第十四話 廃棄された証人
ゲオルクの靴底に水気があった。
石段を降りてくる音で分かる。水を含んだ革は乾いた革より一段低く鳴り、朝の地下室でルクスはその違いに顔を上げた。濡れた外套の裾が石段の角を打つ。市場の北、廃棄物の流れ込む東水路の方だ。
「ヴェーバーが見つかりました」
ゲオルクが言った。
三秒あった。ルクスはペンを置いた。インクが紙に広がって、小さな染みになった。
「どこで」
「東水路の下流です。夜明け前に、水汲み人夫が見つけました」
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検視所は市場の北側にある石造りの狭い建物で、南向きの窓がない。冬でも夏でも同じ冷気が床際に溜まり、石の匂いに薬草と油の匂いが混じっていた。
担架の上にヴェーバーがいた。
痩せた体で、眼鏡を外した素顔の目元は細い。肌は青白く、指先は水に長くいた人間の色に変わっていた。
ルクスは傍に立って、右手首を見た。
検視官が上着の袖をめくると、皮膚に細い黒線が走っていた。焼けた色ではなく、魔力の過通過で繊維が壊れた跡だ。線幅は二ミリほどで、手首の内側から肘の方向へ伸びている。
「これは何でしょうか。焼き傷でも、刃物の跡でも」
検視官が訊いた。三十代の男で、死因判定の経験はあるが魔導には疎い。
「術式の痕です」
ルクスはそれだけ答えた。
ゲオルクが検視官を廊下へ連れ出し、「廊下でお待ちください」とだけ告げた。検視官は問い返さず、扉の外へ下がった。
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ルクスは左手を出した。
指を五本とも伸ばした。小指はわずかに震えていたが、今日は親指から薬指まで安定しており、術式を読むには十分だった。
焦げ痕に指腹を当てた。魔力を流した。
皮膚の保持力は布より低い。残留は薄い。だが、あった。
二層。
一層目はヴェーバー本人のもの——弱い。宮廷書庫管理官程度の魔力量だ。強度はなく、長年の事務仕事の惰性が染みついている。丁寧で均一で、紙の折り目を角まで揃えるような魔力だった。
二層目は、深い。
強い制御を持つ魔力の塊が一層目の下に刻み込まれている。刻印というより焼印に近い。ヴェーバーの魔力回路に意図的に割り込んで書き換えた跡だ。
ルクスは段階ごとに読んだ。
第一段階——外部命令の受容。第二段階——自己保護反応の抑制。第三段階——最終命令の実行。
三段階目が発動していた。
発動時刻は特定できない。だが残留の薄さからして、少なくとも一昼夜は経過している。
ヴェーバーは昨夜、東水路に入った。
命令として。
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ルクスは手を引き、戻った小指の震えを外套の内側で握り込んだ。
右手は検視台の縁に置いた。石が冷たい。
ゲオルクが戻ってきた。扉の蝶番が鳴った。
「読めましたか」
「支配術式の第三段階が実行されていました。自己保護反応を焼き切った状態で、最終命令に従って行動した。水に入ることを、危険として認識できない状態だったということです」
ゲオルクが黙った。窓のない部屋で、二人の息だけが白かった。
「ヴェーバーは自分の意思で動いていませんでした」
検視台の石を指で押さえたまま、ルクスは配置、保管、廃棄を順に口にした。
「三年前に書庫に着任した時点から——おそらく配置そのものが仕込みだった。手記を保管し、指定された相手に渡し、用済みになった時点で廃棄された。それだけの話です」
「……ヴェーバーは、最初から最後まで何も知らなかった」
問いではない。ゲオルクの声は平らに落ちた。
「そうです」
眼鏡のないヴェーバーの顔を見た。半分開いた目に水が入り、閉じきれないまま止まっている。最後の命令が走った瞬間、第三段階は意識を脇へ押しやり、水へ踏み出す動作だけを残した。
「ヴェーバーは被害者です。最初から最後まで」
