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追放された宮廷魔導師、実は王国の防衛結界を一人で維持していた  作者: やんやんつけバー


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第十一話 鳥の刺繍




 濡れた革の匂いが、足音より先に石段を降りてきた。


 良い報告のとき、ゲオルクの歩幅はここまで広がらない。


 地下室の窓は高い。西日そのものはもう入らないのに、石壁の色だけがじわじわ冷えていく。ルクスは細字用のペンを止めた。手順書はかなり進んでいた。乾ききらないインクが、紙の上で鈍く光っている。


 石段を打つ靴音は速くない。間隔だけが広い。ゲオルクが何かを掴んで戻るときの歩幅だった。


「手帳を出してください」


 扉の向こうへ声を投げると、一拍遅れて蝶番が鳴った。ゲオルクが入ってくる。外套の裾に泥が跳ねている。濡れた靴底が石を踏むたび、薄い水音がした。


「ヴェーバーの近隣住民、三軒回りました」


「座ってください」


「立ったままで」


 壁に背を預けたまま、ゲオルクは手帳を開いた。いつもの報告姿勢だ。紙の端を押さえる親指に、まだ外の冷えが残っている。


「一軒目。真向かいの仕立屋の女房。最後にヴェーバーを見たのは六日前の夕方。鞄を持って家を出るところを、二階の窓から見ています。日没前。一人でした」


「表情は」


「『いつも通りでした』と。ただ、門口で一度だけ振り返ったそうです」


 ルクスの右手が紙の端をなぞった。


 追放の日、自分の耳に残ったのは扉が閉まる重い音と、湿った中庭の砂利を踏む自分の靴音だった。肩越しに城を見返さず、そのまま中庭を抜けた。見れば足が止まると、体のほうが先に知っていた。


 鞄一つで出た男が、門口で一度だけ肩越しをした。


「二軒目は」


「隣の薬屋の老主人。最後に見たのも六日前ですが、こちらは朝です。出勤する姿を見た。手は空だったと」


 机の上の余白に、ルクスは細い線を二本引いた。朝。夕方。そのあいだが空く。


「日中に何かあった」


「はい。そして三軒目です」


 ゲオルクの声がわずかに沈んだ。手帳を見る目が止まる。


「裏手の路地に面した居酒屋の亭主が、六日前の昼過ぎにヴェーバーの家を訪ねた人間を見ています」


 ペンを置いた。机板に触れた木軸が、乾いた音を立てる。


「特徴は」


「長身。灰色の外套。右肩に鳥の刺繍。亭主が覚えていたのはそこです。『見たことのない紋章だった。この街の人間じゃない』と」


 鳥の刺繍。


 宮廷にいた十年で見た使節団の肩章が、乾いた紙片みたいに頭の中をめくれた。鷲。隼。白鳥。王家の紋章なら胸か外套の留め具に出る。右肩の刺繍だけというのは、国章より小さい。部局章か、個人の所属印か。


 視察団は揃いの外套で歩く。正使は胸章、随員は袖章、監査官だけが道中で外せる肩章を使うことがある。布だけを見せ、名を隠すためだ。三年前に読んだ使節規定の頁数まで浮かびかけて、ルクスはそこで止めた。必要なのは記憶の披露ではなく、現物の一致だった。


「ゲオルク。シュトラウスの視察団はどこの国から来ていますか」


「北方のオストランド公国です」


「オストランドの紋章を確認してください。国章だけではなく、使節団の肩章も」


「承知しました」


 鉛筆が紙を走る。短く、硬い音だった。


「居酒屋の亭主は、その男がどれくらいいたと」


「半刻ほど。出てきたのは一人です。ヴェーバーは一緒に出ていない」


「半刻」


 書きかけの頁へ目を落とす。結界核第三層。地下浸食抑止の最内殻。書きかけの図式は複雑だが、渡すだけならこんな時間はいらない。冊子二冊を包み、受け取り、口止めするには充分だった。


