第7話
翌日、ローザは再び皇帝の私室へと呼ばれた。
昼の光の中で見るジークハルトは、夜とはまた違って見えた。執務机に向かう姿は威厳に満ちている。窓から差し込む光が、整った横顔をくっきりと照らしていた。けれど、ローザはもう知っていた。その完璧な仮面の下に、隠された病があることを。昨夜の、あの震える指先を。
「座れ」
短く促され、ローザは向かいの椅子に腰を下ろした。
皇帝は、しばらく書類を眺めていたが、やがて顔を上げた。
「お前を生かす理由を、話しておこう」
その声は、感情を排した、淡々としたものだった。
「いま、この縁談を破棄すれば、どうなると思う」
ローザは、答えを探した。
「……アーベライン家は、咎を受けます。そして」
「そうだ。アーベライン家は取り潰され、辺境はざわつく。だが、それだけではない」
皇帝は、指を組んだ。
「花嫁が偽物であったと公にすれば、帝室の沽券に関わる。私が、輿入れの女ひとり見抜けなかったと嘲られるか、あるいは――何者かが、私を陥れるために仕組んだのだと、宮廷は疑心暗鬼に陥る。いずれにせよ、得るものはない」
筋の通った論理だった。ローザを生かすことは、皇帝にとっても、損のない選択なのだ。
「つまり――」ローザは、ゆっくりと理解した。「私が偽りの皇妃を演じ続けることが、双方にとって、最も波風の立たぬ道なのですね」
「察しがいい」
皇帝の口元が、わずかに動いた。笑みとも呼べぬ、かすかな変化だった。
けれど、ローザは感じていた。彼の言葉には、まだ語られていない何かが、確かにあると。
その予感は、すぐに裏づけられた。
「それに――私には、もうひとつ思惑がある」
皇帝は、ローザをまっすぐに見据えた。
「この宮廷で、私が心から信を置ける者は、ひとりもいない。誰もが、何かを企んでいる。だが、お前は違う。お前は、私に弱みを握られている。裏切れば、即座に破滅する立場だ」
その言葉の意味を、ローザは悟った。
この方は、私を“手駒”として欲している。決して裏切れぬ、自分だけの駒として。
「秘密を共にする者が、ひとり要る。お前は、その役に適っている」
冷徹な、けれど切実な打算だった。誰も信じられぬ者の、ぎりぎりの選択。ローザの胸に、わずかな痛みが走った。これほどの権力を持ちながら、この人は、心を許せる相手をただのひとりも持てずにきたのだ。その孤独が、ローザには他人事とは思えなかった。家の中で、空気のように生きてきた自分と、どこか似ている気がして。
皇帝は、一枚の書面を差し出した。
「これは、二人だけの契約だ。お前は皇妃を演じ、私の秘密を守る。その代わり、私はお前の正体を隠し、アーベライン家を守る。互いの破滅を避けるための、取引だ」
ローザは、その書面を見つめた。簡潔な文言が、几帳面な筆致で記されている。
ここに署名すれば、もう後戻りはできない。偽りの皇妃として、この孤独な皇帝の傍で生きていくことになる。正体が漏れれば、命はない。それは、首に縄をかけて生きるのと同じことだった。
けれど、選べる道など、最初からなかった。
ローザは、ペンを取った。震える指で、偽りの名ではなく――皇帝だけが知る、自分の本当の名を、そっと書き添える気持ちで、署名した。
契約は、こうして交わされた。
冷たい打算から始まった、二人の偽りの絆。
けれど、この一筆が、やがて二人の運命を、思いもよらぬ場所へと導いていくことを――このときのローザは、まだ知らなかった。