ルクスは検視台から手を離した。
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帰り道、ゲオルクは石畳を北へ先に取った。市場はまだ荷下ろしの途中で、荷車の軋む音と濡れ藁の匂いが路地にこもり、車輪が道を半分ふさいでいる。それでもゲオルクは荷車の隙間をルクスより先に抜け、出口を確保した。そうやって道を読み、先を抑える。
「一つ確認していいですか」
「どうぞ」
「支配術式の第三段階——あの深度で人体に施行できる魔導師は、王国にどのくらいいますか」
ルクスは考えた。石畳の凹凸を踏みながら、数字を並べた。
「王国の登録魔導師は現在約二百人。そのうち、人体への術式施行の資格を持つのは十八人。さらに自己保護反応を焼き切るほどの深度で支配術式を施行できる技術を持つのは、私の知る限り三人です」
「あなたを含めて?」
「含めて。実行はしませんが、技術として可能です」
「残り二人は」
「一人は引退した老師で、十年前から療養中。もう一人は北の連合国に私費留学した後、帰国しないまま所在不明になっています」
ゲオルクが歩みを止めた。靴底が石畳を押す音がした。
「所在不明に」
「三年前からです。魔法省の登録上は国内在籍のまま、実態は不明。宮廷にいた頃、一度照会しようとしましたが所管が外務省扱いになっていて、手続きが止まりました」
「外務省扱いということは」
「外交上の身分がある、ということです。留学生ではなく、何かの資格で北の連合国に滞在していた。あるいは連合国に仕えている」
ゲオルクが手帳を開いた。鉛筆の先が紙に当たった。
「シュトラウスと同じ技術体系を持つ人間、という仮説と」
「一致します」
石畳の濡れた部分を踏んだ。冷気が靴底から足首まで上がってくる。三月の東地区の朝は、市場の熱が届くまで冷えが続く。
「氏名と在籍記録は残っているはずです。魔法省の登録台帳に。ただし私は閲覧権を持っていません」
ゲオルクが手帳から顔を上げた。
「閲覧権は騎士団を通じて取れます。週明けに申請します」
「週明けでいいのかどうかは、分かりません」
「急ぎますか」
「ヴェーバーは廃棄されました。シュトラウスが目的を達したなら——次の行動に移る前に、痕跡を消す段階に入っている可能性があります」
ゲオルクが手帳を閉じた。今度は素早く閉じた。
「今日、別の経路で当たります」
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地下室に戻ったのは昼前だった。
湿った石の匂いの中、机の上では手順書が途中で開いたままになっている。東の楔の水位変動対応手順で、夏場の渇水期に市場の井戸水の消費量が増えると、水路の水位が下がり、楔の露出面積が変動する。
ルクスはペンを持った。続きを書いた。
水位の変動幅は最大で六十センチ。露出した楔は外気と水気の両方に触れ、温度差で魔力伝導率が不安定になる。この不安定を補正するには、一日二回の補正注入が必要だ。通常の一回から倍になる負荷だが、怠ると楔の基部が割れる。割れた楔は修復できない。交換には最低でも十日かかる。
十日。
ルクスが昨夜ヴェーバーを「用済みになった後」と予測したとき、ゲオルクの手帳がゆっくり閉じられた。今日は素早かった。次の行動に移る判断をした人間の速さだ。
書きかけの行で手が止まった。黒い染みが紙にじわりと広がった。
ヴェーバーの机には、乾いたペン先と底を見せたインク壺だけが残っていた。書きかけの紙は見当たらない。焼かれたか、持ち去られたか、水の底に沈んだか。
三年前から所在不明の魔導師。王国の登録は生きたまま、実態は連合国に仕えている。その人間がヴェーバーに支配術式を施したなら——施した時期は三年前だ。書庫着任と同時だ。
最初から計画されていた。
ルクスは十一頁目を埋めた。十二頁目に入った。
左手を膝の上に置き、小指を曲げて掌に触れた。震えはまだあり、指の腹にはヴェーバーの焼印の感触が残っていた。




