第十五話 百二十通の重さ
宰相府の執務室に、百二十通の報告書が積まれていた。
フォーゲルはその前に座っていた。朝の六時だった。執務室の鍵を自分で開けてきた。係の者が来る前に読み始めたかった。
窓から差し込む朝の光は、まだ角度が低い。長い影が紙の束を横切っている。冷えた空気に、古紙と蝋の匂いが薄くこもっていた。表紙に「宮廷魔導師 月次報告」とある。一番上の通は、三年前の十月付だった。
昨夜、書庫の担当係に命じて運ばせた。係は怪訝な顔で従った。理由は話していない。
フォーゲルは一通目を開いた。
紙の束は重かった。一通一通、それぞれに重さがある。まとめると腕に応える。
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第一通。十年前の冬。
乾いた紙が、指先でかすかに鳴った。
ルクスが着任した月の報告書だった。
字が細かい。余白が少ない。結界の現状、楔の状態、前任者が残した記録との照合、着任初日から始めた補修作業の内訳。数字が並んでいる。魔力残量、補修時間、材料の消費量。
フォーゲルは読んだ。
十分もかかった。一通で十分。百二十通。頭の中で計算が始まって、すぐ止まった。
次の通を取った。
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三通目には、北の楔の劣化率が急増したことが記されていた。
束の角が、指先をざらりとこすった。
六通目には、東の楔の基部に亀裂が入り、補修に通常の倍の時間がかかったと書いてあった。
十一通目には、魔力の注入経路に詰まりが生じ、自前の術式で迂回路を設けたと書いてあった。迂回路の設計図が別紙に添付されていた。フォーゲルは別紙を広げた。魔法陣の線が細かく、数式が欄外まで走っていた。
専門外だ。意味が読み取れない。
ただ、量は分かった。
一通ごとに、同じ重さの紙がある。十年間、ずっと。
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三十七通目。五年前の夏。
めくった途端、古いインクの匂いがわずかに立った。
楔の洗浄作業を行った。北の楔の基部に蓄積した黒い結晶を除去するのに一晩かかった。作業後、左手の感覚が一時的に低下した。翌朝には回復したが、補修作業への支障が懸念されるため報告する。
フォーゲルはその行を二度読んだ。
左手の感覚が低下した。翌朝に回復した。補修への支障が懸念されるから、報告する——その報告先は宰相府だ。フォーゲルのところへ来るはずだった。
来ていた。
来ていた——この束の中に。五年間、ここにあった。
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五十二通目。四年前の春。
紙の端が指先の皮を擦り、白い筋が残った。
書庫の手記三冊のうち一冊が劣化しているため、複写を依頼したい。魔法省の写字担当に申請したが、「予算外」として却下された。複写費用の予算措置を検討されたい。
フォーゲルの手が止まった。
予算措置の申請が書いてある。正式な申請だ。
返答した記憶がない。
記録を確認すれば分かるかもしれない。だが今、確認している暇はない。先を読む必要があった。
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七十一通目。三年前の秋。
抜き出した一枚の重みで、束の底が机を打ち、鈍い音が返った。
緊急報告書と同じ時期だった。
フォーゲルは緊急報告書の場所を覚えている。自分の机の上に届いた書状で、他の案件と重なっていたために後回しにした。そのまま文鎮の下に入った。
七十一通目の内容は、緊急報告書の前段だった。
三週間前、北の連合国の視察団が来訪した。王城の地下への立入りを希望したが、断った。その際、案内役の外交官の一人が「結界核の位置について詳しい」という印象を受けた。入手経路が不明であるため、外交ルートでの確認を推奨する。
外交ルートでの確認。
誰がやったのか。
フォーゲルは七十一通目を机の端に置いた。別に分けた。
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八十九通目。二年前の冬。
紙をめくる音だけが、静かな執務室で妙に大きい。
報告書の文体が変わっていた。
それまでは一文が長く、数字が多く、事実の羅列だった。八十九通目は短い文が増えていた。
