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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第十三話 手記の行方







 安宿の階段は、踏むたびに軋んだ。


 ゲオルクは二階の廊下を進んだ。壁に染みが浮いている。天井が低く、彼の頭の上に拳一つ分しか隙間がない。油と煮込み料理の匂いが、階下の厨房から漂ってきていた。


 三軒目だった。東地区の裏路地、看板もない宿。一軒目と二軒目の宿帳には荷運び人と行商人の名ばかりが並んでいた。三軒目の宿帳に、偽名がある。「ヨハン・クラウス」。だが宿の主人は顔を覚えていた。


「痩せた男でしょう。眼鏡をかけて、口数の少ない。二階の奥の部屋に泊まっていた」


 ヴェーバーだ。


 扉板に鍵は掛かっておらず、ゲオルクが押すと蝶番が鳴った。窓のない小部屋。寝台と、木の椅子と、壁に打ちつけた釘が二本。蝋燭の台座が窓枠の代わりに壁の棚に置かれている。火は消えていた。芯が黒く焦げたまま残っている。


 寝台の上に衣服が一着、畳まれて置かれていた。袖口が擦り切れている。冬用の上着。その隣に革の財布。開いた。銀貨が四枚。銅貨が七枚。逃亡資金にしては少なすぎる。生活費にしては残しすぎている。


 筆記具が椅子の座面にあった。インク壺は空で、ペンの先が乾いていた。何かを書いた。だがその紙はない。


 ゲオルクは部屋の中を一周した。寝台の下。椅子の裏。壁の釘に何か掛けた跡。壁板の隙間。


 棚の奥から、布が出てきた。


 油布だ。四角く畳まれている。広げると、折り目が三つの長方形を描いていた。冊子を包んでいた跡。大きさは手帳より一回り大きく、書物より小さい。手記の大きさと一致する。


 三冊分。


 ゲオルクは油布を外套の内ポケットに入れた。


---


 地下室に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。


 石段を降りる足音を聞いて、ルクスは手順書から顔を上げた。九頁目の後半。結界の劣化速度と補修の判断基準を書いている。


 ゲオルクが扉を開けた。外套の裾に乾いた泥がついている。東地区の路地は舗装されていない。


「見つかりましたか」


 ゲオルクが内ポケットから油布を取り出し、机の上に広げた。


 油の匂いがした。亜麻仁油。書物の保管に使う、防湿用の布だ。ルクスは鼻腔に残った匂いを確かめた。亜麻仁油の下に、もう一つ。古い紙の匂い。長い間冊子を包んでいた布にだけ残る、インクと繊維の混じった匂い。


「安宿の棚の奥にありました。ヴェーバーは偽名で泊まっていた。部屋に残っていたのは衣服一着、財布、筆記具。手記そのものはありません」


「折り目は」


「三冊分です」


 ルクスはペンを置いた。油布の表面に右手の指を這わせた。布目のざらつきが指腹を細かく擦った。折り目の溝に触れる。確かに三つの長方形。大きさ、厚み、間隔。


 前任者ディートリヒの遺品には手記が三冊あった。一冊はルクスが読み、退任時に官舎に置いてきた。残り二冊は書庫に移管された。


 三冊分の跡。置いてきた一冊も、回収されていたということだ。


「ゲオルク。椅子を」


 ゲオルクが壁際の椅子を引き、座った。珍しいことだった。ルクスが二度促したのではなく、自分から座った。疲れているのか——いや、この男は疲れを見せない。長い話になると判断したのだろう。


 ルクスは油布の上に左手を置いた。


 掌を布に押しつける。指を広げる。小指が——昨日より深く開いた。関節の軋みがある。痛い。だが動く。


 魔力を流した。右手からではなく、左手から。回復途中の指先から、微かな光が布に沁み込んでいく。


 油布に残る魔力の署名を読む。書物を長期間包んでいた布には、触れた人間の魔力が染みつく。紙よりも布のほうが保持力が高い。亜麻仁油が魔力の定着を助ける。


 二つ。


 布の中に、魔力の層が二枚沈んでいた。


 一つは薄く広がっている。長期間の接触で布に沁みた残り香だ。輪郭が甘く、日常的に触れていた手の癖だけが残っている。ヴェーバーのものだ。台帳の筆跡分析で拾った質感と一致する。整いすぎていて、紙を折る角まで揃えそうな魔力だった。


 二つ目。


 布をなぞっていたルクスの指先が、そこでぴたりと止まった。


 こちらは鋭い。短時間の接触だが、圧が強い。布の繊維に刺さるような署名。意図的に残したのではなく、魔力の制御が精密すぎて逆に痕跡が残ったもの。


 七箇所目の干渉痕——結界の遅延術式に残っていた署名と、同じ質感。


「シュトラウス」


 声に出した。


 ゲオルクの靴が床を擦った。姿勢が変わる。背が壁から離れた。


「確定ですか」


「この布に触れた人間は二人。一人はヴェーバー。長期間、手記を保管していた。もう一人は——結界に干渉した術式と同じ署名の持ち主です。シュトラウスか、あるいはシュトラウスと同じ技術体系を持つ人間」


