。十年という時間をかけて、石に定着した色だった。


 ルクスは手袋を外した。右手の指を墓石に当てた。冷たかった。石灰岩は日中も温まらない。


 魔力を流した。


---


 一層あった。


 だが、薄い。


 ルクスは指を這わせた。上から下へ、左から右へ。残留の分布を確かめた。集中している箇所と、抜け落ちている箇所がある。抜け落ちた痕というのは、魔力の抽出が行われた後に残る形だ。スポンジから水を搾り出したように、一定方向へ向かって魔力が引き抜かれている。


 引き抜いた方向を追った。地下へ。さらに深く。


 南の楔の方向と一致していた。


 ディートリヒの魔力は、墓ではなく楔に向かって抜かれた。


 生きているうちに。抽出された。


---


 「何が分かりましたか」


 ゲオルクが後ろから言った。墓地の中では靴音を立てない男が、それでも気配で分かった。


「ディートリヒの魔力が抜かれた跡があります。楔の方向へ。生前に行われた抽出です」


「つまり」


「魔力を搾り取って、楔の維持に使った。私が着任するまでの繋ぎとして」


 ゲオルクが黙った。石畳を踏む音がした。一歩、近づいた。


「前任者を殺して、その魔力を楔の維持に流用した——そういう理解でいいですか」


「はい」


 ルクスは手を引いた。石の冷たさが指先に残っている。手袋をはめた。


「ディートリヒが死んでも結界が崩れていたら、後処理が複雑になる。私が着任するまでの繋ぎだけ保てれば十分だった。効率的に設計されています」


「計画されていた」


「少なくとも十年前から」


---


 墓石を見た。


 没年だけある石。刻字は名前と年号の二行で途切れ、その下に石の白い面が続いている。二十年の勤務に対して、二行。埋葬を手配したのは宮廷の庶務係だったはずだ。ルクスが引き継いだ際、前任者の埋葬費用の精算書類が官舎の引き出しに入っていた。紙一枚と、この石。


 「功績なし」として追放されたルクスの墓は、同じようになるだろう。あるいは王都外の無名墓地に入るかもしれない。どちらでも構わない——そう思っていた。今も思っている。ただ今は、ディートリヒの石の前に立って、同じ感想を繰り返したとき、何かが喉の奥で止まった。


 ルクスは墓石から離れ、楔の位置まで歩いた。


 礼拝堂の基礎石から東へ十五歩。ここに楔がある。深さは地下三メートル。地面の下に、石で固められた魔導柱が埋まっている。


 地面に膝をついた。右手を草地に押し込んだ。冷たい土の感触が掌に伝わる。草の根が指の間に食い込んだ。


 魔力を流した。


 南の楔を感じた。六つの中で最も状態がいい。墓地の土は水分が多く、楔の保持力が高い。ルクスが補修し始めた十年前から、他の楔より劣化が遅かった。


 楔の表面に、古い傷がある。


 干渉痕だ。今回の工作のものではない。もっと古い。輪郭が甘くなって、石の模様に溶けかけている。年単位で劣化した痕だ。


 別の人間の手が、ここに触れていた。


「二種類の干渉痕があります」ルクスは言った。膝をついたまま言った。「最近のものと、古いもの。古いのは十年前前後のものです」


「シュトラウスではない、ということですか」


「技術体系が異なります。別の人間です。十年前に王国に潜入していた先行工作員がいた。その人間が楔を調べ、前任者の魔力構造を把握した。情報をシュトラウスが引き継いで今回の工作に使った、という流れが成立します」


「前任者を殺したのもその先行工作員か」


「状況的には、そう見るのが自然です」


---


 ゲオルクが手帳に書き込んでいる間、ルクスは地面に手を押しつけたまま、ゲオルクの筆音を聞いていた。


 土が冷たい。草の根が掌に食い込む。楔の表面に古い傷がある。


 十年前、誰かがここに触れた。ディートリヒが毎夜魔力を注いでいた楔を、別の目的で調べた手がある。ディートリヒはそれを知っていたのか。知っていたとすれば、手記に書いていたはずだ。手記を読めば答えが出たかもしれない。


 手記はもうない。


 ルクスは立ち上がった。膝に土がついている。手を払った。


「墓地の管理人に聞いてください。ディートリヒが埋葬された日、誰が立ち会ったか。参列者の中に外部の人間がいなかったか」


「確認します」


 ゲオルクが手帳を閉じた。


---


 墓地を出る前に、管理小屋を覗いた。蝋と古い紙の匂いが、扉の隙間から漏れていた。管理人の老人は、ルクスの問いを不審そうに聞いた。


「十年前の埋葬記録ですか。そんな昔の話を」


「確認したいことがあります」


 老人は棚から台帳を引き出した。十年前の秋、ディートリヒ・ライナーの埋葬記録があった。参列者の名前が三つ並んでいる。宮廷庶務係の担当者と、魔法省の下っ端文官二名。顔を覚えていないか、と老人に訊いた。


「参列者は全員、宮廷の人間でしたよ。外の人間は来ていない。静かな葬儀でしたね。泣いている人も、特に」


 老人は首を振った。


 ルクスは台帳を返した。三つの名前。二十年間の勤務の、最後の記録がそれだった。


---


 帰り道、大聖堂の正面を通った。石畳を踏む靴音が、墓地の中よりも高く響く。


 礼拝時間の前で、扉は閉まっていた。石の柱が光を受けて白く見える。その壁に、細い黒い線が走っている。今年の結界崩壊で生じた「魔力の焦げ」だ。城壁にも走っていた。市場の柱にも。王都の構造物に、まだらに残っている。


 ディートリヒが二十年かけて守った城壁が、崩れた線を持っている。ディートリヒが死んだ後も、その仕事をルクスが引き継いで、それでも崩れた。


 ルクスは再び歩き始めた。


 次の楔の点検に向かう前に、地下室に戻る。南の楔の点検記録と古い干渉痕の詳細を手順書に書き加える。


 先行工作員の名前。十年前に王国に潜入した人間。ゲオルクが当たっている所在不明の魔導師の線と、どこかで交差するはずだ。


 交差したとき、ディートリヒを殺した人間の輪郭が見える。


 路地を抜けると、市場の南端に出た。荷車が往来している。八百屋の前に人だかりがある。朝の市場は騒がしく、大聖堂の静けさとは別の空気だ。


 ルクスは人込みの隅を歩いた。石畳が乾いている。墓地の苔の湿気が、靴底にまだ残っていた。


 手順書の十二頁目に、南の楔の項目を書き加える。古い干渉痕については別項を立てる。先行工作員の存在は確定していないが、仮説として記録する。後任が読んだとき、調査の経緯が追えるように。


 自分が去った後に、誰かが続けられる形を残す。前任者がそれをしてくれれば、十年間の試行錯誤の一部は省けたはずだ。


 省くことができた部分が、この足元の石畳の下に眠っている。ディートリヒが記録として残せていたはずのもの、全部。



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