第6話
もう、逃げ場はなかった。
ローザは、観念して、その場に膝をついた。冷たい床に手をつき、深く頭を垂れる。
「……申し上げます」
声は震えていたが、もはや偽る意味はなかった。
「私は、ヴィオレッタではございません。その妹――ローザ・フォン・アーベラインと申します」
言葉を発するたびに、これまで背負ってきた偽りが、一枚ずつ剥がれ落ちていくようだった。
「姉が、婚礼の直前に失踪いたしました。家の破滅を避けるため、父の命で、私が姉になりすまし、こうして輿入れしてまいりました。すべては……私の偽りでございます」
言いながら、ローザの胸に、これまでの日々が去来した。空気のように扱われてきた家。それでも、守りたいと思った人々。すべてを背負って、ここまで来たのだ。けれど、その偽りも、たった一夜で見破られてしまった。
ローザは、額を床に擦りつけた。
「いかなる処罰も、お受けいたします。ただ――どうか、アーベライン家への咎だけは」
言い終えて、ローザは目を閉じた。
処刑か、追放か。どちらにせよ、もう終わりだと思った。
長い、沈黙が落ちた。
皇帝は、何も言わなかった。ローザは、頭上から降ってくるであろう裁きの言葉を、ただじっと待った。
やがて――皇帝の口から漏れたのは、まったく予想だにしない言葉だった。
「ならば、好都合だ」
ローザは、思わず顔を上げた。
皇帝は、窓辺に背を向けて立っていた。その表情は、月の影になって読み取れない。けれど、その声には、怒りも、嘲りもなかった。
「ローザ、と言ったな。お前に命じる」
彼は、静かに振り返った。
「このまま――身代わりを、演じ続けろ」
ローザは、言葉を失った。
なぜ。罰するでも、追い出すでもなく、なぜ、偽りを続けよと言うのか。理解が、追いつかなかった。
混乱するローザの目に、ふと、あるものが映った。
窓辺に立つ皇帝の、その手元。月明かりに照らされたその指先が、わずかに震えていた。そして、その顔色――冷たく整った美貌の下に、隠しきれない青白さが、滲んでいた。
ローザの中で、薬草を扱ってきた者の勘が、静かに警鐘を鳴らす。
これは。
単なる疲れや、夜の冷えではない。もっと根深い、何か――病の影のようなものが、この若き皇帝の身体を、確かに蝕んでいる。母譲りの知識が、ローザの内側で、そう囁いていた。あの指先の震え方、あの肌の青白さには、覚えがあるような気がしてならない。
ローザの視線に気づいたのか、皇帝はすっと手を衣の中に隠した。何事もなかったかのように、表情を取り繕う。
けれど、ローザはもう、見てしまっていた。
「下がってよい。今宵のことは、誰にも話すな」
皇帝は、それだけ告げると、再び窓の外へと顔を向けた。その背中は、なぜか、ひどく孤独に見えた。
ローザは、震える足で立ち上がり、一礼して寝室を後にした。
与えられた控えの間に戻っても、心臓は鳴りやまなかった。命を拾った安堵よりも、ずっと大きな疑問が、胸を占めている。
なぜ、彼は身代わりを生かすのか。なぜ、偽りを続けよと望むのか。あれほど猜疑に満ちた人が、よりにもよって、嘘で塗り固められた花嫁を手元に置こうとする。その真意が、まるで見えない。
そして、あの隠された病の影は、いったい――。
ローザには、何ひとつ分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。自分はこれから、あの謎めいた皇帝の傍で、偽りの皇妃として生きていくのだということ。
窓の外では、いつしか嵐が去り、夜空に静かな月が懸かっていた。