 ルクスは油布から手を離した。左手の小指が震えている。魔力を流した反動だ。まだこの手は、術式の負荷に耐えられるほど回復していない。


「手記はシュトラウスの手に渡った。ヴェーバーは渡し役だった」


 ゲオルクが手帳を開いた。鉛筆の先が紙に当たる。書き留めている。


「渡した時期は特定できますか」


「宿の主人に聞いてください。ヴェーバーが最後に部屋にいたのはいつか。一人で出たのか、誰かと一緒だったか」


「確認済みです」


 ゲオルクの声が変わった。平坦さの中に、硬い芯がある。


「宿の主人の証言はこうです。『あの客は一人で来たが、出ていくときは二人だった。もう一人は背が高くて、外套を深く被っていた。顔は見えなかった』」


「いつ」


「三日前の夜です。結界が完全に崩壊する前日の夜」


 ルクスは椅子の背に体を預けた。天井を見た。石の天井に蝋燭の影が揺れている。


 三日前の夜。手記を渡した。翌日、結界が崩壊した。


 順番が合う。


 手記には結界の構造が記されている。楔の位置、魔力の流れ、弱点。前任者が二十年かけて蓄積した知見。それを手に入れた人間が、翌日に結界を壊した。


「ゲオルク」


「はい」


「ヴェーバーは——宿から出た後、戻っていますか」


「戻っていません」


 蝋燭の炎が一つ、揺れた。壁の影が伸びて縮んだ。


「用が済んだ、ということです」


 ゲオルクの鉛筆が止まった。手帳の上で、先端が紙に沈んだまま動かない。


「ヴェーバーは」


「操られていた人間です。支配術式で誘導され、手記を保管し、指定された相手に渡した。渡し終えた後の——」


 口を閉じた。言葉を選んでいるのではない。選ぶ必要がないほど、結論は明らかだった。ただ、声にするのに一呼吸が要った。


「用済みの道具を、使い手は処分します」


 ゲオルクの手帳が閉じた。いつもの紙が擦れる音ではなく——指で挟んで、静かに。


---


 ゲオルクが去った後、ルクスは手順書に向き直った。


 机に預けた前腕が湿っていた。ゲオルクが持ち込んだ泥の匂いが、まだ地下室に残っている。


 九頁目の続き。結界の劣化速度。北の楔は他の五つより速く劣化する。王城の地下にあるため、石壁が魔力を吸収する。年に一度、楔の基部を洗浄し、魔力伝導路の目詰まりを除去しなければならない。


 ペンが走った。十頁目に入った。


 書きながら、別のことを考えていた。


 宰相府。


 昨日、ゲオルクに依頼した人事記録の照会。十年前の秋に在職していた高官のうち、ディートリヒ・ライナーの死因を隠蔽する書状を出せた人間。


 宰相府の文書には発信者の署名がある。誰が命じたのか。宰相自身か。宰相の下の事務官か。あるいは——宰相より上の人間の意を受けた代筆か。


 ペンを止めた。インクが紙に溜まり、小さな染みを作った。


十年前の宰相は、フォーゲル。現任と同じだ。フォーゲルは十四年前に宰相に就任し、今に至る。ディートリヒが死んだ十年前の秋には、すでに宰相だった。


 書状を出せる立場にいた。


 それだけでは証拠にならない。書状を出す動機があったかどうか。前任者の死を知り、それを隠す理由があったかどうか。


 手順書の十頁目に、結界の北の楔の洗浄手順を書いた。楔の基部に溜まる黒い結晶を、銀の匙で削り取る。削り取った結晶は魔力を帯びているため、鉛の容器に密封して廃棄する。この作業を怠ると、三年で伝導路が詰まり、楔が機能を停止する。


 十年前にも同じ作業をしていたはずだ。ディートリヒが。昨日ようやく名を知った前任者も、同じ楔の前に膝をつき、同じ銀の匙を使い、同じ黒い結晶を削り取っていた。


 ルクスは手順書にもう一行書き足した。


 『注意:北の楔は城の重量を受けるため、劣化が最も速い。洗浄時期を逃さないこと。前任者の手記にも同様の記述があり、この手順は二十年以上にわたって検証されている』


 前任者、と書いた。その文字の上に、一瞬だけペン先が止まった。ディートリヒ・ライナー。名前を知ったのは昨日だ。だが手順書に個人名は不要だった。ここに必要なのは手順であり、手順の信頼性を担保する年数だ。


 窓の外で鐘が鳴った。午後の三時。


 左手を膝の上に置いた。指を一本ずつ動かした。親指。人差し指。中指。薬指。——小指。


 小指が曲がった。掌に爪先が触れた。昨日は爪が掌に触れる程度だった。今日は、爪の先が皮膚にわずかに食い込む。押せている。力が入る。


 まだ弱い。ペンを持てるほどではない。だが——確実に、昨日の手ではない。


 ペンを右手に戻した。十一頁目。


 ページを埋めた。


 名は脇へ退ける。


 先に終えるのは北の楔の項目だ。ここで手を止めれば、手順書そのものが止まる。


 それでも事件は消えない。


 前任者の死。書庫の空白。ヴェーバーの消失。油布に沈んだ二つの署名。


 百二十通の報告書を書き続けた手だ。読まれぬ紙には慣れている。だが今回は、誰かが使える形で残さなければならない。


 蝋燭の芯が燃え尽きかけていた。新しい蝋燭に火を移す。古い芯が赤く縮み、煙が細く上がってインクの匂いに混じった。


 手記ではない。引き継ぎだ。


 ルクスはペンを走らせた。十一頁目の半ばに差しかかった。結界の東の楔——市場の井戸の底にある楔の、水位変動時の対応手順。水が楔を浸すと魔力の伝導率が十四パーセント下がる。夏場の渇水期には逆に過導通が起き、楔が過熱する。


 書いた。書き続けた。


 蝋燭が新しい炎を立てていた。影が壁で揺れている。石壁の冷たさが、椅子の脚を伝って足の裏に届いていた。


 ——手記は奪われた。だが手順書はここにある。


 この手順書だけは、渡さない。







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