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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第十二話 二十三人目の死






 南区の役所は、茶と埃の匂いがする建物だった。


 入口の受付に座った女が、ルクスとゲオルクを交互に見た。ルクスのローブと、ゲオルクの腰の剣。組み合わせとして珍しかったのだろう。


「死亡台帳の閲覧を申請したい。十年前の秋です」


「十年前」


 女の声に抑揚がない。ただ年号の古さに反応したのか、羽ペンを持つ手が一瞬止まった。


「閲覧の理由は」


「宮廷からの照会です」


 エルドマン長官の名で発行された書状をゲオルクが差し出した。紙を受け取った女が印章を確認し、引き出しから鍵束を取り出す。足音が奥へ消えた。


 待つ間、ルクスは窓際に立った。硝子に埃が積もる。日の光が濁って入る。


 ゲオルクが壁に背を預けた。いつもの姿勢だ。


 五分ほどで女が戻り、革表紙の台帳を一冊、受付の台に置いた。背表紙に年号が箔押しされ、角は丸い。十年分の手垢と湿気で革が変色していた。


「閲覧室は奥の二番です。持ち出しはできません」


---


 閲覧室の扉を閉めると、埃の匂いが濃くなった。窓がない。蝋燭が二本、壁の燭台に灯っていた。炎の揺れで壁の影が動く。


 ルクスは台帳を机に置いた。革の表紙を開く。紙が黄ばんでいる。インクの色も褪せて、茶色がかった文字が並ぶ。


 秋の頁を探した。


 十年前の秋。九月。十月。十一月。


 十月の頁に、まとまった死亡記録があった。死因の欄に同じ言葉が並ぶ。「流行り病」。


 ルクスは指で行を追った。


 一人目。マルタ・ヴォルフ。四十七歳。症状欄——高熱、発疹、呼吸困難。死因、流行り病。


 二人目。ハインリヒ・ブラント。六十一歳。高熱、発疹、肺の水腫。流行り病。


 三人目。同じ。四人目。同じ。


 頁をめくる指が乾いていた。紙の端が肌を引っ掻く。


 症状は揃っている。高熱。発疹。呼吸困難。肺に水が溜まる。典型的な秋の熱病だ。南区は湿気が強く、井戸水も悪い。流行り病なら、こういう死に方をする。


 十二人目。十五人目。二十人目。


 二十二人目まで、症状は同じだった。


 二十三人目。


 二十三人目で、ルクスの指先が頁に貼りついた。


 名前の欄。ディートリヒ・ライナー。


 肩書き——宮廷魔導師。


 ルクスは息を吐いた。呼気が台帳の頁を揺らした。


 十年間、前任者の名を知らずにいた。手記にあるのは肩書きだけだ。


 ディートリヒ・ライナー。


 症状欄に目を移した。


 「急性の衰弱。発熱なし。発疹なし」


 三行で終わっている。他の二十二人の欄を埋めていた高熱も、発疹も、肺の水腫も、その行では途切れていた。


「ゲオルク」


「はい」


「二十二人と、一人。同じ病で死んだことになっている。だが症状が違う」


 ゲオルクが台帳を覗き込んだ。指で二十三人目の行をなぞり、二十二人目に戻る。それを二度繰り返した。


「担当医の名前は記録されていますか」


 ルクスは頁の下部に目を落とした。記録の末尾、認証欄。


「ある。フリードリヒ・ヘルツォーク。南区の医師」


 ゲオルクが手帳に書き留めた。鉛筆の先が紙を走る音が、蝋燭の灯る小部屋に響いた。


---


 ヘルツォークの家は、南区の外れにあった。


 石畳が途切れ、土の道になる境目に、灰色の平屋が建っている。乾いた土と薬草の匂いが、門の外まで流れてきた。壁に蔦が這い、屋根瓦の隙間から草が伸びている。煙突の煙がまっすぐ上がっていた。


