第18話
(今やこのマーロック家の支配者は、このルナリア――)
一年前の出来事の回想から意識を戻しながら、ゲオルグは身震いを押し殺す。
彼女は野心や出世欲はないのか、領地経営についてはゲオルグに丸投げしている。だが、軍権の一部などは掌握――常に目を光らせている。
ゲオルグが良からぬことを企てたら、当主の座から引きずり降ろせるように。
(不幸中の幸いは、彼女の目的がはっきりしていること――)
それ即ち、彼女が慕っている相手である勇者、アヤト・カンナギを支えること。それを妨げるような真似をしなければ、ゲオルグが排除されることはない――はずだ。
そう言い聞かせていると、書類に目を通していたルナリアが視線を上げた。彼女はゲオルグと視線を合わせると、小さく微笑む。
「ありがとうございます。兄上。ここまでいろいろと調べてもらって」
「なんの。これくらいは造作もないよ。ルナリア」
ゲオルグは笑みを返しながら、ルナリアの手元の書類――ゲオルグが調べ上げた調査書に視線を向ける。そこに記されているのは、アヤトの婚約破棄事件の詳細だ。
「知っての通り、まだ公式発表はされていないが、どこからか情報が漏れたのか、婚約破棄については徐々に広まっているみたいだ。噂だけに尾ひれが多くついているけど」
「でしょうね。噂話で確実な点はアヤトさんとクラリッサ王女殿下との婚約が解消された点だけ。公式発表も未だなし――と。王家の動きは……」
「次のページにまとめた」
「さすが兄上――なるほど、アヤトさんを捜索中……」
「うん、王家と近衛は大騒ぎだ。何せ、婚約破棄後に姿を眩ませたのだから」
当然、アヤトが今いる場所はここ、マーロック家だ。
だが、他の連中はそれを知るはずがない。慎重にアヤトの足取りを辿れば、貴族御用達の店に一人の女性と足を運んだのは分かるはず。
(――だが、あの店は秘密を厳守している。例え近衛が相手でも口を割らない)
そして、アヤトとルナリアがその後に向かった連れ込み宿も似たような店。そこからこの屋敷には覆面の馬車を使い、撹乱しながら来たという。
その後、彼はずっとこの屋敷に逗留している。
つまり、マーロック家以外の人間がアヤトの所在を知る由がないのだ。
「一週間経った今、捜索の範囲は王都外、つまり第七軍にまで早馬が出されている段階になっているようだね」
「見当違いもいいところですね。しかし、ふむ、そこまで必死にアヤトさんを捜索しているとなると、彼が姿を眩ますとは予想していなかった、ということでしょうか」
ルナリアはそう言いながら冷たい眼差しを書類に向けている。父に向けていたときの視線と同じものに少し背筋が震える。
(――落ち着け。その対象は私ではない)
悟られないように深呼吸し、ゲオルグは冷静に考えを口にする。
「備考に書いたが、この数日に王家が急にフリム公爵家の三女を呼び寄せている。そちらの噂は王家主導による縁談と聞いているね。けど、こちらも公式発表がないところを見ると――」
「なるほど、クラリッサ殿下は婚約破棄した後、アヤトさんに別の女と婚約を結ばせ、王家との縁を保とうとしたのでしょうね――どこまでも、見下げた……っ!」
ぐしゃ、とルナリアの手元で書類が歪む。ゆらりと彼女の身体から気迫のような何かが漏れ出て、息苦しくなる――魔力の、漏洩だ。
「――ルナ、リア……っ」
声を絞り出すと、ルナリアはゲオルグに気づいて顔を伏せた。大きく深呼吸すると、魔力の漏洩が止まる。彼女は顔を上げ、無表情でぽつりと告げた。
「――申し訳ないです。兄上」
「いや――私から見ても、見下げ果てたものだと思うよ。ルナリア」
ゲオルグは呼吸を整えると意見を口にする。これはルナリアのご機嫌取りや追従ではなく、本心からの言葉だった。
「アヤト殿の気持ちを悉く踏みにじるだけでなく、王家の威厳を著しく損なうものだ――先王陛下が聞いたら何と思われたであろうか」
今から四年前――アヤトとクラリッサの婚約から三か月後、先王陛下は崩御されていた。魔王軍の脅威に負けずに政を為し、病床についてからはこの国の行く末を案じていた。
(恐らくアヤト殿とクラリッサ殿下の婚約は王家の守りを盤石にするためだったというに――親の心、子知らず、というべきか)
調べれば調べるほど、この一件には呆れしか出てこなかった。
ルナリアはゲオルグの言葉に頷きながら、書類に目を落として訊ねる。
「ちなみに兄上、この噂の出処についてどう思います?」
「……ごめん、それについては調べが回っていなくて」
「兄上の私見で構いません。どこが根っこだと思いますか」
ルナリアの言葉にゲオルグは口を噤み、思考を巡らせる。
(噂を口にしていたのは宮中のメイドや騎士たちが中心。その接点を考えると――)
王家ではない。官僚や文官でもないだろう。どちらかというと軍部、いやもっと言ってしまえば――。
「――近衛、かな」
「なるほど、私も同意見です」
ルナリアは視線を上げ、ゲオルグの言葉に頷いてみせた。
「近衛は、第七軍――特に勇者であるアヤトさんをよく思っていません。それに婚約破棄の場にも一人の近衛騎士がいたとアヤトさんから聞いています」
その言葉に嫌な予感が込み上げてくる。
もし、この婚約破棄事件に近衛が絡んでくるとすれば、きっと第七軍を始めとした対魔王軍戦線を担当する軍は黙っていないだろう。
彼らにとって勇者、アヤトは希望であり、旗印。それが近衛騎士の妬みで虚仮にされたと知られればどうなるか――。
(もしかしたら、魔王軍に対する剣と盾を同時に失いかねない――)
その考えに至った瞬間、ルナリアは再び書類を眺めながら言葉を続ける。
「噂話は充分広がってしまいました。遅かれ早かれ、貴族、軍もこの事件について耳に入り、独自に情報収集を始めるでしょう。そして、その情報を元に状況が動くはず」
その言葉に込み上げた嫌な予感が大きく膨れ上がり、確信になりつつあった。それをゲオルグは裏付けるために口を開いた。
「ルナリア、軍人としての意見を聞かせてくれるか。アヤト殿が近衛騎士の陰謀で婚約破棄された――そのような噂が耳に入ったら、どうなる?」
「愚問ですね。前線の軍人たちはアヤトさんに少なからず恩義があります。そして、我が王国軍の軍人は義を重んじる気風が強い――」
ルナリアは顔を上げると、その瞳に強い光を宿してはっきりと告げた。
「まず王家に対し、真実を問い質すでしょう――どうなるかはその答え次第です」
「――そうか」
言葉を濁したが、はっきりと分かってしまう。
この国は、割れることになる。王家と近衛側と、第七軍を中心とした軍部に。そして、貴族たちはどちらにつくか去就を決めねばならない――。
そして、そうなればゲオルグはどうするべきか。
(――いや、私に選択肢はない)
視線を上げれば、ルナリアと目が合った。彼女はにこりと微笑んで告げる。
「兄上――信頼、していますからね」
「……ああ、無論だとも」
引きつり笑いをこぼしながら、ゲオルグは遠い目をした。
(一体、この国は、我が家はこの先どうなるのか――)
妹の意向を無視できない若き当主には、その先を見通すことができそうになかった。




