第32話
三日の猶予は、刻一刻と過ぎていった。
ローザは、その間、皇帝にすべてを打ち明けられずにいた。彼に話せば、巻き込んでしまう。皇太后の取引のことも、握られた証拠のことも。だが、ひとりで抱え込むには、あまりに重すぎた。
眠れぬ夜が、続いた。考えれば考えるほど、出口は見えなくなる。皇太后の差し出した二択は、どちらを選んでも、大切な何かを失うようにできていた。巧妙な、逃げ場のない罠だった。
ローザは、何度も、皇帝のもとへ薬を届けた。
その横顔を見るたびに、胸が苦しくなった。
もし、皇太后の取引に応じれば。皇帝を見捨て、解毒をやめれば。この人は、再び毒に蝕まれ、やがて命を落とすだろう。傀儡として、生かさず殺さず、もてあそばれて。
そんなこと、できるはずがなかった。
ローザは、薬を渡す皇帝の手を、じっと見つめた。かつて、ローザを庇って傷ついた、その手。不器用な優しさで、実家を守ってくれた、その人。
胸の奥が、締めつけられる。
ローザは、ようやく、自分の心の正体に気づいた。
これは――恋だ。
偽りの夫婦として始まった関係。冷たい契約から芽生えた、共犯の絆。それが、いつしか、ローザの中で、確かな想いへと育っていた。
いつからだろう。素顔で語り合った、あの月夜からか。実家を守ってくれた、不器用な優しさに触れたときか。それとも、刺客から庇われた、あの瞬間か。気づけば、この人は、ローザの心の真ん中に、深く根を下ろしていた。
この人を、失いたくない。たとえ、自分の命と引き換えにしても。
その想いを自覚した瞬間、ローザの迷いは、消えた。
三日目の朝。
ローザは、再び皇太后の宮へと向かった。アマーリエは、勝利を確信した顔で、ローザを迎えた。
「お決まりになりまして?」
優美な微笑みで、アマーリエは問うた。
「賢明な娘なら、答えはひとつ。ご自分の命を、選びなさいな」
ローザは、まっすぐにアマーリエを見据えた。
その瞳には、もう、迷いはなかった。
「お断りいたします」
静かな、けれど確かな声だった。
アマーリエの微笑みが、一瞬、凍りついた。
「……何ですって?」
「私は、陛下を見捨てません」
ローザは、はっきりと告げた。
「たとえ、私の正体が暴かれ、命を失うことになろうとも。陛下を裏切ることだけは、決していたしません」
部屋の空気が、張りつめた。
アマーリエの顔から、優美な仮面が、剥がれ落ちていく。穏やかだった目に、冷たい怒りが燃え上がった。
「愚かな娘ね」
アマーリエは、低く吐き捨てた。
「身代わりの分際で、命まで投げ出すというの。陛下に、それほどの価値があると?」
「価値の問題ではございません」
ローザは、ひるまなかった。
「私が、そうしたいのです。それだけでございます」
言い切った瞬間、ローザの胸は、奇妙なほど晴れやかだった。命を懸けた選択。それでも、後悔はなかった。自分の心に正直であれたことが、何よりも誇らしかった。
アマーリエは、しばし、ローザを睨みつけた。そして、ゆっくりと、酷薄に微笑んだ。
「いいでしょう。ならば――」
その声が、氷のように冷たく響いた。
「公の場で、暴いてさしあげましょう。あなたが、偽りの皇妃であることを。すべての貴族の前で、あなたの化けの皮を、剥がしてさしあげる」
宣戦布告だった。
破滅へのカウントダウンが、いま、始まろうとしていた。
ローザは、皇太后の宮を後にした。背後で、扉が重く閉じる。もう、引き返せない。けれど、ローザの足取りは、不思議と軽かった。覚悟を決めた者だけが知る、奇妙な静けさが、胸に満ちていた。




