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身代わり花嫁は、皇帝陛下に正体を知られている  作者: 小林翼


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第8話

 偽りの皇妃としての日々が、始まった。


 ローザに与えられたのは、豪奢な皇妃の私室だった。柔らかな絨毯、磨き抜かれた調度、衣装部屋に並ぶ数えきれぬほどのドレス。辺境の屋敷では考えられぬ、贅を尽くした空間だった。


 けれど、ローザの心は晴れなかった。


 ここでは、誰も本当の自分を知らない。皆が、姉ヴィオレッタとして自分を見ている。その視線のひとつひとつが、薄氷の上を歩くような緊張を、ローザに強いた。


 ただひとり、心を許せる者がいた。


「皇妃様、お茶をお持ちしました」


 侍女のハンナだった。庶民の出だという彼女は、純朴で、裏表がない。ローザの世話を任された彼女は、初日から献身的に尽くしてくれた。


「ありがとう、ハンナ」


 ローザが微笑むと、ハンナは嬉しそうに頬を緩めた。打算のない、まっすぐな好意。それが、張りつめたローザの心を、わずかにほぐしてくれた。


 高貴な身分の者なら、侍女に礼など言わないのかもしれない。けれどローザには、それができなかった。家で誰にも顧みられなかった自分だからこそ、誰かに尽くされることのありがたさが、身に沁みて分かるのだった。ハンナのまっすぐな目を見ていると、束の間だけ、偽りの重荷を忘れられた。


 けれど、味方はハンナだけだった。


 その日の午後、ローザのもとを訪れた人物が、それを思い知らせた。


 皇帝の側近にして、近衛騎士のレオン。武人らしい鋭い目つきの男は、部屋に入るなり、値踏みするような視線をローザに向けた。


「皇妃様」


 慇懃な口調だが、その奥には明らかな棘があった。


「陛下が、あなたを傍に置くと決められた。私はその意に従う。だが――」


 レオンは、一歩踏み込んだ。


「私は、あなたを信用してはいない」


 ローザは、息を呑んだ。


 まさか、正体に気づいているのか。冷や汗が背を伝う。けれど、レオンの言葉は、それとは違った。


「婚礼の前後から、あなたの様子はどうにも不自然だ。陛下が何を考えておられるのか、私には分からん。だが、私の役目は、陛下をお守りすることだ。それだけだ」


 彼は、まっすぐにローザを見据えた。


「もし、あなたが陛下に害をなす者なら――私が、この手で排除する」


 冷たい刃のような言葉だった。


 その眼差しには、武人としての一途さが宿っていた。皇帝への忠誠だけを支えに生きてきた男の、揺るぎない覚悟。だからこそ、ローザは恐ろしかった。私心のない者ほど、欺くのは難しい。


 ローザは、何も言い返せなかった。彼の言葉は、敵意ではなく、忠誠から来ている。それが分かるだけに、なお苦しかった。


「肝に銘じておくことです」


 レオンは一礼すると、踵を返した。扉へ向かいかけて、ふと足を止め、振り返らぬまま、低く言い捨てる。


「化けの皮は――すぐに、剥がれる」


 その一言を残して、彼は去っていった。


 扉が閉まり、ローザはひとり、その場に立ち尽くした。


 心臓が、まだ早鐘を打っている。レオンの鋭い眼差しが、瞼の裏に焼きついて離れない。あの男は、決して欺けない。いつか、必ず、ほころびに気づくだろう。


「皇妃様……?」


 ハンナが、心配そうにローザの顔を覗き込んだ。


「大丈夫よ」


 ローザは、努めて微笑んだ。


 けれど、心の奥では、はっきりと悟っていた。この宮廷は、味方よりもずっと多くの、鋭い目に満ちている。少しの油断も、許されはしない。


 窓の外には、広大な宮廷の庭園が広がっていた。美しく、けれど、どこまでも油断のならない場所。


 偽りの皇妃の戦いは、まだ、始まったばかりだった。


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