 ゲオルクが門の前で立ち止まった。


「ここで待ちます」


 ルクスは頷いた。医師の証言を取るのに、騎士が横にいれば構えさせる。


 木の扉を叩いた。三度。間を置いて、中から椅子を引く音がした。


 扉が開いた。


 老人だった。白髪で、背が曲がっている。だが目は澄んでいた。ルクスを見上げ、ローブに目を留めた。


「魔導師か」


「ルクス・アーレンハイトと申します。先生に伺いたいことがあって参りました」


「先生はよせ。もう引退して八年になる」


 扉が開いたまま、老医師は一歩退いた。ルクスを中に通す仕草。


 室内は薬草の匂いがした。乾燥させた葉の束が天井から吊るされている。窓際の机に本が積まれ、椅子が二脚。暖炉の火が低く燃えていた。


 ヘルツォークが椅子に腰を下ろし、ルクスにもう一脚を顎で示した。


「それで」


「十年前の秋の流行り病について、お聞きしたい。先生が——失礼、ヘルツォーク殿が担当された死亡者のうち、二十三人目の方についてです」


 老医師の指が布地を掴んだ。


「名前を言ってみろ」


「ディートリヒ・ライナー」


 暖炉の薪が崩れた。赤い火の粉が一瞬舞い上がり、灰に沈んだ。


 ヘルツォークは黙った。暖炉の炎だけが鳴っていた。


「……あんた、あの人の後任か」


「はい」


「十年もかかったか。誰かが聞きに来ると思っていた。もう来ないとも思っていた」


 老医師は暖炉に目をやった。火を見ているのか、火の向こうの何かを見ているのか。


「あの魔導師だけは、病気で死んだ体じゃなかった」


 ルクスの背筋が伸びた。椅子の木が軋んだ。


「二十二人は熱病だ。間違いない。高熱、発疹、肺に水が溜まる。南区の水が悪くなる秋には毎年出る。あの年は特にひどかった。だが——」


 ヘルツォークが右手を持ち上げた。掌を開き、また握る。医師の手だ。何千人もの患者に触れてきた手。


「二十三人目だけが違った。体は衰弱していた。骨と皮だ。だが熱がない。咳もない。発疹もない。脈は弱いが乱れていない。肺は乾いていた」


「衰弱だけ」


「蝋燭の芯だけ残って、蝋がなくなったような死に方だった」


 ルクスの左手が膝の上で動いた。小指が——震えている。だが意識はそこにない。


「蝋が——」


「魔導師のことは門外漢だ。だが体は診られる。あの男の体からは、何かが抜き取られていた。病気ではなく——中身が空になっていた。蝋のない芯は、火がなくても倒れる」


 ルクスは呼吸を一つ置いた。吸って、止めて、吐いた。


「死因は流行り病と記録されています」


「上からの指示だ」


 ヘルツォークの声に感情が混じった。初めてだった。苦いものを噛んだときの声。


「宮廷から書状が来た。流行り病の犠牲者として処理しろ、と。死亡台帳の書式まで指定してあった。私が書いたのは症状だけだ。『急性の衰弱。発熱なし。発疹なし』——あれが精一杯の抵抗だったよ。嘘は書かなかった。だが、本当の死因までは書けずに終わった」


 暖炉の火が低くなっていた。薪を足す者がいない。老医師は立ち上がろうとせず、膝の上の手を見つめている。


「一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「あんたも、あの人と同じ仕事をしていたのか」


「はい」


「誰にも見えない仕事だ。あの人もそうだった。夜中に城を出て、朝方に戻ってくる。南区の巡回をしているとき、何度かすれ違った。言葉は交わさず、いつも人の目を避けて歩いていた」


 ルクスは口を閉じたまま、膝の上の手を見ていた。


「最後に診たとき、あの人は一言だけ言った。『すまない。まだ保つと思っていた』」


 薬草の匂いが濃い。乾いた葉の束が天井で揺れている。窓から入る風が、暖炉の煙を室内に押し戻していた。


「すまない、というのは——」


「私に言ったんじゃない」ヘルツォークが首を振った。「誰に言ったのか、分からん。だがあの人は天井を見ていた。この部屋の天井じゃなく、もっと遠くを」


 ルクスは立ち上がった。椅子が床を擦った。


「ありがとうございました」


「礼はいい。——あんた」


 扉に手をかけたルクスの背に、老医師の声が届いた。


「あの人の体から抜けていたもの。それが何か、あんたには分かるんだろう」


 扉の木目が目の前にある。節の形が、楔に似ている。振り返らないまま答えた。


「……はい」


 それだけ言って、扉を開けた。


---


 帰り道、日が傾いていた。


 南区の細い路地を抜けると、店じまい前の煤と煮込みの匂いが混じって流れてきた。石畳の通りには夕暮れの赤が残り、ゲオルクが半歩後ろを歩いていた。


 靴底が石畳を踏む音だけが続いた。ルクスの革靴と、ゲオルクの軍靴。歩調が微妙にずれている。


「ディートリヒ・ライナー」


 ルクスが名前を口にした。声に出すのは初めてだった。


「前任者の名前を、今日初めて知りました」


 ゲオルクの足音が一瞬途切れた。すぐに戻った。


「十年間、名前を知らずに」


「手記に名前はない。署名もない。肩書きだけだ——『宮廷魔導師』と。着任のときに引き継ぎを受けたのは手記だけで、前任者はすでに亡くなっていた。遺族もいない。名前を教える人間もいなかった」


