第30話
皇太后の宮は、しんと静まり返っていた。
前回の茶会とは違い、今日は人払いがされていた。広い部屋には、皇太后アマーリエと、ローザの二人だけ。穏やかな調度に囲まれながら、その空気は、刃のように張りつめていた。
「よく来てくださいましたね、皇妃様」
アマーリエは、いつもの優美な微笑みを浮かべた。だがその目は、笑っていなかった。
「今日は、折り入って、お話ししたいことがございましてね」
ローザは、背筋を伸ばし、静かに対峙した。何を仕掛けてくるのか。気を抜けば、たちまち呑まれる。
この人払い。穏やかな笑みの裏の、ただならぬ気配。今日のアマーリエは、これまでとは違う。何か、決定的な手札を握っている。ローザは、そう直感していた。だからこそ、決して隙を見せてはならなかった。
「最近、皇妃様は、ずいぶんとお忙しいご様子。あちこちで、いろいろと、嗅ぎ回っておいでのようで」
ローザの心臓が、ぴくりと跳ねた。
気づかれている。こちらの調査が、皇太后の耳に入っているのだ。
「何のことでございましょう。私はただ、皇妃としての務めを果たしているだけでございます」
ローザは、平静を装って応じた。
アマーリエは、扇を広げ、ゆっくりと口元を隠した。
「とぼけなくとも、よろしいのよ。あなたは、聡い方。陛下の毒のことも、とうにお気づきなのでしょう。そして、それを、解いておられる。陛下のお身体が、近頃お元気になられたのは、あなたのおかげですものね」
言葉のひとつひとつが、鋭い刃だった。皇太后は、ローザの動きを、すべて見抜いていた。
「皇太后様は……何が、仰りたいのですか」
ローザは、視線をそらさなかった。
アマーリエは、扇を閉じた。そして、ゆっくりと立ち上がり、ローザのほうへ歩み寄った。
「あなた、ずいぶんと、出すぎた真似をなさっているわね」
その声から、優美な仮面が、するりと剥がれ落ちた。
「身のほどを、お考えなさい。あなたのような、地味な娘が」
ローザは、息を呑んだ。
地味な娘。その言葉が、何を意味するのか。アマーリエの目が、冷たく光った。
「ええ、そう。私は、知っているのよ」
アマーリエは、ローザの耳元で、静かに囁いた。
「あなたは、本物の皇妃ではないでしょう。ヴィオレッタ・フォン・アーベラインではない。その身代わりの、妹のほうだということを」
ローザの全身から、血の気が引いた。
最も恐れていた秘密。決して知られてはならなかった正体。それを、よりにもよって、最大の敵に握られていた。
頭の中が、真っ白になる。ここで認めれば、終わりだ。だが、否定したところで、相手がこれほど確信を持っている以上、ごまかしは効かないだろう。ローザは、奈落の縁に立たされた心地がした。
なぜ。どうやって。問いただす間もなかった。
アマーリエは、勝ち誇ったように、微笑んだ。
「驚いた顔。可愛らしいこと。ええ、すべて、存じ上げておりますわ」
ローザは、必死に動揺を抑えようとした。だが、その手は、わずかに震えていた。
「ご安心なさい。まだ、誰にも言ってはおりませんよ。けれど――」
アマーリエの瞳が、酷薄に細められた。
「証拠なら、あるのよ」
その一言が、ローザの心を、深く貫いた。
証拠。いったい、どんな。身代わりであることを示す、確たる証。それを、皇太后は手にしているという。もしそれが公になれば、ローザの命はもとより、皇帝の威信も、アーベライン家も、すべてが崩れ去る。
ローザは、震える拳を、ぎゅっと握りしめた。
窮地だった。これまでで、最大の。けれど、ここで膝を折るわけにはいかない。ローザは、青ざめながらも、アマーリエの冷たい瞳を、まっすぐに見返した。




