第41話
皇帝が、昏倒した。
緩やかだった毒が、別経路の追加投与によって、一気に致死量へと達したのだ。広間は、もはや収拾のつかぬ混乱に陥っていた。
世継ぎのない、いま。皇帝の死は、ただ一人の命の問題ではない。帝国そのものを、継承の混乱へと突き落とす。個人の命と、国家の命運が、いま、ひとつに重なっていた。
玉座が空けば、各地の貴族が、後継を巡って争うだろう。その混乱に乗じて、隣国が攻め込んでくるかもしれない。アマーリエの残党も、息を吹き返す。皇帝ひとりの死が、無数の命を、戦乱へと巻き込みかねないのだ。
動転する侍医たち。なすすべもなく立ち尽くす貴族たち。
その中で、ただひとり、ローザだけが、即座に動いた。
「陛下を、別室へ! 急いで!」
ローザは、鋭く指示を飛ばした。レオンが、すぐさま皇帝を抱え上げる。ローザは、その後を追って、静かな一室へと駆け込んだ。
寝台に横たえられた皇帝は、もはや意識がなかった。
呼吸は浅く、肌は土気色。脈は、危ういほどに弱い。毒が、全身を巡り、確実に命を蝕んでいる。
ローザの頭が、めまぐるしく回転した。
まず、すべきこと。それは、毒の巡りを、少しでも遅らせること。完全な中和には、隣国産の希少な生薬が要る。だが、それを探す間にも、皇帝の命は尽きてしまう。
ならば――まずは、時間を稼ぐ。
ローザは、持てる知識のすべてを動員した。
体内に回る毒の吸収を抑える応急の処置。血の巡りを緩やかにし、毒が心の臓に達するのを遅らせる手当て。母から受け継いだ知識が、こういうときこそ、真価を発揮した。
超常の力など、ローザにはない。あるのは、地に足のついた、薬草と医術の知恵だけ。だが、それこそが、いまこの瞬間、ただひとつの命綱だった。どの薬草を、どう使えば、毒の進行を遅らせられるか。母の薬草書の記述が、次々と脳裏に浮かんでは、ローザの手を導いていく。
「ハンナ! 私の薬籠を! それと、湯と布を!」
「はい!」
ハンナが、駆け出していく。
ローザは、手早く薬草を選び、すり潰し、皇帝の口へと含ませた。一刻一秒を争う、命がけの処置だった。
額に、汗が滲む。指先が、震えそうになる。
落ち着け。ローザは、自分に言い聞かせた。ここで動揺すれば、彼を失う。母なら、こんなときこそ、冷静だったはず。
幼い頃に見た、母の姿が脳裏をよぎる。どんなに重い病人を前にしても、母の手は決して震えなかった。その落ち着きが、患者に安心を与えるのだと、母は言っていた。ローザは、深く息を吸い、震える指先を、ぐっと押さえつけた。
どれほどの時が、過ぎただろう。
ローザの応急処置が、わずかに功を奏した。皇帝の呼吸が、かろうじて、安定を取り戻し始める。
だが、それは、ほんの一時しのぎにすぎなかった。
「……間に合った」
ローザは、額の汗を拭った。だが、安堵する暇はなかった。
毒は、まだ体内に残っている。応急処置で稼げた猶予は、ごくわずか。完全に中和しなければ、皇帝はやがて、再び危篤に陥る。
そのためには――異国産の、希少な生薬が要る。
「ですが……あれは、宮廷のどこにも、ございません」
ローザは、青ざめた。
稼げた時間は、あまりに短い。そして、命を救う鍵となる生薬は、この帝国には、存在しないのだ。
絶望的な、状況だった。
それでも、ローザは、諦めなかった。
愛する人を、必ず救う。その一念だけが、ローザを、突き動かしていた。
どこかに、必ず道はある。母なら、決して投げ出さなかった。ローザは、皇帝の冷たい手を握りしめ、固く誓った。あなたを、死なせはしない。たとえ、この身を擦り減らしてでも。
ローザの戦いは、ここから、本当の山場を迎えようとしていた。