 角を曲がった。路地の先に、夕日を背にした王城の尖塔が見えた。あの城の地下に、北の楔がある。


「ゲオルク。ディートリヒ・ライナーは——魔力を抜き取られて死んだ」


 ゲオルクの歩調が変わらない。足音の間隔はそのままだ。だが、剣の鞘が外套に当たる音がした。体の角度が、わずかに変わっている。


「病気ではなく」


「熱もない。咳もない。発疹もない。体の中身だけが空になっていた。医師の言葉を借りれば——蝋燭の蝋が消えて、芯だけが残った状態です」


「魔力を抜き取る。それは——」


「術式として存在します。禁術に分類されている。魔導師の体に蓄積された魔力を、外部から吸い出す。吸い出された側は、衰弱して死ぬ。時間をかければ痕跡も残らない」


「時間を——」


「数ヶ月。じわじわと抜けば、急性の衰弱ではなく慢性の病気に見える。だがディートリヒの場合は急性だった。短期間で大量に抜かれている。急いでいたか、あるいは——」


 ルクスは口を閉じた。路地の先から、子供の声が聞こえた。夕飯の時刻だ。母親が呼ぶ声。走る足音。


「あるいは、最後まで抵抗していたか」


 ゲオルクが足を止めた。ルクスも止まった。


「ルクス様。前任者が殺されたのだとすれば——犯人は、十年前から王都にいたということですか」


「分かりません。十年前にいて、今もいるかは。ですが——」


 左手を見た。小指が、微かに曲がった。昨日の限界は掌をかすめる程度だった。今日は——爪が掌に触れている。確かに。


「前任者の魔力は、干渉痕の中に残っていた。手記に染みつくよりも遥かに濃い量が。あれは遺体に直接触れた人間の術式に転写されたものです」


「遺体に——」


「ディートリヒの死後、遺体に触れて魔力の残滓を回収した人間がいる。殺した人間と同一かもしれないし、別かもしれない。ですが——」


 ルクスは歩き出した。ゲオルクが続いた。


「その人間は、前任者の魔力を使って結界に干渉した。干渉痕が六箇所。すべてに前任者の魔力の残響がある。十年かけて準備し、三週間前に結界を壊した」


 王城の尖塔が、夕日の中で黒く浮かんでいた。


「ゲオルク。もう一つ。今日分かったことがあります」


「何ですか」


「ディートリヒの死因を隠蔽する書状が、宮廷から出ていた。流行り病として処理しろ、と。医師に書式を指定してまで」


 ゲオルクの足音が重くなった。軍靴の底が石畳を噛んでいる。


「宮廷の誰かが、前任者の死の真相を知っていた。知った上で、隠した」


「それは——十年前の宮廷の人間ということですか」


「はい」


 路地を抜けた。大通りに出ると、夕暮れの人混みが流れていた。市場の店じまいの喧噪。荷車の車輪が石畳を軋ませる音。


 二人は人混みの中を歩いた。


「ゲオルク」


「はい」


「明日、宮廷の人事記録を調べてください。十年前の秋に在職していた高官のうち、ディートリヒ・ライナーの死に関与し得た人物。書状を出せる立場の人間は限られる」


「承知しました。エルドマン長官に照会を——」


「いえ。エルドマンは五年前の着任です。十年前の宮廷にはいません。照会先は——」


 ルクスの足が止まった。大通りの真ん中で。人の流れが左右に割れてすれ違っていく。


「宰相府です」


 ゲオルクの手帳が開いた。鉛筆が走った。閉じた。


 二人はまた歩き出した。王城に向かって。夕日が背中にあり、影が前に長く伸びていた。


 ルクスは左手を握った。小指の爪先が掌に触れた。昨日より深く食い込んでいる。


 痛みだった。十年ぶりに、左手の小指へ力が戻る痛みだ。


 ディートリヒ・ライナーも、この痛みを知っていたのだろうか。同じ結界に魔力を注ぎ、同じ楔を巡り、同じ夜道を歩いた人間。


 地下室へ戻ると、机の上で手順書と蝋燭が待っていた。ルクスは九頁目の冒頭に一行書く。


 『この手順書は、前任の宮廷魔導師ディートリヒ・ライナーの遺した手記と、筆者の十年間の実務経験に基づく』


 前任者の名前を、初めて文字にした。


 十年前の秋。二十二人の病死に紛れた二十三人目。その死を隠した宮廷の人間は、まだ王都の中にいる。


 ルクスは左手を紙の上に置いた。小指の先が紙目を捉える。


 この手が書く。ディートリヒから奪われた続きを。






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