結界の劣化は加速している。現在の補修ペースでは、楔の寿命が従来の試算より二年短くなると予測される。人員の追加配置または補修材の増量を検討されたい。
人員の追加配置。
宮廷魔導師は、一人だった。十年間ずっと。「追加配置」する先が、どこにあったのか。
フォーゲルはその行を指で押さえた。追加配置の申請。返答の記録が残っていれば、誰が止めたか分かる。残っていなければ——それも一つの答えだ。
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百十五通目。半年前の初秋。
乾いた紙粉が指先に残った。
今期の補修で、六つの楔のうち二つに不自然な干渉痕を発見した。自然劣化の範囲を超えている。外部からの意図的な操作の可能性がある。詳細な調査を推奨するとともに、城の地下への立入り制限の強化を要請する。
フォーゲルは立ち上がった。
窓の外に王城が見える。尖塔が朝の光を受けて白く見える。その地下に、六つの楔がある。
六つのうち二つに、不自然な干渉痕。
半年前にルクスはこれを書き、送ってきた。返答は来ていない。誰かの机で止まった。誰の机かは調べれば分かる。
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扉板が乾いた音を立てた。
「入れ」
若い文官が顔を出した。
「宰相閣下、ルクス・アーレンハイト殿が参っておられます」
フォーゲルは百二十通の束を見た。別に置いた七十一通目を見た。
「通せ」
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ルクスが入ってきた。冷たい廊下の空気が一緒に流れ込んだ。灰色のローブ。目の下に隈。手に手順書の束を持っている。
「手順書が完成しました」
机の前に立ったが、椅子に近づかない。
「置いてください」
ルクスが机の端に手順書を置いた。その隣に、百二十通の束があった。ルクスがそれを見た。一秒だけ見て、視線を戻した。
「報告書です」
フォーゲルは言った。
「あなたが提出した、百二十通の。昨夜読みました。全通」
ルクスの口が閉じたまま動いた。何かを押し込んだ形だった。
「七十一通目」
フォーゲルは別に置いた報告書を指した。
「連合国の視察団について、外交ルートでの確認を要請していた」
「誰が対応したか、確認します」
「それは、握りつぶされた可能性があります」
「可能性で止めません。まず確認します」
ルクスがわずかに止まった。フォーゲルの声が、百二十通を読んだ後の声になっていた。
「百十五通目」フォーゲルは続けた。「二つの楔に干渉痕。あなたが報告した時点で、すでに工作は始まっていた」
「はい」
「返答が来ていた」
「来ていません」
「催促の控えだけが残っています」
フォーゲルは窓を向いた。尖塔が光を受けている。半年前、その光の下で、六つの楔のうち二つが外部から触られていた。ルクスがそれを書き、フォーゲルの机に届いた。別の机で止まった。
「手順書は受け取りました。工事担当に引き渡す前に、私が先に読みます」
ルクスが返事をするより先に、フォーゲルは立ち上がった。
「七十一通目の件で、外務省に照会を出す。今日中に」
ルクスは扉の方を向いたまま、立ち尽くした。背中だけが見えた。扉に手をかける前で、指先が一度止まった。
「一つだけ訊いていいですか」
「どうぞ」
「手順書を読んだ後で、あなたは何をするつもりですか」
フォーゲルは間を置いた。答えは決まっている。
「引き継ぐ人間を探します」
「あなたが去った後も、次の人間が続けられる体制を作る。それが私の仕事です」
ルクスが扉を開けた。冷えた廊下の空気が細く流れ込んだ。
振り返らずに歩き出す。
石廊下で跳ねた靴音が角を折れ、鐘の音の中へ消えた。
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フォーゲルは机に戻った。椅子が小さな音を立てた。
百二十通の束が残っている。七十一通目だけが横に置いてある。手順書が新しく積まれた。束の中にはまだ読み残した通がある——ルクスが最後に書いた、百二十通目。その紙がまだ視界の端に見えていた。
窓の外で鐘が鳴った。朝の九時。執務の始まりを告げる音だ。
フォーゲルは照会状を書き始めた。宛先は外務省次官。件名は「三年前の連合国視察団に関する照会」。日付を書き込む手が速かった。
百十五通目の報告書が、机の隅にある。六つの楔のうち二つに、干渉痕。この紙に触れた手は、今朝のフォーゲルが最初だ。照会状が、百十五通目に対する最初の返答になる。




