第48話
皇帝の指が、動いた。
ローザは、息を詰めて、その顔を見つめた。
長い、長い沈黙のあと。
固く閉ざされていた、皇帝の瞼が、ゆっくりと震え――そして、開いた。
焦点の定まらぬ瞳が、わずかに彷徨う。やがて、その視線が、傍らのローザを捉えた。
乾いた唇が、かすかに動く。
皇帝が、最初に呼んだ名は――。
「……ローザ」
それは、姉の名でも、皇妃という肩書きでもなかった。彼女自身の、本当の名前。
意識が朦朧とする中で、まず口をついて出たのが、その名だったこと。それは、何よりも雄弁に、彼の心を物語っていた。生死の境を彷徨いながら、彼の意識は、ローザを求めていたのだ。
ローザの目から、こらえていた涙が、堰を切ったようにあふれ出した。
「陛下……! ああ、陛下……!」
ローザは、皇帝の手を、両手で握りしめた。
その手は、もう、氷のように冷たくはなかった。かすかに、けれど確かに、生きた温もりが、戻ってきていた。
「お前は……ずっと、傍に……?」
皇帝が、掠れた声で問う。
「はい。ずっと、お傍に」
ローザは、涙ながらに、微笑んだ。
「陛下を、お一人にはいたしません。決して」
皇帝の瞳に、深い感情が浮かんだ。誰も信じられず、孤独に生きてきた男。その彼を、命を懸けて繋ぎとめた女が、いま、目の前にいる。
「……生きて、いるのだな。私は」
「はい。生きておられます」
ローザは、力強くうなずいた。
「もう、大丈夫でございます。毒は、解けました。あとは、ゆっくりと、お休みください」
皇帝は、安堵したように、目を閉じた。だが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
その笑みは、ローザがこれまで見た、どの表情よりも穏やかだった。長年、毒に蝕まれ続けてきた身体。それが、ようやく、その重荷から解き放たれたのだ。安らかな寝息を立て始めた皇帝を見て、ローザもまた、深い安堵に包まれた。
涙の、再会だった。
失いかけた命が、繋ぎとめられた。長く二人を蝕んでいた毒の影が、ついに、晴れたのだ。
ローザは、皇帝の寝顔を見つめながら、これまでの日々を思い返した。偽りの花嫁として、恐怖の中で輿入れした、あの夜。看破され、契約を交わし、密かに解毒を始めた日々。そして、いつしか芽生えた、本物の想い。すべてが、この瞬間に、報われた気がした。
部屋の外では、ハンナが、嬉し涙を流していた。報せを聞いた仲間たちも、安堵に胸をなで下ろした。
だが――。
すべてが、終わったわけではなかった。
皇帝は、命を取り留めた。だが、彼が瀕死に陥ったという事実は、すでに帝国中に動揺を広げていた。世継ぎなき皇帝の危機。それは、宮廷に、深い不安の影を落としていた。
大夜会で皇帝が倒れたことは、隠しようもなく、各地に伝わっていた。皇帝はもう長くないのではないか。継承はどうなるのか。そうした憶測が、貴族たちの間に、不穏に渦巻いていた。動揺を鎮めるには、皇帝が健在であることを、そして陰謀が完全に潰えたことを、はっきりと示さねばならない。
そして、何より――。
捕らえられた皇太后アマーリエ。その背後に伸びる、隣国ヴェルダの糸。黒幕ユリウス。それらは、まだ、完全には断たれていなかった。
ローザは、眠る皇帝の顔を見つめた。
愛する人は、生き延びた。だが、二人の戦いには、まだ、最後の決着が残されていた。
陰謀の根を、完全に断つために。
ローザは、固く心に誓った。皇帝が安んじて治められる国を、必ず取り戻す。そのためにも、残った敵の糸を、一本残らず断ち切らねばならない。けれど、それはもう、皇帝が回復してからの話。いまはただ、彼の安らかな眠りを、静かに見守るのだった。




