第五話:旅立ちの準備、そして王都への地図
王都魔導博覧会まで、あと二週間。
オルテンシアの街では、僕とティナの予測を頼りにする商人の姿が日常的になっていた。けれど、僕たちの心はすでに、オルテンシアのその先にある巨大な舞台――王都へと向かっていた。
準備は、想像以上に過酷だった。
博覧会に出展するためには、単に相場を当てるだけでは足りない。僕たちの「経済学」を形にする、革新的な魔導具が必要だった。
「アルト、この計算式はどう? 過去十年間の魔素相場と、王都の魔導士ギルドが発表した気圧変動データを統合したの。これなら、特定の地域における魔素供給のボトルネックを事前に特定できるはずよ」
屋根裏部屋のテーブルには、無数の羊皮紙が重なり、グラフや数式が埋め尽くされている。ティナは寝食を忘れ、僕の分析と彼女の数式を融合させるために奔走していた。彼女の瞳には、かつての「家出した令嬢」の面影は薄れ、商才に目覚めた若き戦略家の意志が宿っている。
「……いい線だ。でも、これに『魔導管の圧力損失』の係数を加えないと、王都のような巨大な魔法都市では誤差が出る」
僕はペンを走らせ、数値を書き加える。
僕たちは、博覧会への出展物として、**『魔素流動の予兆検知器』**という魔導具を設計していた。それは、複雑な市場の動きを視覚化し、誰にでも「買い時」と「売り時」を教えてくれる画期的な道具だ。
「これがあれば、相場に翻弄される庶民が減る。……ヴィクトルみたいな商人に、市場を操作されることもなくなるわ」
ティナが満足そうに頷く。僕たちの目的は単なる利益ではない。市場という戦場で、真っ当な努力をする人間が報われる世界を作ることだ。
準備の合間、二人は市場へ最後の買い出しに向かった。
博覧会に持参する機材を保護するための強化魔導革、王都までの旅路で使う携帯用魔導コンロ、そして……何より大切な、二人分の「正装」が必要だった。
「……ねえ、アルト。これ、どうかな?」
服屋の店先で、ティナが白いブラウスと、淡い青色のスカートを合わせてみせた。貴族の令嬢としての彼女を知る人は驚くだろうけれど、今の彼女は、オルテンシアの宿屋の看板娘として、とても誇らしげに見える。
「……似合っているよ。ティナらしい」
「もう、アルトったら。素直じゃないんだから。……じゃあ、あなたもこれにしましょう!」
彼女が僕に押し付けたのは、紺色のシックなジャケットだった。いつもエプロン姿の僕には少し重く感じたけれど、袖を通すと、不思議と背筋が伸びる。鏡の中には、子供じみた宿屋の息子ではなく、一人の商人として博覧会へ挑む僕の姿があった。
「ねえ、アルト」
帰りの道すがら、夕焼けに染まる街を歩きながら、ティナがふと呟いた。
「王都に行ったら、私の家族に会うかもしれない。……彼らはきっと、私のこの格好も、あなたのことも、認めないと思う。私の血筋や家格のことばかり言うはずよ」
「それでも、君は帰らないんだろ?」
僕は彼女の目を見て言った。彼女は小さく頷き、僕の服の袖をぎゅっと掴んだ。
「ええ。帰らないわ。……だって、私の未来はもう、この街であなたと作ったから。博覧会が終わっても、私はあなたの隣で宿屋の帳簿をつけていたいもの」
その言葉は、どんな相場の分析よりも、僕の心を揺さぶった。
王都への旅は、僕たちにとっての「審判の日」でもある。でも、二人でここまで積み上げてきた実績と、今日まで語り合ってきた無数の言葉があれば、どんな困難も計算の範疇だ。
旅立ちの前夜。
僕たちは『踊る子鹿亭』の屋根裏部屋で、最後の確認を行った。
机の上には、完成した『予兆検知器』が静かに青い光を放っている。
「準備はいい?」
「ええ。アルト、行きましょう。私たち二人の、本当の経済学を証明するために」
宿屋を出る時、母さんが少しだけ寂しそうな顔で、でも背中を押すように笑ってくれた。
「あんたたちがいないと、この宿屋は静かすぎて寂しいよ。……帰ってきたら、最高のワインを開けて待ってるからね」
僕たちは頷き、荷物を背負った。
王都への馬車が待つ広場へ。
そこには、僕たちの人生を変えることになる、光り輝く未来が待っている。
10歳の僕たちにはまだ早いと言われるかもしれない。けれど、僕たちはもう、誰のレールの上も歩かない。
オルテンシアの街を背に、僕とティナは一歩を踏み出した。
それは、少年の冒険であり、少女の独立であり、二人で歩む、ささやかで強かなスローライフの、新たな物語の始まりだった。