「ヴェーバーの家の棚の跡は」


「冊子大が二つ。埃の境界がはっきり残っていました。最近まで何かが置かれていた形です」


「二つ」


「二つです」


 前任者の手記は三冊あった。ルクスが着任時に渡されたのは一冊だけ。残り二冊は書庫へ移され、そのまま消えた。


 ヴェーバーの棚に残った二つの跡が、ちょうどその数だった。


 ルクスは指先で机の角を押した。乾いた木が、わずかに沈む。


 図書館の司書で、結界古文書の管理者。そこへ六日前の昼に鳥の刺繍が来る。半刻。夕方には鞄一つで家を出る。


「ゲオルク」


「はい」


「順序を読み上げてください」


 ゲオルクは視線を手帳へ戻した。


「六日前の朝。ヴェーバーは通常通り出勤。昼過ぎ、鳥の刺繍の男が自宅を訪問。半刻滞在。夕方、ヴェーバーが鞄一つで自宅を出る。五日前の夕方、シュトラウスが単独で入城。翌日、視察団が到着」


 ルクスは机上の二本線の横に、もう一本、短い線を足した。昼。


 六。六。五。


 指先で並べると、一日のずれが却ってはっきりした。シュトラウス本人ではない。だが視察団より先に動いた人間なら、そこに収まる。


 朝の線、昼の線、夕方の線。昼だけが紙の上で刺さって見える。そこにだけ、別の手が差し込まれている。


「先遣」


「シュトラウスのですか」


「その可能性が高い」


 言いながら、右手が手順書の余白へ滑った。鳥の形を描きそうになって止める。


「ヴェーバーは昼の訪問を受けた後で家を出ています。自分から出たのか、出されたのか」


「仕立屋の女房の目には、一人で出たように映っています。急かされた気配も、脅された気配も薄かったと」


「だが振り返っている」


 高窓の外で、最後の明るさが痩せた。湿った石の匂いがかすかに立つ。地下室は光が消えると冷えより先に匂いが変わる。


 鞄一つで出る男の背中。門口で一度だけ止まる肩。


 逃走より、引き渡しに近い。


「ヴェーバーは、自分が何を持っているか知っていたはずです」


 百二十通の報告書を書いた男だ。宮廷にとっては積まれた紙切れでも、外から見れば王都の骨格そのものになる。


 読まれないだけなら怠慢で済む。だが、その怠慢ごと持ち出す人間がいたなら話は別だ。王都の石壁より先に、内側の順番が売られたことになる。


 高窓の外で石工が鑿を当てる音がした。城壁の表面ではなく、もっと奥の脆いところを探るような響きだった。


 ルクスは手順書へ視線を落とした。いま書いているのも同じだ。北の楔の亀裂。最内殻の抑止構造。読む人間が読めば、補修にも使えるし、壊す順番にも使える。


「結界の設計情報が渡ったとすれば」


 ゲオルクの声が低くなる。


「弱点が分かる」


「ええ」


 その瞬間、左手の小指がぴくりと跳ねた。


 痙攣ではない。机の縁に置いたまま、小指の爪先だけがゆっくり内側へ寄る。昨日とは違う角度で曲がる。力を込めると、指の奥を焼いた針が一本、手首へ走った。


 回復。


 喉まで上がりかけた息を、ルクスはそのまま飲み込んだ。今はそちらを見ている場合ではない。


「明日、シュトラウスの宿泊先を確認します」


 ゲオルクが手帳を閉じた。


「鶴亭の宿帳と宿の主人の証言。それからオストランドの紋章」


「もう一つ。ヴェーバーの棚にあった二冊が、前任者の手記だったのか、それとも別の記録だったのか。そこを見ます」


「承知しました」


 扉へ向かったゲオルクが、手を掛けたまま止まった。


「……ルクス様。手順書は進んでいますか」


「八頁目です」


「早い」


「急いでいるわけではありません」


 インク壺の縁で、ペン先を一度だけ払う。


「止められないだけです」


 ゲオルクの足音が石段を上がっていった。


 一人になると、地下室は急に狭くなる。石壁の冷たさと、インクの匂いだけが机に残った。


 ルクスは次の頁を開く。


 北の楔、二本目の亀裂。地下浸食抑止の最内殻。補修順は二、五、一。


 自分の右手が書いている内容を、もう別の手が読んでいるかもしれない。


 その相手が、鳥の刺繍を肩に縫いつけたまま王都へ入ってくるのだとしたら、三日後に試されるのは補修の速さではない。誰が先に、結界の順番へ手を掛けるかだ。


 そう思った瞬間、左手の小指がもう一度内側へ寄った。


 爪先が、掌をかすめた。


 昨日は空を切った場所だった。




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