第31話
証拠がある。その一言が、ローザの足元を、根こそぎ崩そうとしていた。
「お顔の色が、優れませんわね」
アマーリエは、ローザの動揺を楽しむように、ゆったりと言った。
「ご心配には及びません。私とて、事を荒立てたいわけではないのです。むしろ――あなたに、ひとつ、ご提案があってお呼びしたのよ」
ローザは、唇を噛んだ。
「提案、ですか」
「ええ。とても、簡単なこと」
アマーリエは、優美に微笑んだ。だが、その微笑みの奥には、毒が滲んでいた。
「陛下を、お見捨てなさい。あの方の解毒など、おやめなさい。そして、私の側におつきなさい。そうすれば、あなたの正体は、決して明かしません。命だけは、助けてさしあげましょう」
冷たい取引だった。
皇帝を裏切れば、命を助ける。裏切らなければ、正体を暴き、破滅させる。ローザに、選択を迫っているのだ。
あまりに一方的な、悪意に満ちた取引。けれど、皇太后は、それを慈悲のように差し出してみせた。その厚顔さが、かえってこの女の恐ろしさを物語っていた。
「なぜ、私を……」
「あなたは、邪魔なのよ」
アマーリエの声が、低くなった。
「あなたが、陛下の毒を解いてしまう。それが、私の計画を狂わせている。あなたさえいなくなれば、すべては元どおり。だから、選びなさい。陛下か、ご自分の命か」
ローザは、めまいを覚えた。
あまりに、残酷な選択だった。皇帝を見捨てれば、彼は再び毒に蝕まれ、命を落とす。見捨てなければ、自分が破滅する。どちらを選んでも、誰かが犠牲になる。
しかも、これはローザ一人の問題ではなかった。正体が暴かれれば、皇帝の威信も、アーベライン家も、共に崩れ去る。多くの人の運命が、自分の選択ひとつにかかっている。その重さに、ローザは押し潰されそうだった。
「お返事は、急ぎませんわ」
アマーリエは、扇を弄びながら言った。
「三日、差し上げましょう。三日のうちに、お決めなさい。賢明な、ご判断を期待しておりますわ」
ローザは、何も答えられぬまま、皇太后の宮を後にした。
自室へ戻る道すがら、ローザの頭の中は、混乱していた。
なぜ、皇太后は、自分の正体を知っていたのか。秘密を知る者は、ごくわずかなはず。皇帝と、ローザ自身。それと――失踪した、姉。
ローザの足が、止まった。
まさか。姉が、しゃべったのか。いや、姉は囚われの身。自ら明かすとは思えない。ならば、姉を囚えている、あの異国の男が。
姉を囚える者。隣国の使節。そして、皇太后へと流れた、身代わりの証拠。
ローザの中で、ばらばらだった謎が、また一つ、符合した。
すべては、同じ黒幕のもとで、結びついている。姉の失踪も、皇帝の毒も、そしていま自分が握られている弱みさえも。
顔も知らぬその黒幕は、まるで盤上の駒を動かすように、何もかもを意のままに操っている。姉を、皇帝を、皇太后を、そして自分を。その周到さに、ローザは底知れぬ恐ろしさを覚えた。
その夜、ローザは眠れなかった。
三日の猶予。残酷な二択。どう転んでも、破滅が待っている。
窓辺に立ち、ローザは月を見上げた。
守りたいものが、あまりに多すぎた。皇帝。実家。姉。そして、自分自身。そのすべてを、いったいどうすれば守れるのか。
かつての自分なら、ただ運命に流されるだけだったろう。家の片隅で、声もあげずに。けれど、いまは違う。たとえ追い詰められても、唯々諾々と従うつもりはなかった。母から受け継いだ知恵と、共に戦ってくれる仲間がいる。
答えは、まだ、見つからなかった。けれど、諦めるという選択肢だけは、ローザの中になかった。




