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身代わり花嫁は、皇帝陛下に正体を知られている  作者: 小林翼


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第25話

 よく晴れた日のことだった。


 皇帝が、ローザを郊外の視察に誘った。表向きは、領内の様子を見て回るという名目。だが、張りつめた宮廷を離れ、二人だけで過ごす、貴重な時間でもあった。


 馬車は、緑豊かな田園を進んでいった。


 窓の外を流れる景色に、ローザは思わず目を細めた。色とりどりの花が咲き、小川がきらめき、遠くには穏やかな山並みが連なっている。宮廷の重苦しい空気とは、まるで別の世界だった。


 張りつめた日々を忘れ、ローザの心は、久しぶりに軽くなっていた。隣に座る皇帝も、いつもの厳しい表情を解いて、どこか寛いだ様子だった。


「美しい眺めですね」


 ローザが、ぽつりとこぼすと、皇帝もまた、窓の外へ目を向けた。


「ここは、私が幼い頃、ひとりでよく抜け出してきた場所だ」


 意外な言葉だった。


「宮廷にいると、息が詰まった。だから、こっそり馬を駆って、この景色を眺めに来た。誰にも、見つからぬように」


 孤独な少年が、たったひとりで安らぎを求めた場所。ローザは、その情景を思い浮かべて、胸が締めつけられた。


 今日、彼はその秘密の場所に、自分を連れてきてくれた。誰にも見せたことのない、心の拠りどころを。それが何を意味するのか、ローザにはなんとなく分かる気がした。皇帝もまた、少しずつ、自分に心を開いてくれている。


 馬車を降り、二人は小高い丘を歩いた。


 風が、心地よく頬を撫でる。ローザは、道端に咲く薬草を見つけては、その効能を皇帝に語った。


「これは、傷に効く草です。すり潰して塗れば、血が止まります。あちらの花は、煎じて飲めば、よく眠れるようになりますわ」


 皇帝は、興味深そうに耳を傾けた。


「お前は、本当に何でも知っているのだな」


「母が、教えてくれました。世界には、人を助けるものが、こんなにたくさんあるのだと」


 ローザは、微笑んだ。


 偽りも、陰謀も、毒も。すべてを忘れて、二人はただ、穏やかな時間を分かち合った。


 丘の上に腰を下ろし、遠くの景色を眺める。言葉は、いらなかった。ただ並んで座っているだけで、胸が満たされていく。


 風が、二人の髪を揺らした。鳥のさえずりと、葉のざわめき。それ以外、何の音もない。宮廷では決して味わえない、ゆるやかで満ち足りた時間が、静かに流れていった。


「ローザ」


 ふいに、皇帝が、その名を呼んだ。


「お前と過ごす、こういう時間が――嫌いではない」


 ぶっきらぼうな、けれど精一杯の言葉だった。


 ローザの頬が、わずかに染まった。


「私も……陛下と過ごすこの時間が、好きでございます」


 言葉にした途端、胸の奥が、ふわりと温かくなった。誰かにこんなことを告げる日が来るとは、思ってもみなかった。家の片隅で、ひっそりと生きてきた自分が。


 二人の視線が、やわらかく交わる。


 偽りの夫婦が、束の間、本物の心を通わせていた。この瞬間だけは、契約も立場も関係ない。ただ、ひとりの男と、ひとりの女として。


 ローザは、思った。


 このまま、時が止まればいいのに、と。


 だが――。


 その願いを、断ち切るように。


 茂みの奥で、ガサリと、不穏な音がした。


 皇帝の表情が、瞬時に張りつめる。彼は、ローザを庇うように、すっと立ち上がった。


 次の瞬間。


 茂みから、黒装束の影が、いくつも飛び出してきた。


 手にした刃が、陽光を浴びて、冷たく光る。あれほど穏やかだった空気が、一瞬で凍りついた。ローザの全身が、恐怖に強張る。


「――刺客か!」


 皇帝が、鋭く叫んだ。


 穏やかだった景色が、一瞬にして、殺気に満ちた戦場へと変わった。


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