第34話
大夜会まで、残された日々は、わずかだった。
催しの日取りは、すでに公にされていた。皇太后が、その場で何を仕掛けてくるか。それは火を見るより明らかだった。残された時間で、二人は反撃の備えを整えねばならなかった。
ローザと皇帝は、レオンやハンナと共に、証拠固めに奔走した。毒の経路、使節の出入りの記録、皇太后と隣国を結ぶ糸。一つひとつ、慎重に積み上げていく。その過程で、皇太后の腹心とされる宰相グレゴールの名も、書状の端にたびたび顔を覗かせた。
だが、決定的な一手が、まだ足りなかった。皇太后と隣国のつながりを、誰の目にも明らかな形で示す証拠。それがなければ、大夜会での逆転は成らない。焦りと緊張が、日に日に募っていった。
張りつめた日々の中、その夜は、ふと訪れた。
遅くまで打ち合わせを続けたあと、二人だけが、私室に残された。灯りは、ひとつ。窓の外には、静かな月が懸かっている。
「お前は」
ふいに、皇帝が口を開いた。
「なぜ、ここまでするのだ。命を懸けてまで、私のために」
その問いは、これまで幾度も交わされたものだった。けれど今夜、皇帝の声には、答えを本当に知りたいという、切実な響きがあった。
ローザは、しばし、口ごもった。
言ってしまえば、もう、後戻りはできない。偽りの皇妃が、皇帝に想いを寄せるなど。けれど、命を懸けた戦いを前にして、ローザは、自分の心を偽りたくなかった。
「……お慕いしているからでございます」
声は、震えていた。
「いつの間にか、陛下をお慕いしておりました。だから、見捨てることなど、できなかったのです」
言ってしまった。ローザは、目を伏せた。
偽りの立場の自分が、こんな想いを口にする資格などない。拒まれるかもしれない。そう思うと、胸が苦しかった。心臓が、痛いほどに脈打っている。沈黙の一瞬が、永遠のように感じられた。
だが――。
皇帝の手が、そっと、ローザの頬に触れた。
ローザは、顔を上げた。皇帝の瞳が、すぐ近くにあった。そこには、冷たさはなかった。ただ、ひとりの男の、まっすぐな想いがあった。
「私も、だ」
皇帝は、静かに言った。
「誰も信じられぬはずだった。誰も、必要としないはずだった。だが――お前だけは、違った。お前といると、初めて、孤独ではないと思える」
その言葉は、飾り気がなく、それゆえに、まっすぐ胸に届いた。長く心を閉ざしてきた人が、精一杯の想いを、不器用に差し出している。ローザには、それが分かった。
ローザの目から、涙がこぼれた。
偽りから始まった関係。冷たい契約。けれど、二人の想いは、いつしか、本物になっていた。
皇帝の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
あの婚礼の夜の、形ばかりの口づけとは違う。今度のそれは、確かな想いの込められた、本物の口づけだった。
唇が、重なる。
長く孤独だった二人の心が、その瞬間、深く結ばれた。月明かりが、静かに二人を照らしていた。互いの孤独を知る者同士が、ようやくたどり着いた、確かな安らぎ。言葉を超えて、想いが通い合っていた。
やがて、唇が離れる。
ローザは、皇帝の胸に、そっと身を預けた。皇帝の腕が、優しくその背を抱いた。
偽りの夫婦が、ようやく、本物の夫婦になった夜だった。
二人は、しばらくの間、ただ寄り添っていた。明日からは、また過酷な戦いが待っている。けれど、この夜の温もりがあれば、どんな嵐にも立ち向かえる。ローザは、そう思えた。
だが――この幸福は、嵐の前の、束の間の静けさにすぎなかった。
その翌朝のことだった。
皇帝の密偵から、ひとつの報せがもたらされた。
ついに、姉ヴィオレッタの居所が、掴めたという報せだった。




